京の世界③
〇 〇 〇
「君、もしかして高校生?」
「い、いいえ。違います」
「そうか。……まぁ、どうでもいいがね」
フライヤーに書かれていた場所で出会ったのは、とても太った中年の男性でした。彼は仕事終わりなのか、スーツを着ていました。多分、お金持ちの方なんだと思います。腕に付けている時計は見覚えのあるモノでしたし、見た目と不釣り合いな香水の匂いがしたからです。
「初めて?」
今いるお寿司屋さんに来た事を聞いているのではなく、自分の体を売る事についてそう訊いたのだと思いました。
「その、はい」
「そうか。おじさんも、君みたいにかわいい子は初めてだよ」
この男性は、私が嘘をついたと知っていて、自分が犯罪を犯している事を理解した上で、私との状況を楽しんでいるみたいでした。
自分の欲望に忠実で、わがままを押し通す。私によく見られる為に、高級なお店で食事を振る舞う。きっと、後でお金も貰えるのでしょう。そうして、本来明かしてはいけないハズの自分の地位を、少しずつ露わにしていくのでしょう。
この時、私は初めて、お父様とお母様の教えの意味が分かりました。あれらは、人の上に立つ為の教育ではなく、自分が幸せに生きる為の教育だったのです。
私は自分を被害者だと言う気はさらさらありませんが、こういう生き方をして自分よりも立場の弱い者を食い荒らせる人が、人生を楽しく過ごすことが出来るのでしょう。
犯罪意識のスリルも、きっといいスパイスなんだと思います。だから。
「おじさま」
特に意味もなく、彼の指輪のある手に触れました。何故か、彼の家にいるハズの奥様から、この方を奪い取りたくなったからでした。
……外に出ると、雪が降っていました。先ほどは明るくて目立たなかったイルミネーションが、冷たい空気に反射してキラキラと輝いていました。きっと、生まれて初めて自分の思い通りに生きたから、さっきまでと景色が違って見えたのでしょう。とても、綺麗でした。
「どうしたの?」
私は、そんな中で一人、俯いて立っている人を見かけました。多分、私と同じくらいの男の子です。彼は私が立ち止まると、ダッフルコートのポケットに手を突っ込んで、徐に空を見上げました。
誰かを、待っているのでしょうか。でも、それにしては暗く悲しそうで。しかし、何故か自分の困難に立ち向かっているような。諦める為の決意を固めて、必死で堪えているような。そんな、なんとも不思議な感想を持ちました。
「……いえ」
私は、彼の事を直視出来ませんでした。きっと、眩しかったからです。押し潰れて負けてしまった私には、『何か』と戦う彼が眩しかったからです。
そのせいで、初めて会った名前もわからないハズの人なのに、脳裏にぼんやりと顔が浮かんで、私の心を離しませんでした。もう少し早く出会っていれば、助けてくれたのはあの人だったかもしれない。そんな理想論を思い描いて、下を向く事しか出来ませんでした。
……怖い。
ホテルに着いて、私はシャワーの音を聞きながら、窓の外を眺め項垂れていました。体に触れられる事に、もう抵抗はありませんでした。そうやって、私を必要としてくれているなら、それだけで――。
……怖い。
ホテルに着いて、私はシャワーの音を聞きながら、窓の外を眺め項垂れていました。体に触れられ――。
……怖い。
ホテルに着いて、私はシャワーの音を――。
「……あれ」
目を拭って見えた窓ガラスに映っていたのは、幼い頃の私でした。その私は、捨てたハズの人形を抱いて、大勢の人混みから一人離れて、ただ泣きながら今の私を見ていました。
「ねぇ。どうして、こうなっちゃったんだろうね」
……分かりません。
「みやこ、そんなに悪い子だったのかな。ただ、みんなと遊びたかっただけなのに」
……分かりません。
「あのおじさん、いい人なのかな」
……分かりません。
「みやこ、どうなっちゃうのかな。もう、誰にも助けてもらえないのかな」
……分かりません。
「あのおじさんも、本当はみやこの事なんて見てないんじゃないかな。エッチしたら、いつもみたいに一人ぼっちになるんじゃないかな」
……分かりません。
「本当に、この人でいいのかな」
……ぁ。
様々な記憶が走馬灯のように蘇って、強烈な吐き気と、信じられない程の罪悪感が私を襲いました。私はそれに耐えきれず、ゴミ箱の中へさっき食べた2貫のお寿司を吐き出してしまいたした。
涙と吐瀉物が私を汚して、ふと見上げた時に見えた顔は、この世のモノとは思えないくらいに醜悪で、下劣で、気味の悪い魔物のモノでした。こんなにも気持ちの悪い生き物が、この世界に存在していいハズがないと、私は理解してしまいました。
「はは」
私は、その自分に耐える事が出来ず、気が付けば部屋に置いてあった髭剃り用のカミソリで、自分の手首を切っていました。生きていていいハズが無いのなら、私が殺さなければいけないと思ったからです。
「君、一体なにを……」
「……あは、あはは」
シャワールームから出てきたおじさまの顔は、引きつっていました。しかし、血も涙も止まらなくて、雫は床にポタポタと流れ落ちて、次第に私は一体なぜここに居るのかが分からなくなってきました。記憶の中から、目的だけがスッポリと抜け落ちてしまったような感覚があったのです。
でも、私はどうしようもなく生きていました。赤い血が流れていて、確かな痛みがありました。だから、私は自分を認めてもらいたくて、彼に手を伸ばしましたが。
「く、来るな。来るな!キチガイ女!」
……私は、一体何なのでしょうか。誰か、答えを教えて下さい。叫びたかったけど、涙と嗚咽に掻き消されて、声になりませんでした。ただ、ここにいると残ったタバコの匂いにすり抜けた虚しさを感じてしまって、だから私は部屋を出てどこかへ向かいました。
そうやって、人の往く道を歩いて、歩き続けて。気が付けば、歓楽街は遠い場所にありました。
「誰か、助けて……」
凍えてしまいそうな外気が、いつの間にか手首の傷を埋めていました。雪に落ちていた血の軌跡は、すっかり消えています。もう、どれだけ長い間ここで泣いていたのか、私には分かりませんでした。
このまま、こうしていれば私は――。
「……え?」
「余計な事、だったでしょうか」
その時、教会の鐘が最初の私の声を隠しました。




