ソロモンの戦い ~南の国から1942~
いよいよ、新型機登場です!
1942年5月、北部ニューギニア ウエワク
アーア アアアア アーアー
アアー アアアア アー
ンンー ンンンン ンーンン
ンンン ンンン ンン
かあさん、ここ南国の朝は、爽やかな事なんてこれっぽちも無く、暑さには全く慣れない訳で……
「って、クソ暑いわあ!」「魔女のばあさんの呪いか!」
と、どこぞのイワンの様なことを言っているのは乾大尉であった。乾、樫出、加藤は大尉に。大多賀、松井は准尉に昇進していた。
「叫んでも暑さは収まりませんぜ! それに、それはクソ寒い時のセリフですよ。大多賀なんて静かなもんですよ」
「ん? そう言えば、静かだな? 一番、暑苦しい体型なのに」
「あいつ、泡吹いて倒れてるぞ!」
水をぶっかけて意識を回復した大多賀に、冷蔵コンテナから持ってきた冷えたラムネを飲ませながら
「暑いと思ったら、海に飛び込んで冷やせ! 皆、そうしてるぞ」と言うと
「自分は、泳げないんですよう」といつもの答えが帰って来た。
大多賀のために、露天風呂の様なものが海岸に出来た。それを見た乾は、
「子供用プールか?」と呟いた。
我々は、内地での機種変更を終え、第3航空軍から100機の作戦機を抽出して新設された第4航空軍として、ニューギニア北部ウエワクに進出していた。司令官は、第3航空軍から我々同様に昇進した遠藤三郎中将が就いた。
ウエワクは、海軍のラバウルに対抗して陸軍の南太平洋戦線の根拠地として整備された。
滑走路も3本造設され、港湾設備も整備された。その建設に当たった「田中土建工業」は、社長の先見の明で小松製作所が国産化したブルドーザーを多数購入し、人力に頼るそれまでの土木工事では到底不可能な短期間で工事を進めていた。
田中土建工業には、別府造船が出資していた。関東大震災の教訓から、迅速な復旧には機械化した土建集団が必要である! と、九州に覇を唱える別府造船グループ総帥、来島義男社長が田中土建工業に白羽の矢を立てた訳だが、何故に田中土建工業を選んだかに義男は「えっ? だって、昭和の太閤様だぜ」と意味不明の発言をして煙に巻いたと言う。
田中土建工業は、超大発にブルドーザー始め重機や建設機材を積載し、ニューギニア北岸及び東岸に陸軍基地を造設して回った。
田中土建工業の社長は、その仕事の速さから「閃光の角栄」と呼ばれた。
ウエワクは、ニューギニアにおける日本陸軍最大の航空基地が置かれ、連日ポートモレスビーからの連合軍の戦爆連合が訪れてくる事になった。
たかが、100機と少数の作戦機の第4航空軍ではあったが、少数であったがゆえに最新鋭機が優先的に配備されていた。
戦闘機は、キ63一式戦闘機「鍾馗改」、キ61二式戦闘機「飛燕」及び「飛燕Ⅱ」、キ45改・二式双発戦闘機「屠龍」と全て新型機で揃えられた。
残念ながら爆撃機だけは、お馴染みの99式双発軽爆撃機と97式重爆撃機二型乙であった。新型重爆の百式重爆撃機は、ビルマ戦線に重点配備されていた。これは、陸軍の連合軍に対する主戦場がビルマ戦線であり、南太平洋戦線は海軍が主力だったためである。
その99式双発軽爆撃機と97式重爆撃機二型乙も哨戒機としての仕事が主であった。
この頃には、単発の軽爆撃機は連絡機としての数機を残し、連合軍との最前線から下げられ中国戦線や満州に再配備されていた。当初は、シンガポールからスマトラ島、ジャワ島、ニューギニアへと続く航路の対潜哨戒に利用されていたが、そちらは99式双発軽爆撃改に取って代わられていた。乗員2名で別製対潜爆弾架台を一基搭載の軽爆撃機よりも、乗員4名で別製対潜爆弾架台を二基搭載の99式双発軽爆撃改の方が対潜哨戒では有力であった。99式双発軽爆撃改は磁気探知機と電探を装備し、連合軍の潜水艦を駆逐していった。
新規に開発されたのは対潜水艦用の迫撃砲弾のみであり、砲弾そのものも、信管の改造のみで、既存技術の寄せ集めであり、信頼性が高く、かつ安定して製造されるようになっている。
キ63一式戦闘機「鍾馗改」は、お土産船団(来島義男命名)が持ち帰ったFW190A-2を参考に鍾馗を改良したと言うか、ほぼFW190であると言っても過言では無い。
