来島義男生誕百年記念その1
これは苦労しました。開けてはならぬパンドラの箱を開けた気分です。考えてみたら、生誕百年って1943年からでも40年、一話で終わるわけは無かったです。長いので2話に分けました。
本当に、どうして、こうなった!です。
キーワードの大サトーをやっと回収できました。
今回も生暖かい目でみてください。
1984年6月
某国営放送、放送大学・歴史講座。
「本日は、昨日に続いて世界に冠たる別府造船グループ総帥、来島義男。その生誕百年を記念して彼の生涯について、作家で東京産業大学・臨時講師でも在らせます佐藤大輔先生に解説いただきます。先生、本日も宜しくお願いいたします」
「ありがとうございます。ご紹介いただきました佐藤でございます。本日は、来島義男の歴史について語る二日目となります。初日は、先の大戦までについて解説してまいりました。詳しくは、今後の再放送もしくは書店で放送大学の今月号をご購入ください」
*1
「さて佐藤先生、先の大戦を終わらせた人物とも言われている来島義男ですが、当時の国力から考えますと完膚なきまでの敗戦も考えられたと思いますが如何でしょうか」
「そうですね。例えて言えば、クリケットの試合で日本代表が西インド諸島代表に勝った様なものでしょうか」
「例えが良く分かりませんが、甲子園で地方の公立高校がPL学園に勝ったようなものでしょうか」
「その例えが良く分かりませんが、視聴者にはそちらの方が理解されるのでしょうか」
「……」
「話を戻しましょう。先の大戦については、別の講座にてお話があると思います。先ずは、来島義男についてです」*2
「そうですね。佐藤先生、それで戦後の来島義男についてですが、先ずは別府造船グループについてお話ください」
「別府造船グループ、来島財閥とも呼ばれています。傘下の企業としては、先ずは別府造船所。彼が、別府造船所を世界に冠たる企業グループに押し上げたのは昨日お話しております。戦後の別府造船所は、戦前の「太平洋の女王」と呼ばれた「阿蘇丸」の後継として、6万トンの「阿蘇Ⅱ」を初め豪華客船を初め、大型タンカー、大型コンテナ船を主に製造しております。先日も、世界で初の10万トンクルーズ船「富士」を竣工させたのはニュースでご存知かと思います」
「先生、造船以外の企業は如何でしょうか」
「そうですね。戦前から、傘下とした神戸製鋼所。そして、カップヌードルの日出食品。運輸関係ですと、ヤンマー、本田技研。そして、石油関連でいえば、貝島石油。航空関連では、九州飛行機。それから、電気製品として別府電気工業、現在のBEC(Beppu Electric Company)ですね。金融関連としては、西日本銀行を筆頭とした金融グループを傘下に収めています。そして、戦後に中島飛行機と日商が傘下となりました。そして、戦後に航空会社として日本空輸を創設しています。それぞれが、更に傘下に諸々の企業を持ち、日本でも有数の財閥と言えるでしょう」
「こうして、見ますと日本どころか世界の一流企業が揃っていますね」
「そうですね。世界で一つ一つが一流の企業をグループ傘下に収めていることが、来島財閥を世界に冠たると言わしめている訳です」
「来島義男の功績は、一企業人としてだけではありません。戦後は、僚友の中島知久平に強引に誘われて政界に進出しています」
「戦後の連合国との停戦がなった1944年から講和条約締結の1947年まで、来島義男はオブザーバー的な立場で商工大臣であった中島知久平、ひいては東久邇宮内閣を助け、時には外務大臣であった吉田茂と共に米国との講和会議にも随行員として列席しています」
「第一回講和会議での合衆国の態度に切れて、『ならば、戦争だ!』と言ったのは有名な逸話ですね」
「そうです。他の連合国とは違い米国との講和会議は紛糾することが多く、吉田外務大臣も『馬鹿野郎!』と言い、有名な『馬鹿野郎解散』を引き起こしています」
「来島義男の政界での活躍もそうですが、文化面でも日本の文化を世に広めたという功績は強いのでは無いでしょうか?」
「そうですね、特にマンガとアニメについては、明治生まれとは思えないほど、情熱を注いでいます。保守派でありながら進歩的な考えで、『中には別な人がいるんじゃないか?』とも言われたりしております。海外の観光客の定番でありますAKB。この町を漫画、アニメの聖地としたのは来島義男です。正に、お好きな人には、たまらない街になっています」
「さて、ここで1947年の来島義男の政界進出からをビデオにまとめていますので、ご覧ください」
