閑話:船上戦車隊、大河を遡上する!
遅くなり申し訳ございません。
活動報告にあります通りに年末年始と身内の不幸が続き、執筆が遅れました。
次回、ソロモンの戦いと言いながら今回はパレンバンでの閑話となります。
何でしょう思いついたら書きたくなったのでW
今回も生暖かい目で見て頂ければ幸いです。
「どうしてこうなったあっ!」
河川運航多目的船改め海洋運航多目的船「超大発」の船上にて、島田豊作大尉は叫んでいた。
島田豊作大尉率いる戦車第6連隊第4中隊は、スマトラ島ムシ川を超大発4隻に分乗して進んでいた。ムシ川河口から100km離れたパレンバンに向けて。
パレンバン油田での1年間の産油量は、当時の日本の年間石油消費量を上回るほどであったため、蘭印作戦での重要攻略目標となっていた。パレンバンの油田、石油精製所を無傷で占領するために奇襲降下作戦が立案された。 しかし、油田、石油精製所を恒久的に占領、運営するには38師団主力の展開が必要であった。
そこで、中国戦線で揚子江や鬱江で活躍している河川運航多目的船に、先遣隊を乗せて迅速展開させようとなった。この頃には、東シナ海を航海し、無事に中国大陸に渡った河川運航多目的船を見た日本陸軍は、島嶼部への上陸に使えるんじゃね? と気づき、別府造船に対し多数の発注をしていた。
「何を唸ってるんですか?社長」
大分県日出。別府湾の北側に位置する別府造船の本拠地。社長室の主に呼ばれた宮部技師長が話しかける。
「いやね、陸軍から超大発の発注がいっぱい来てるだろ。それとは、別口で瀬島参謀から直々に発注が来たんだが……」
と、九州に覇を唱える別府造船グループ総帥、来島義男社長は、腹心の宮部技師長に経緯を説明した。
「100kmを3時間で航行すること? しかも、川をですか? 無理でしょ! あいつは、最高速度16ノットですよ。川の流れに逆らってだとせいぜい12ノットほどしか出ませんよ!」
「そうなんだよなあ。瀬島さんも人をド〇エモンと勘違いしてるよなあ」
瀬島は、自分も参戦したノモンハンにおいて、縦横無尽に活躍した「空飛ぶ戦車」99式襲撃機。そして、その主力武器たる別製爆弾架台。また、その後の99式襲撃機の改修、河川多目的運用船、ホ103のマ弾なども義男のアイデアであることが、参謀本部では不思議に思われていた。
別製爆弾架台や99式襲撃機の改修、河川多目的運用船は既存の技術の応用だったが、ホ103のマ弾の空気信管は、東南アジアのファイアーピストンをヒントにしたといい。誰が、ファイヤーピストンから空気信管を思いついたのかは謎とされていたが、義男のアイデアであると推測した瀬島は義男を高く買っていた。
義男は、転生前の生活ではボッチ生活を極め、一人キャンプにはまっていた時期があり、焚火の着火にはファイヤーピストンを使用していた。切れ者と言われた瀬島参謀でもそこまでは知る由もない……
「う~ん、最高速度22ノットは欲しいとなれば、エンジンかあ? いっそ、波動エンジンでも積むかあ」
「社長、波動エンジンって? 何ですか?」
「いや、あっ、そうそう、山岡の所の新型エンジンだったかな? でも、まだ試作だから……」
結局は、「大概の事は、馬力でなんとか出来る! やれば、出来る!」ってことで、エンジンの造設が行われた。
本来、2基搭載されている山岡製作所の1200馬力のディーゼルエンジンを倍の4基搭載することにした。1200馬力ディーゼルエンジン4基4軸推進。どこぞの高速魚雷艇ですかと宮部技師長が常識的なツッコミを入れるも、
「どうせ、今回だけの特別仕様だ。こんなの何隻も使わねえよ」と返す義男だったが、陸軍の発想は、義男のななめ上を行くことをこの頃はまだ知らない……
臨時編成の日本陸軍河川艦隊は、島田豊作大尉率いる戦車第6連隊第4中隊を乗せて、
4800馬力のエンジン全開でムシ川を遡上していた。元々の倍の出力を得て26ノットの最高速度が可能となった超大発であったが、可能なのと運用は別であることを思い知ることになる。
揚陸の際には門扉が前方に倒れて渡し板となり、その上を車両が走行できる構造のため、艦首の構造は、大発などの上陸用舟艇と同じような艦首の門扉が1枚であった。
そんな構造の船が高速を出すとどうなるか?
