§.9【満月に導かれて】
月明かりに照らされながら、シャルは夜の街を一人、とぼとぼと歩いていた。
向かった先は、コルンツェルにある高台である。長い長い階段を、息を弾ませながら必死に上っていき、彼女はそこに到着した。
コルンツェルの街並みを一望できる場所。そこなら、満月がよく見えるはず。そう思って、夜空を見上げた瞬間、目に鋭い痛みが走った。
「あっ……うっ……!!」
あまりの激痛に、呻き声しか出て来なかった。
視界がチカチカと点滅して、頭がぐるぐると回るような痛みがある。地面にうずくまり、ひたすらそれが通り過ぎるのを待つしかなかった。
やがて、痛みが引いてきた。視界の点滅もなくなり、シャルはほっと息をつく。
そうして、仰向けに寝転がって、夜の空を見た。月を見ながら、しばらく休めばよくなるだろう。そう思ったのだ。
だが、彼女の目に、月は映らなかった。
元々弱かった視力が、土に埋められた際に混入されていた毒のガスにより、更に衰えたのだ。
それを自覚した時、彼女の瞳からはらりと一粒の雫が落ちた。
「……馬鹿みたい……神様が親でも、助けてくれないじゃん……」
ポロポロとシャルは涙をこぼした。
教会の神父たちはシャルを神の子だと呼ぶが、神様がいじめから救ってくれるわけでもない。
許せ、と。どんな仕打ちをしてきた者に対しても、許しなさいというのがその教えであり、その度に彼女は唇を噛むように耐えてきた。
だが、もう限界だ。
「……アタシ、お月様も見れないよ……」
言葉にすればますます惨めで、涙がとめどなく溢れ出す。
このまま、なにも見えなくなって、誰も助けてくれなくて、死んでいくのだと思った。
ひとりぼっちで。
「どうして泣いているんですか?」
すぐ隣から声が聞こえた。
振り向けば、朧気ながら人影が見えた。シャルと同じぐらいの小さな女の子である。長い黒髪が風にたなびき、赤い目が鮮やかに輝いている。
彼女の名は、リュカ・エンディミオン。
「アタシ……」
なにかを言おうと思ったが、なんと言っていいかわからず、なにも言葉にならなかった。
すると、リュカは柔らかく言った。
「大丈夫です。今夜は満月ですから。あなたの悲しみを優しく癒やしてくれるでしょう」
月が悲しみを癒やすのだとしても、今のシャルには見ることができない。それでも、先程までの惨めな気持ちが溶けていき、胸にじんわりと温かいものを感じた。
その女の子の声音は、シャルがこれまで出会った誰のものより優しかったのだ。
「アタシ、ひとりぼっちなの」
そう言葉をもらすと、「うん」とその子は優しくうなずいてくれた。シャルと同じぐらいの歳に見えるのに、リュカはすごく大人びていた。
「お母さんも、お父さんもいない。アタシが神の子だからなんだって。でも、目がどんどん悪くなって、お月様も見えないのに、神様は救ってくれないんだ」
堰を切ったように言葉が溢れ出し、同じ量だけ涙の雫がこぼれ落ちる。
「神の子じゃなくていいから、アタシ、お母さんとお父さんが欲しかったよ……」
頬を伝った涙をリュカが指先で優しく拭ってくれた。
「見てもいいですか?」
シャルがうなずくと、彼女は顔を寄せて目を覗き込んできた。
リュカの赤い瞳が光を放っている。それだけは、視力が弱くなったシャルにもぼんやりと見えた。
「わたしはリュカです。リュカ・エンディミオンと申します。あなたは?」
「……あ、アタシはシャル・アーリアン」
「では、シャル。わたしの家族になってくれませんか?」
「……え?」
唐突に切り出され、シャルの思考はすぐには追いつかなかった。
「わたしもひとりぼっちなんです。あなたの血をいただければ、その目も治すことができます。ですが、一つだけ、代償にあなたはわたしと同じ化け物になってしまいます」
静かにリュカが口を開く。
そこから、鋭い牙が覗いていた。血を欲する、化け物。彼女が何者なのか、シャルにも朧気ながら予想がついた。
「あなたは神への信仰を捨てることに――」
「なりたいっ!」
説明を待たずに、シャルは言った。
「アタシに優しくしてくれたのはリュカだけだから。リュカと同じなら、化け物でもいいよ。だから、アタシを家族にしてくれる?」
リュカはこくりと頷き、優しく言う。
「じっとしていてください」
彼女はシャルの首筋に口を寄せ、その牙を静かに突き立てた。
赤い血が僅かに滲み、リュカはそれを吸血していく。
「んっ……」
一瞬、リュカがくぐもった声を上げた。
次第にシャルは異変を感じ始める。血が熱く、体中を勢いよく駆け巡っている。それに伴い、体に変化が現れた。
口にはリュカと同じく牙が生え、首筋の傷跡があっという間に塞がった。
そして――
「綺麗……」
視力を殆ど失っていた彼女の目も光を取り戻した。夜空に輝く満月がはっきりと見えたのだ。
「孤児院で習ったよ。リュカみたいな人は、真祖のヴァンパイアって言うんでしょ?」
真祖のヴァンパイアは吸血行為により、眷属を生み出すことが可能だ。リュカはヴァンパイアになったことにより、肉体が強靱になり、治癒力も高まって、視力が回復したのである。
「よく知っていますね」
「アタシ、リュカの眷属っていうのになったんだよね?」
静かにリュカは首を左右に振った。
「違うの?」
「言ったでしょう。家族です。それから、よければ――」
言いづらそうに、リュカは一瞬言葉に詰まった。
「よければ?」
「友達に、なりませんか?」
すると、嬉しそうにシャルは笑った。
「じゃ、なにして遊ぶっ?」
そんな返事が返ってくるとは思わなかったか、リュカはきょとんとシャルを見返した。
「……そうですね。人間の遊びにはまだあまり詳しくありませんが」
「アタシが教えてあげるっ! かくれんぼがいいかな……あっ!」
と、なにかに気がついたようにシャルは声を上げた。
「どうしました?」
「ごめんね。今日は帰らなきゃ。部屋にいないのがバレたら、怒られちゃう」
自暴自棄になって飛び出してきたものの、冷静になってみればこんな夜中に無断外出をすれば大目玉を食わされる。罰として、礼拝堂の掃除をさせられてもおかしくはない。
「わかりました」
「また明日っ。ここで会おうよ」
「待っています」
シャルは大慌てで走っていく。その様子を優しく見守りながら、リュカは自らの胸に手を当てて、ぽつりと呟いた。
「これが最後だから……」
すると、シャルが途中で立ち止まり、大きく手を振った。
「なにか言ったー?」
「いいえ。なにも言っていませんよ」
「そっかー。またねー」
再び踵を返すと、シャルは急いで孤児院に帰っていった。