1947年8月15日。日本は、合衆国との講和会議を締結し、実際の戦争よりも講和会議の方が長かったと言われる戦争が、ここにひとまず終結した。
講和会議締結をもって、東久邇宮内閣はその使命を終え、吉田茂を首相とする内閣が誕生した。
合衆国との講和会議において、義男は1942年2月から行われた日系人の強制収容に対する謝罪と補償を強く要求した。これは、1941年7月からの在米日本資産凍結の解除と共に日本側の講和条件の一つであった。同じく、日系人の強制収容をしたメキシコ、ペルー、ブラジルに対しては、アカプルコ、リマ、リオデジャネイロの沖合に戦艦と空母を1セットずつ派遣し、『ならば、戦争だ!』が言葉だけでは無いことを見せつけた。
3か国は、即時に謝罪と賠償をしている。また、戦中も日系人に寛大であったアルゼンチンには戦後に巡洋艦と軽空母を格安で売却している。
日本に対する煽りとも言える「ハルノート」について、米国内でも「あれはやり過ぎだろう」との世論もあり、「公明正大」で「正義の味方」でありたい米国民にとって何の罪も無い日系人の強制収容と財産の収奪は、連合軍兵士を人道的な立場で解放した日本と比べて、どちらが「卑怯者」であるかと自問自答せざるをえなかった。
合衆国との講和会議の締結により、第2次世界大戦は名目上終結した。事実上は、1943年11月の合衆国大統領選挙でルーズベルトの3選が阻止された時と言われている。
この時、一番得をした日本人と言えば、当時まだ九州に覇を唱える程度であった別府造船グループ総帥、来島義男社長その人であった。
義男は、1929年10月24日のウォール街おける株価の大暴落、そして暴落から続くおおよそ一週間に空売りと買戻しを繰り返し、その結果アホみたいな利益を上げることに成功していた。ニューヨークでぼろもうけした後、義男たちはその金を急いで処理すると、その足で客船ブレーメン号に乗船して一路ドイツへと向かい、ちょっとした買い物をした後、今度はシベリア鉄道を使って日本に帰国したのだが、処理しきれなかった株や、義男の趣味で敢えて処分しなった株が有り、在米日本資産凍結解除によりまたもや利益を得る事になった。義男が所有していた代表的株として、コカ・コーラやウォルト・ディズニー・カンパニーなどが有った。
1947年8月、合衆国との講和会議メンバーとしての活躍が認められ、その年の衆議院選挙にて大分県第2区より当選した義男は、運輸大臣として第1次吉田内閣に入閣した。
運輸大臣として最初に、国内の鉄道を全て狭軌から標準軌への改軌を行った。これは、国有鉄道、私鉄共に1435mmの標準軌にすることにより、相互乗り入れが可能な様にすることと、将来の新幹線導入にあたり新幹線車両をどこにでも乗り入れられる様にした。
新幹線については、戦前の弾丸列車構想から制式に整備新幹線として、北は札幌から南は鹿児島までの新幹線を整備することが決定した。
建設大臣となった僚友・中島知久平と共に、この時に札幌から鹿児島に至る新幹線用地、また全国の高速道路計画用地、東京都の環一から環八、東京外環道、首都圏中央連絡道路までの用地買収を時に強引に進めた。当時、東京都でさえ都心を離れると農地が広がっていて、車など見たことが無い人が殆どの時代に将来のモータリゼーションを予測し道路整備をしたことは、歴史家にさえ「まるで見てきたようだ」と言わしめた程の先見の明であった。*3
1951年からの第2次吉田内閣では、逓信大臣として入閣。この年2月、テレビ放送がNHKにより本放送を開始。また、8月には民放の日本テレビも放送開始。前年の1950年には、民間ラジオ放送として、AMの東京放送、文化放送、日本放送が放送開始されていた。
義男は、大臣として入閣以前より、ラジオ放送とテレビ放送に関して介入し、民間ラジオ放送として、東京放送、文化放送の2社が認められるところを日本放送も認めさせた。
日本放送は、後に総理大臣となる大友公平のブレーンとしてニューギニア戦線で暗躍した御宅裕司が社長を務めていた。戦前に「私設無線電信無線電話実験局」を開設していた御宅は、戦後私設放送局として亀戸ビルヂングに日本で初めてのFM局を開設し、ジャズやリズム&ブルース等を主体に放送していた。
そして、1950年の日本放送に続き、1951年1月に東京FMとして制式に放送を認められた。義男は、88Mhz-108MhzをFM放送用、テレビ放送は108Mhz以上と整備した。
