混乱の帝国軍
普段より遥かに人気の少ない帝城の中を、ガネラは慎重に進んでいく。
彼女が目指すのは、この城の地下。そこに、「魔女」と呼ばれる存在が幽閉されていることは、帝国の闇部に属する者ならば誰もが知っている。
ガネラがそこを目指す理由は、今の彼女の主である精霊の乙女から命じられたからだ。
どうやら、精霊の乙女にとっても呪詛を防ぐことは難しいらしく、皇帝の命によって呪詛を行う「魔女」の存在は、精霊の乙女にとっても悩ましい問題らしい。
「……ま、私は命じられたことだけをすればいいだけさ」
この城の中には、彼女の元同僚たちもいる。もしかすると、既に自分は元同僚たちに発見されて、泳がされているのかもしれない。
もちろん、ガネラに元同僚たちと戦う覚悟はある。だが、そうはならないと彼女は思っていた。
頭の片隅でそんなことを考えつつ、ガネラは帝城の最奥へと至り、地下へと続く扉の前に到達する。
「この奥に魔女が……」
彼女がぽつりと小さく呟いた時。不意に、彼女を取り囲むように静かな殺気が湧き上がった。
一万以上の帝国軍将兵たちの間に、大きな動揺が広がっていく。
帝国軍の頂点に立つのは、キンブリー帝国の現皇帝アルモート・キンブリー。彼が持つ「勇者の証」である光の剣は突然輝きを失った。
それだけでも、兵士たちは不安を感じたのだ。神より与えられた奇跡の剣が光を失うということは、それは神から見放されたのではないか、と彼らは思う。思ってしまう。
そこに加えて、彼らが対峙する敵──僅か十人程度の本来ならば敵とさえ呼べないような存在──が、揃って光輝く剣を天高く掲げたのだ。
帝国軍の兵士たちにとって、それは啓示だった。
どちらが神に選ばれた存在なのか。どちらが正しいのか。
それまでは自分が、帝国が、皇帝が正しいと思っていた兵士たち。しかし、今ではどちらが正しい存在なのか、その判断がつかない。迷いが生じる。その迷いが、兵士たちを浮き足立たせる。
更には、敵陣にはレシジエル教団のトップであるアルミシア大司教がいるのだ。
兵士たちは、アルミシアが自らの地位を盤石にするため、偽の勇者を用意してその者を指示している、と聞かされている。そして、今のレシジエル教団の大司教は、皇帝の傍にいるグルーガという人物であることも。
だが、彼らにもはっきりと判る。アルミシアとグルーガでは、人間の大きさがまるで違うことに。
どんなに煌びやかな法衣を着ていようとも、グルーガには威厳が感じられないのだ。逆にアルミシアが粗末な格好をしていたとしても、彼女には確かな威厳がある。
帝国民は、全てがレシジエル教徒であると言ってもいい。そんな彼らにとって、アルミシアの言葉はある意味で皇帝の言葉よりも重い。
様々な要因が重なり、兵士たちの間に大きな動揺が生まれていく。動揺は荒波のように大きくうねりながら帝国軍を飲み込んでいく。
そこへ、更に彼らの動揺を誘うようなことが生じ、兵士たちはいよいよ混乱の海でもがくことになるのだった。
「愛しき人間たちよ──我が声に耳を傾けなさい」
鈴の音が響くような、それでいて神聖なものを感じさせる女性の声が、戦場である草原地帯を風のように吹き抜けた。
戦場に居合わせた全ての将兵が、反射的に声のした方を振り仰ぐ。そして、将兵は思わず声を詰まらせ、呆然とその光景を見上げるのだ。
澄んだ青空を背景に、巨大で神秘的な女性の姿が浮かんでいるその光景を。
もちろん、それはチャイカである。小型プロジェクターを搭載したドローンを複数跳ばし、立体映像を空中投影しているのである。
しかし、この世界の人々にとって、空中に浮かんだ透き通った女性の姿など、神かその眷属の顕現に他ならない。
ネタを知っているレイジの仲間たち──アルミシアやバーラン、そしてその部下たちでさえ、その神秘的な光景に思わずその場に跪きそうになるほどだ。
それが帝国軍の将兵……いや、帝都で暮らす一般の民たちまでもが、空中に浮かぶ女性こそが、伝承にある精霊の乙女であると疑わなかった。