エンジンのハ109の排気量37,5ℓをボアアップし、41ℓにし出力を1800馬力とし、水メタノール使用時には2100馬力を叩き出し、試験飛行では最高速度660kmを記録した。エンジンに関しては、別府造船が出資する本田技研工業が中島飛行機からライセンスを取得し改良し、ハ109-HOと名付けられた。
キ61二式戦闘機「飛燕Ⅱ」は、ハ40の開発に悪戦苦闘する川崎キ61に、お土産船団(来島義男命名)が持ち帰ったDB601Nを搭載したものである。川崎のハ40は、「国産の水冷エンジンは10年経ってもモノにならん!」と九州に覇を唱える別府造船グループ総帥、来島義男社長が言う通りであり、陸軍の命令で、これまた本田技研工業が三菱の金星をライセンス生産したハ112-HOを搭載したものが、二式戦闘機「飛燕」として制式化された。
「飛燕Ⅱ」は、お土産船団が持ち帰ったDB601N 60基の内56基を使い56機が制作された。DB601Nに水メタノール噴射装置を取付け1500馬力で最高速度630kmと飛燕の600kmより30km優速であった。高高度でも出力が落ちない水冷エンジン搭載機は、高高度からの爆撃機を迎撃するため、独立5個中隊が創設された。首都防衛に1個中隊。漢口、広東ともに1個中隊。シンガポールとウエワクに1個中隊である。当初、エンジンも元の持ち主たる来島社長は、北部九州への配備を願ったが、優先度は低いとされた。これが、後の「日出の平和は俺達が守る!」と独自の防空体制を作る契機となった。
飛燕Ⅱ中隊は、定数12のところウエワクの中隊は8機であった。
キ45改・二式双発戦闘機「屠龍」は、こちらも本田技研工業が三菱の金星をライセンス生産したハ112-HOを搭載していた。ハ112-HOは、最高出力1400馬力、水メタノール使用時には1700馬力であり、「飛燕」「屠龍」そして百式司令部偵察機Ⅲ型に積まれ、陸軍の主力エンジンとまで呼ばれるようになっていた。
本田宗一郎は、1936年6月7日の全日本自動車競技大会に、フォードに自作の排気式過給機、ターボチャージャーを取り付けたレース用車両「ハママツ号」で、弟の弁二郎とともに出場するが事故によりリタイアした。
本田はこの大会における第1レースとなる「ゼネラルモータース・カップ」に出場し、このレースで事故にあった。15周で争われたこのレースで、本田が駆る「ハママツ号」はトップを独走したが、13周目に突如ピットアウトしてレーストラックに進入してきた周回遅れの車両を避けきれず、時速およそ100 kmで激突したハママツ号は宙を飛び、コクピットから放り出された本田と弁二郎はダートトラックの土の地面に叩きつけられ、ともに負傷した。
この事故により、本田は右目の上に裂傷を負い、左手首を骨折し、左肩も抜け、これらは事故の大きさの割には軽傷だったが、弁二郎は背骨を骨折する重傷で、6ヶ月の入院生活を送ることになった
梅雨の冷たい雨が降る日に、宗一郎と弁次郎が入院している病院にその男は現れた。ユーハイムのバームクーヘンを携えて。見た目冴えないオッサンだが、着ているものは高そうな身なりであった。
もちろん、九州に覇を唱える別府造船グループ総帥、来島義男社長その人であった。
義男は、新たな会社を興してみないかと出資の話を持ってきた。二人の治療費も持つことも約束し……
本田宗一郎は、義男の話を受け翌年1937年に本田技研工業株式会社を創立する。
後に本田宗一郎は、あの日クロスロードで悪魔に出会ったのかも知れないと謎の言葉を残している。事実、その後の本田宗一郎は悪魔に魂を売ったかのように数々の成功を手に入れるのであった……
キ45は、双発複座であったが、キ45改は単座とし出力の向上と合わせ戦闘機本来の機動性を持つに至っていた。機首に集中配置した機銃により大型機への攻撃を主としていた。航空士官学校での加藤少佐との意見交換、その際に乾達が言ったことが現実化した機体となっていた。