義男は、吉田内閣入閣後直ぐに放送の一元化のために東京タワーの建設を吉田茂に認めさせ、東京都芝公園内に1947年9月に着工し1948年12月に完成させ、NHK初め全ての放送局の放送を東京タワーから行わせた。東京タワーは、高さ377.6mは富士山の高さの10分の1であり、高さ150mに3階建ての展望台と300mに2階建ての展望台がある。
合計5,000トンの鋼材が使われたが、その多くは神戸製鋼所で戦後スクラップにされた戦艦・金剛からのものであった。
1954年には、カラー放送が始まり、この年にはフジテレビとテレビ朝日が開局した。
吉田内閣は、2期8年の1955年で、これ以上の長期政権は政治の停滞と腐敗を生むとして、今後の首相も2期8年の規定を法制化し、終わりを遂げた。
次の首相は、中島知久平が就任し、義男は大蔵大臣として中島知久平を支えた。この時に、新幹線網と青函トンネルの予算を計上している。
大蔵大臣として、日本の個人所得税の最高税率65%を30%にした。また、住民税の上限も10%とした。大蔵省の官僚たちが猛反対したが、義男は「稼ぎの半分以上も持ってくってのは、どこの悪代官だ! 勤労意欲を向上させて日本全体の稼ぎを上げれば、十分に税収も上がるだろうが! いい大学出てて、それくらい分からないのか!」と一喝した。
この時に、酒税や燃料税にもメスを入れ、いわゆる二重課税は撤廃し、税率自体も下げている。この時に、ぜいたく税と言われた物品税も撤廃している。
義男は、「貴金属はまだしも、電気、ガス、テレビが贅沢かあ!」といい、自動車も含めて、全ての物品税を廃止している。
義男は、「これからは、オレの目の黒い内は4公6民以上にはさせない!」と宣言した。
義男は、次の内閣でも陸軍主計出身の大友公平を大蔵大臣として入閣させ、大蔵省に睨みを効かせた。
義男の僚友である中島知久平は、任期半ばの1957年に脳出血のため急死した。
義男は、「本来より10年は長生きし、お国のために働いてくれた」と弔辞を述べた。これは、当時の日本人の平均寿命より10年は長生きした意味ではと捉えられている。
中島飛行機は、中島知久平の遺言により別府造船グループの傘下に入ることになった。
次の首相に、義男を推す声も多々あったが、義男はこれを固辞し、岸信介が首相となった。しかし、1959年、日系人として初めて合衆国連邦議会の下院議員となったダニエル・イノウエが来日した際、当時の岸首相と面談し、イノウエが、「いつか日系人が米国大使となる日が来るかもしれません」と水を向けると、岸は「日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップを担っている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた『出来損ない』ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない」と答え、これが義男の耳に入り、岸信介を吉田茂と共に首相の座から蹴落とした。首相の座に居座ろうとした岸信介も、天皇陛下がダニエル・イノウエを宮中に招き謝罪し、「日系人が米国大使やいずれ米国大統領になれば、それは日本国の誉である」といい、岸首相の任命を解くと発表した事により、岸は日本にも居れなくなり満州へと渡って行った。
岸内閣の終わりにより、解散総選挙が行われ、この時75歳になっていた義男は大分2区の選挙区を次男の来島義宗に譲り、吉田茂が引退する参議院全国区に鞍替えしている。
参議院大分全県区には妻の茜が、1947年の第1回参議院選挙から議席を確保していた。茜は、女性の社会進出と地位向上に尽力した。義男は、妻の茜には頭が上がらないため、茜のやることには全面的に協力をした。
義男自身が、1921年に女性の入学を日本で初めて認める中浦高等工業学園を設立したり、女性の地位向上には昔から理解があった。この事を訊ねると、「人類の半分は女性なんだから、女性が活躍しないと、人類の能力の半分を使わない事になる」と言っていた。
1965年、前年に無事東京オリンピックを終えたことと自身も80歳を越えたため、この年の参議院選挙には出ずに政界を引退している。
ビートルズが来日した1966年に、TBSの『時事放談』で細川隆元と小汀利得が番組内で日本武道館を会場とすることに対して、ファンの少年少女を批判する言論を張り、彼らを「コジキ芸人」と罵倒した。