その場に跪いて祈りを捧げる者が続出する。それは、帝国軍の将兵も例外ではない。手にしていた武具を足元に放り捨て、宙に浮かぶ精霊の乙女に祈る将兵たち。
「ま、まやかしだっ!! あ、あんなものは勇者を僭称する者どもが仕組んだまやかしに違いないっ!!」
グルーガが声を限りに叫ぶが、彼の声を聞く者などほとんどいない。空中に浮かぶ精霊の乙女の姿を否定するには、グルーガではあまりにも聖職者としての器が小さすぎるのだ。
「小さき……そして愛しき人間たちよ。我が声をしかと聞きなさい。わたくしが仕える者こそ、神に選ばれし真の勇者。その名はランド。勇者ランドなり。愚かにも神の御子たる勇者を僭称する者に、神々が鍛えし光の剣を扱う資格なし。光の剣は、神の御子と彼が許した者だけが扱える。さあ、愛しき人間たちよ。何が正しくて何が間違っているのか……今一度、自分自身でよく考え答えを導き出しなさい」
ノリノリで演技をするチャイカ。レイジなどは苦笑を必至に堪えていたが、帝国軍の将兵たちにとって、それはまさに天啓としか言えないものだった。
この時、帝国軍は混乱の坩堝と化していた。
指揮官が必至に部下たちを纏めようとするものの、神の御使である精霊の乙女の言葉は指揮官のそれよりも遥かに重く、兵たちの中には指揮官の言葉を聞かない者もいる。
動揺はすっかり混乱へと取って代わり、帝国軍は完全に統制を失っていた。そして、帝国軍の頂点であるアルモート・キンブリーもまた、混乱していた一人だった。
「な、なぜだ……なぜ、私の光の剣が……」
完全に光を失った光の剣を呆然と眺めるばかりのアルモート。その彼へ、傍らに侍っていたレーリアが髪を振り乱す勢いで叫んでいた。
「陛下っ!! 皇帝陛下っ!! どうか……どうか、あの勇者を騙る者たちを殲滅するご命令をっ!! 私を……私とその家族を不幸に追いやったあいつらを、どうか殺してくださいっ!! そのために、私はグルーガ様の言葉に従ったのですっ!! は、早くあいつら……いえ、サイファを殺してっ!! 兵士たちにそう命令してよっ!! どうして私ではなく、あんな半端者の半魔族が勇者ランドに選ばれなければならないのっ!?」
怒りで既に正気ではないのか、レーリアは乱暴な言葉で皇帝へと詰め寄る。本来ならばこの場で斬り捨てられても文句を言えないが、混乱した皇帝の周囲では彼女に注意を払う者などいなかった。
アルモートの傍にいる者たちは皆、彼女がお飾りの「精霊の乙女」であることを知っているからだ。
怒りで魔物のような形相になっている彼女だが、誰もその言葉に耳を貸しさえしない。
「……その話、間違いないのだな?」
ガネラの話を黙って聞いていた元同僚の一人、いや、元同僚たちを束ねる立場のその男は、ガネラの話が終わった後にそう尋ねた。
「ああ、確かに精霊様がお約束してくださったよ。精霊様の配下になれば、今よりももっといい条件で雇ってくださるってね」
「確かに、どう見ても帝国が不利だ。おまえの言葉に乗って、精霊様に鞍替えするのは悪くないな」
今現在、帝都の外で起きている騒動のことは、彼ら闇部も把握している。それに何より、これまで数度勇者とその仲間たちを襲撃した彼らにとって、勇者たちが彼らの理解を超える方法で彼らを撃退したことを誰よりもよく判っていた。
おそらく、彼らでは勇者を暗殺することはできない。勇者が神に守れているかどうかなど関係ない。純粋に彼らでは勇者と精霊の施した守りを突破できないのだ。
「どうだい、頭領。頭領がその気なら、精霊様は頭領たち全員を受け入れてくださるってよ?」
「条件は?」
「精霊様から与えられる仕事は、主に情報の収集。精霊様自身も情報を集める手段を持ってはいるみたいだけど、私たちのような生身の人間が集める情報も必要なんだとさ。その代わり、暗殺のような汚れ仕事はもうしなくていいそうだよ? とりあえず、頭領たちはアルミシア大司教猊下の預かりになるんだと」
「ほう? 俺たちのような暗殺者を、大司教猊下の直属に……か? 精霊様も大胆なことだ」