超大発改は、川面を滑る様に……なんてことは無く、後部に造設したエンジンのせいもあり、船首を上げて川面をバシバシ叩くように進んでいた。そう、例えるなら石の水切りの様に。魚雷艇やプレジャーボート等の高速艇の様な動きであった。
傍から見たら非常に楽しそうであるが、乗ってる人間たちはたまったものでは無かった。
そもそもが、陸軍の人間である。船に乗ることはめったにない。有っても低速の輸送船だ。
河口から100kmの行程を超大発改は、全速力で進み目標の3時間どころか、なんと2時間で到着するという快挙を成し遂げた。余りの速さに敵も防御態勢を取る暇も無い程であった。
が、乗っていた陸軍兵が船酔いでほぼ全滅となり、1時間ほどの大休止を取ることとなった。
そうして、小一時間経過したころパレンバン飛行場を制圧した99式襲撃機が上空に現れ、無線で敵の接近を告げて来た。
超大発改4隻の日本陸軍河川艦隊は、即時に接岸できる河岸に向けて移動を開始するも、敵軍の先遣隊が河岸から機銃と迫撃砲を撃ち始めていた。
超大発改は、速度向上に伴い危険と判断され上甲板への車両の搭載はやめて、対潜兵器を搭載していた。それを敵軍に向けて発射する。
別製対潜水艦曲射砲架。
名称からわかるとおり、この「兵器」は、ただのラックである。
九七式曲射歩兵砲を16門、固定設置するためだけのものであり、また自由に取り外せるということである。超大発改は、上陸部隊の兵装としての期待も込めて搭載していた。
その別製対潜水艦曲射砲架4基が一斉に発射され、計64発の九七式曲射歩兵砲弾が敵軍に降り注いだ。その効果は、別製試作爆弾架台の投下以上であった。
超大発改4隻は、敵がひるんだ隙に河岸に接岸し、艦首の門扉を下げて戦車第6連隊第4中隊を上陸させた。
「ようし! 行くぞう!」島田豊作大尉の号令と共に次々に戦車が上陸していく。戦車第6連隊第4中隊は、97式中戦車改3両*1、95式軽戦車改3両*2、100式自走砲3両*3、1式自走砲3両*4で構成されていた。これに随伴歩兵が乗せて移動するためのトラックが6台である。超大発改1隻に、戦車3両、トラック2台の計算だが、お客さんがトラック2台分のスペースを占領していた。
お客さんは、「チベ車」であった。
500馬力級発動機2基*5による高い機動力と、90式野砲の直撃に耐えらる防御力、九九式八糎高射砲を転用した攻撃力は高い評価を受けた。
しかしながら、そのサイズと重量、ガソリンエンジン(それも2基)駆動であったこと、無砲塔であったことが災いし、操縦、特に射撃の習熟と補給面で問題が大きいと判断。陸軍で中型戦車(後の一式中戦車)の開発が順調に進んでいたこともあり正式採用には至らなかった
正式採用されなかったものの増加試作が認められ、その特性を上陸戦で行かせるのではと超大発改と共に本土からやって来ていた。
そして、「チベ車」に乗っているのは、西竹一少佐であった。そう、バロン西である。西は、1939年3月に陸軍騎兵少佐に昇進し陸軍省軍馬補充部の十勝支部員として軍馬の育成を担当していたが、時代の趨勢から騎兵部隊が戦車部隊に改変されていく中、機甲科への転属を希望し今回の作戦に志願していた。
「チベ車」は、船倉の一番奥に居たため最後の上陸となったが、上陸した後は合計1000馬力にものを言わせ猛スピードで友軍戦車を追い抜き市街地に突入していった。
それを見た敵兵は、台所でGを見たように恐れおののき逃げ散っていった。
島田豊作大尉は、「俺達、完全に脇役だね……」とこぼしたという。