そして、キ45改・二式襲撃機である。こちらは、二式双発戦闘機「屠龍」とほぼ同じ機体である。違いとしては機体の防弾装備が、二式双発戦闘機「屠龍」が主要個所への防弾としたのに対し、二式襲撃機は99式襲撃機譲りのバスタブ型装甲を持ち、防弾装備の総重量が500kgを越えていた。二式双発戦闘機「屠龍」は、防弾装備の総重量は200kgであった。「鍾馗改」「飛燕」共に同程度の防弾装備総重量であり、決して防御が弱い訳では無く、二式襲撃機が取り立てて防弾装備が充実していたと言えよう。襲撃機の用途から下部への防弾を考えてバスタブ型装甲としたためである。
このため、二式双発戦闘機「屠龍」が最高速度620kmなのに対して、二式襲撃機は580kmに甘んじていた。
戦闘機が、鍾馗改2個中隊24機、飛燕が2個中隊24機、飛燕Ⅱが1個中隊8機、屠龍が1個中隊12機。戦闘機合計68機。
爆撃機が、99式双発軽爆撃機改と97式重爆撃機二型乙改が共に1個中隊で計18機。
襲撃機が、二式襲撃機が1個中隊9機と独立飛行中隊の3機(もちろん、乾中隊)計12機。
そして、百式司令部偵察機Ⅲ型が1個中隊6機。
これに、連絡機としての98式軍偵察機が6機。定数110機が、第4航空軍の陣容となっていた。
航空機の他に、ウエワクの北のビスマルク海には、超大発が補給に走り回り、その護衛に高速艇丙・カロ艇が活動し、出没する連合軍のPTボートに対抗していた。
PTボートに対しては、昼は二式襲撃機が、夜は電探を搭載した99式双発軽爆撃機改が運用された。いずれも、攻撃が八十九式重擲弾筒の八十九式榴弾装備の別製爆弾架台乙を搭載し、PTボートを発見したら投網の様に八十九式榴弾をまき散らし駆逐していた。
彼らの合言葉は、「一匹残らず駆逐してやる!」であり、やがてニューギニア北岸から連合軍のPTボートが居なくなったという。
ウエワク飛行場には、超短波警戒機乙(出力50kw、最大300km)が施設され敵機の襲来を警戒していた。
更には、電探搭載の97式重爆撃機二型乙改が常にセントラル山脈上空を旋回し、ポートモレスビー方面からの襲来に備えていた。
敵機が発見された場合は、常にウエワク上空で警戒している1個小隊が先行し、その後ウエワク飛行場から迎撃機が全力出撃するという態勢を作っていた。
積極的な攻撃を好む日本陸軍とは思えないが、第4航空軍司令官の遠藤三郎中将は「あっじがら来るもなあ、わじゃわじゃ、こづらがらいぐこたあねえべ」と意に返さなかったと言う。
そう、遠藤中将の訛りはひどかった……
山形県置賜出身の遠藤三郎は、陸士26期恩賜・陸大34期恩賜と辻正信や瀬島隆三の様に主席までは行かないが非常に優秀であった。が、訛りがひどかった。フランス陸軍大学校時代は、発音の近さゆえ会話に困らなかったという。フランス陸軍大学の教官からも「君の発音は生粋のフランス人と変わらない」とまで言われたという。標準語よりもフランス後の方が上手いとも言われるほどであり、この遠藤中将の訛りのせいで、第4航空軍の搭乗員の名前が連合軍に間違って伝わっていく事に……
そんな遠藤中将だったが、航空指揮官としては非常に優秀であり、部下の損失を嫌うため積極的な攻勢を取ることは無かったが、確実に連合軍の戦力を削っていった。
ポートモレスビーには戦闘機搭乗員のガス抜きとして戦闘機だけの空襲、いわゆるファイタースィープを仕掛けることと、夜間の襲撃機による高速侵入高速離脱での爆撃に終始していた。海軍の手伝い仕事ということも有るが、「こんな異国で死ぬことは無い。撃墜されてもウエワクの近辺なら生還できる。ポートモレスビーの途中のオーエンスタンレー山脈には、魔女が居るから向こうでは絶対に撃墜されるな」の遠藤中将の方針は徹底された。
「セントラル山脈上空のキ21改警戒機より入電。ポートモレスビー方面より機影多数!」
「了解! 警戒機には戻って来いと、上空待機の小隊は援護に向かわせろ! 全戦闘機発進させろ!」
やがて、電探でも敵編隊を探知し追加情報が入って来る。
「高度8,000メートル、大型機を含む戦爆連合多数と思われます!」
更に先行した小隊より、B17を含む約100機の編隊を確認と連絡が入り、司令部より副指令による標準語の指示が飛ぶ。