TBSの『時事放談』で、細川隆元と小汀利得が番組内で数回批判した。最初は5月22日の放送分で、主催者の一つである読売新聞社や「あんな連中に外貨の許可を与えるな」と大蔵大臣の福田赳夫を批判した。視聴していた首相の佐藤栄作が日本武道館の使用に難色を示す旨を秘書官に語り、読売新聞社主で日本武道館会長の正力松太郎に伝わった。本件は5月29日放送分でも語り、6月5日の放送で「夢の島でやればいいんだ」「こじき芸人だ」と発言した。
これを聞きつけた義男は、佐藤栄作と正力松太郎を自宅に呼びつけている。内容は語られることは無いが、来島邸から戻った佐藤栄作と正力松太郎は、手のひらを返したようにその態度を変えている。
TBSは、『時事放談』は番組改編され、義男の大好きな「兼高かおる世界の旅」が日曜朝の1時間番組になった。
義男は、「僻みっぽいジジーの御託を朝から流すよりも、こういう高尚な番組をもっといっぱい作るべきだね」と言ったと言う。
これを機に放送倫理・番組向上機構が作られ、個人や団体への誹謗中傷、暴力的な番組内容等は指導という名の規制が掛けられていった。言論の弾圧では無いかと言うマスコミも居たが、そういう人達はいつの間にか地方に左遷されたり、表舞台からの異動をさせられていった。個人で騒ぐなら構わないが、国民を煽りたてるような民主主義を気取った似非ヒーローだと義男は切り捨てている。
この様に、政界の中心から距離を置いては居たが、未だ政界への影響力は強く、歴代の首相へ助言と言う名の圧力を掛けていた。政界の大御所、フィクサーとも言われる義男だが、こと金に関しては非常に清廉潔白であり、元々が日本を代表する財閥の総帥であるため、参議院に鞍替えした後は「参議院は名誉職みたいなものなのだから、給料は要らねえよ」といい議員給与と議員歳費を返上している。
「ここまで、来島義男の政界での活躍を見てまいりましたが、佐藤先生如何だったでしょうか?」
「そうですねえ。来島義男の戦後の政界進出については賛否有りますが、本人は『中島知久平に唆されて』と言っていますが、政界進出後の別府造船グループの拡大を見れば、来島義男にとってはかなりの利益を得たのではないでしょうか」
「どういった点が利益と? 来島義男は非常に清廉潔白で税金をを下げたり、女性の社会進出にも貢献しておりますが」
「まず、講和会議の日系人の強制収容に対する謝罪と補償を強く要求したことですが、これは、1941年7月からの在米日本資産凍結の解除と共に日本側の講和会議の条件でしたが、これで一番利益を上げたのは間違いなく来島義男ですね。その後の日本でのコーラ・ブーム、そして、1971年のウォルトディズニー・ワールド開業と同時に、合衆国以外で初のディズニー・リゾート、東京ディズニーランドが開業しました」
「東京ディズニーランドは、昨年にディズニー・シーもオープンしました。今や、日本中どころかアジア中から観光客が集まっております。デートや修学旅行の定番ともなっています。それが、何か?」
「ウォルトディズニー・カンパニーの大株主が来島義男なんです。そして、東京ディズニーランドは別府造船グループの傘下です。在米日本資産凍結の解除が無ければ、こうはならなかったはずです。東京ディズニーランドの開業ももう少し遅かったと推測されます」
「良かったじゃないですか。ディズニーランドが早く出来て。何が、ダメなんですか? あれですか? 佐藤先生は、若者のデートスポットだからひがんでらっしゃるのでしょうか? そう言えば佐藤先生、浮いたお話を聞きませんが? やはり、完結した作品が一本しか無い点がもてない理由でしょうか?」
「完結作品が、一本しか無いは関係ないだろう! それに、オレは2丁目ではもてるんだあ!」
画面が突然、世界の名曲に変わり、テロップが流れる。
『ただいま、放送に支障が出ております。暫くお待ちください』
*1 1943までは、となりの山田様の「進め!別府造船所(仮)」また、555様の「赤船 戦艦「土佐」の復活」をご覧下さいませ。
*2 大戦の結果については、今後555様が「赤船 戦艦「土佐」の復活」の中で語って頂けるとかと存じます。いっそ、最後の作戦について架空戦記創作大会開催しても面白いですが。
*3 史実では、1945年で全国111,233台。戦前のピークは1940年の152,065台。乗用車に限って言えば1937年の60,054台がピークでした。
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