日本内地においては、新聞のトップを写真付きで「バロン西、こんどは鉄馬に乗って戦場を駆ける」と宣伝された。なお、「チベ車」はその車体が艶消しの黒であったため、最新の秘密兵器ということで写真が検閲で黒く塗りつぶされたものと誤解されていた。
九州に覇を唱える別府造船グループ総帥、来島義男社長は、
「うちの製品が黒塗りとはどういうことだあ! どうしてこうなったあ!」
と、叫んでみたものの、艶消しの黒に塗りつぶしを命じたのはあんたでしょ。と、宮部技師長に冷静にツッコミを入れられていた。
攻略目標となっていたパレンバンの油田、石油精製所を無傷で占領の報告を、参謀本部の自室で聞いた瀬島少佐は、趣味の九谷焼の壺を磨きながら「これで、日本はあと10年は戦える」と呟いたという。
内地に帰還した西は、陸軍省での戦訓聴取において島田豊作大尉からの意見も踏まえ、これからの戦場においては100式自走砲に搭載された75mm砲以上でないと戦えないと言い切った。1式中戦車搭載予定の47mm対戦車砲では、待ち伏せしての側面もしくは背面への攻撃のみ有効であろうとし、それであれば95式軽戦車に47mm対戦車砲を搭載し自走砲を作った方がいいと示唆した。
島田戦車隊の活躍も日本軍が制空権を取ったことが大きく寄与しており、97式中戦車と1式戦闘機と同じ価格*6であることから、戦車よりも航空機を増産することを基本戦略とすべしと発言した。
元より、補給面から戦線の拡大を望んでいない陸軍省としては、攻勢に出る時間は長くは無いと判断し、その後の守勢において必要な兵器の生産に重きを置くようになっていく。
満州においても、攻めて来るソ連軍を迎え撃つために、97式中戦車を100式自走砲と1式自走砲に改造していった。九九式八糎高射砲を転用した1式対戦車砲装備の1式自走砲だけで良いのではとの意見もあったが、重い1式対戦車砲を装備するため砲身を後ろ向きに搭載しているため、どうしても補完する相棒が必要であったため、100式自走砲も生産を続けられた。
95式軽戦車は、20mm高射機関砲装備の改1と47mm対戦車砲装備の改2に。
97式中戦車は、100式自走砲と1式自走砲にに順次改造されていった。
1式中戦車および後継の3式中戦車は少数の生産に留まり、戦車の役割は襲撃機が負うことになった。
「チベ車」は、馬力があり速度も出るので西好みかと思われたが、
「砲身が車体より出ているために障害物等の走破性が弱い。また、車体高の低さから見通し範囲が狭く周辺視認能力が低い。何より、車体高が低いからハッチから身を乗り出しても見栄えが良くない」と最後は、騎兵としての見た目を気にした発言をするバロン西であった。
一介の少佐であれば、そこまでの影響力は無かったのだが、西男爵家当主としての発言力で今後の日本陸軍の機甲戦を決めてしまった西であったが、本人は戦車よりも馬に近い自動二輪に注目し、悪路に強い自動二輪を別府造船が出資する本田技研工業と開発するのであるが、それはまた別の物語である。
*1 1式中戦車搭載予定の47mm対戦車砲装備。
*2 98式20mm高射機関砲装備。
*3 90式野砲装備。
*4 九九式八糎高射砲を転用した1式対戦車砲を装備。
*5 95式戦闘機のハ9をデチューンしたものを2基搭載。
*6 97式中戦車と零式艦上戦闘機は、同じ15万円。1式中戦車は、それ以上。
船上戦車隊と言いながら戦車の活躍無いですね。
申し訳ございません。ご本家のチベ車を拝借してしまいました。
どこかで再度「チベ車」には活躍してもらいます。
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