「飛燕Ⅱ型中隊と外野中隊と樫出小隊は、高度9,000まで上がって敵編隊の頭を抑えろ! 敵編隊の高度を下げさせるんだ! 他は、高度7,000で待機」
高高度においても出力が落ちない水冷エンジンの飛燕Ⅱ型8機と、排気式過給機装備のハ112-HO-ル搭載の屠龍4機と二式襲撃機3機が高度9,000メートルまで上昇し、敵B17編隊に向けて攻撃を加える事に。
そして、一番槍は防御力が一番高い乾隊と決まっていた。
「隊長、何で襲撃機の自分たちが、爆撃機の迎撃に向かってるんですか?」
うん、まっつ、その疑問はもっともだ。自分もそう思う。我々は爆撃機乗りだ。
「しかも、お前ら頑丈だから一番槍なって…… 自分は泳げないんですよう」
うん、大多賀、後半は良く分からないが、全般に気持ちは良く分かる。
ことは、第4航空軍・飛行第11戦隊・第4中隊の中隊長にして飛行第11戦隊先任中隊長である、篠原弘道大尉が、
「敵重爆は、防弾鋼板によって中々墜ちない。それにもまして、防御機銃の多さで返り討ちになる可能性も高い。非常に厄介ではあるが、墜ちないと言えば我が軍の襲撃機も墜ちないので有名だ。ここは、乾隊に一番槍として突っ込んでもらおう!」
と余計なことを言いやがり、飛行第11戦隊・第3中隊の加藤正治大尉も
「乾は、6機撃墜のエースパイロットでもあるんだから大丈夫だろう」
と更に余計な事を言いくさり、
「いやいや、所詮は爆撃機ですよ。現に二式双発戦闘機に比べて40kmも劣速なんです」と言うも、乾中隊と樫出中隊の7機は本田技研工業製の排気式過給機を装備し、高高度性能が高いことと、二式襲撃機の防御力の高さに鑑み、乾中隊が一番槍と決定した。
ウエワクより100km南方のセピク川上空で会敵し、北の太陽を背にB17の先頭の編隊へ向けて降下を開始した*1
乾中隊は、3機が一直線に並ぶ対戦車戦と同じ編隊で正面から攻撃を仕掛けた。
「大多賀、まっつ、ターンインからロールスルーで行くぞ!」
「「了解!」」
正面からの乾中隊の攻撃は相対速度が1,000kmを越え、B17の銃手が迫って来る乾達に照準を合わせる暇がほとんどないという利点があった。しかし、攻撃側も射撃時間はほんの一瞬だった。それを乾中隊は3機の連続攻撃で補った。
「ちっ! 照準がずれた。 大多賀、頼む!」
乾の射撃は撃墜までには至らず、2番機の大多賀が乾が離脱した後に有効打を与え編隊先頭のB17は墜ちて行った。
そのまま、乾中隊は編隊の後続機を次々に襲っていった。B17は、1機の攻撃を凌いだと思った瞬間に後ろから次の機体が現れ、射撃を加えられるという息つく暇も与えられぬ連続攻撃で編隊がばらけて行った。
そこへ、更に樫出中隊と飛燕Ⅱ中隊の12機が上空から攻撃を掛けて行き、敵戦爆連合は頭を抑えられる形で高度を下げていった。
そして、そこには篠原と加藤達が待ち構えていた。護衛のP39とP40は、篠原と加藤に悉く撃墜される羽目となる。この日、乾中隊もB17を5機撃墜し、当然一番機の乾が一番多く3機を撃墜スコアに追加することとなった。
飛燕以外は、ホ103とマウザーMG151を2門ずつ搭載しており、特にB17相手にはマウザーMG151の20mm弾は有効であった。というか、20mm弾でないと墜ちないことがはっきりした。ホ103のマ弾も中々強力ではあるが、1発で大穴があく20mm弾ほどでは無かった。
ホ103 を4門装備の飛燕が、果敢にB17に挑んでいったが幾ら命中弾を与えても撃墜出来ず、逆に防御機銃に命中弾を受けあわやということがかなりあった。これ以降、飛燕は対戦闘機に限られることになり、秋以降のホ5の登場が待ち焦がれることになる。
乾達の攻撃は、生還したB17搭乗員により「ジェットストリームアタック」と呼ばれ畏怖された。
*1 ニューギニアは、南半球なので4月から9月太陽は北にあります。南から来る連合軍に対して背に太陽なので有利です。
山形県民の皆様、申し訳ございません。
こうしないと、アドミラル・ガトーが登場しないんです。
ご理解いただけますと幸いです。
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