ガネラの言葉に、彼女の元同僚たちの間を小さな動揺が走り抜けた。
これまで、後ろ暗い仕事ばかりやらされてきた彼らである。特に一連の勇者暗殺は、彼らにも多くの犠牲者を出している。そのため、無理な暗殺ばかり命令してくる今の帝国に対し、彼らもいい感情は持っていないのだ。
彼ら闇部は、あくまでも帝国に雇われているだけであって、帝国に忠誠を誓っているわけではない。そのため、より条件の良い方へ宗旨変えすることに、それほどの拘りもなかった。
もちろん、今後も日の当たるような仕事ばかりではないだろうが、それでもレシジエル教団の大司教直属という立場は、これまでよりは遥かにいい待遇と言えるだろう。
「後は……頭領たちの命ってところかね? 精霊様がその気になれば、頭領たちがどこに隠れていようが探し出されて、さっくりと息の根を止められるんじゃない?」
「……ふ、確かにそれはありそうだ。それに、このまま旗色の悪い帝国側にいてもおもしろくないし、仮に帝国が勇者に勝利したとしても、これまで通り使い捨てにされるだけだろうしな」
頭領が苦笑を浮かべて肩を竦める。彼が明らかな表情を浮かべるということは、すなわちガネラの言葉に従うということだ。
「良かろう。我ら一同、今日より精霊様に従おう。とりあえず、我々は何をすればいい?」
「私が精霊様より命令されたのは、この城に幽閉されている魔女の身柄を確保することだよ」
できるよね? と言外に問われ、頭領は無言で頷いてみせた。
混乱に陥った帝国軍。それでもアルモートは何とか気を取り戻していた。
いくら精霊の乙女が顕現しようが、相手は十名程度でしかない。今の帝国軍が半分は軍として機能しないとしても、それでもまだ五千以上の将兵がいる。
それだけの数がいれば、十名程度を蹂躙するのは訳はない。
「命令を聞かない者は無視して構わん! 動ける者だけで偽勇者を討て。偽の勇者を見事討った者には、思いのままの褒美を取らせることを約束しよう!」
皇帝の言葉は、一部の将兵の戦意を高めた。
勇者さえ討てば、一兵卒から将軍へ出世することも夢ではないのだ。信仰よりも実を選んだ兵士たちは、戦意を漲らせて皇帝の命令に従う。
アルモートの命令に従って、偽勇者の一段へと帝国軍が殺到する。いや、殺到しようとした。
まさに、その時。
偽勇者たちへと駆け出そうとした兵士の一人が、空にある小さな点に気づいたのだ。
「何だ、ありゃ?」
思わず声に出してしまったその兵士。それを聞いた隣の兵士が、彼と同じように空を見る。
「鳥が飛んでいる……? いや、飛行型の魔獣か? 随分と大きいんじゃないか?」
彼らの小さな声はが原因となって、ざわざわと波紋が周囲に広がっていく。声を聞いた者たちが空を見上げ、その小さな点が徐々に大きくなっていくことに気づいた。
いや、大きさだけではない。その数までもが、どんどんと増えていくのだ。
「お、おい……あれってまさか……」
「あ、ああ……」
いつしか、帝国軍の兵士たちの足は止まっていた。偽勇者へと駆け寄るのさえ忘れ、恐怖と驚愕を貼り付けた顔を空へと向ける。
「あ、あれは……」
「りゅ、竜族……」
「ど、どうして竜族がここに……」
ぽつりと呟いた兵士の言葉通り。
空にあった小さな点は徐々に大きく、そして多くなっていく。そして「彼ら」の姿は、すぐに戦場に居合わせた者たち全てに見えるようになる。「彼ら」の正体は、すぐに帝国軍全てが理解する。
巨大な体を巨大な翼で空に支えるその姿。それはまさしく、この世界の海を支配する第三の勢力たる竜族だ。
百体近い竜族が突然飛来したことで、新たな動揺が帝国軍を包み込んでいく。
そして。
「我が名はガザジザベザガル! 竜族を統べる竜の王、竜王ガザジザベザガルなり! 故あって、勇者殿の助太刀として馳せ参じた!」
竜族の中でも極めて巨大な一体が、戦場全体に響く大声ではっきりとそう宣言した。
竜族の王、竜王ガザジザベザガルに率いられた百体の竜族が、勇者に助力するために帝国の空に現れたのだ。




