帝国の暗部
「猊下。勇者様の元のアーベル高司祭様より馬便が届いております」
一礼しながら執務室に入ってきた部下が、執務の手を止めたアルミシアに告げる。
そして、先程早馬で届いたばかりの手紙を、丁寧にアルミシアの執務机の上に置いた。
再び一礼して退室する部下を見届けたアルミシアは、机の上に置かれた手紙を手に取り、蝋封の施されたそれを丁寧に開封する。
中に収められていた手紙を取り出し、ゆっくりと目を通すアルミシア。一通り手紙を読み終えると、再び先程の部下を呼び出した。
「現在、アーベル高司祭は勇者ランド様と共にこの帝都に向かっているようです。アーベル高司祭からの手紙によれば、現在位置はゲンガルと帝都を繋ぐ街道を北上中とのこと」
「ゲンガルを北上中ですか。ならば、帝都まであと三十日ぐらいですね」
「いえ、高司祭からの手紙に、勇者様は馬よりも遥かに速い神獣に騎乗しているとありました。その神獣の速度ならば、帝都まで十日ほどで到着するそうです」
「げ、ゲンガルから帝都までの距離を十日……ですと?」
頭の中で地図を展開させたその部下は、勇者の移動速度に驚いて目を見開く。
ゲンガルから帝都まで、四六時中馬を走らせたとしても、どうしても十五日はかかる。その道程を十日ほどで走り抜けるとなれば、誰だって彼と同じ驚きを覚えるだろう。
「これは思ったよりも早く、勇者様は帝都にご到着されますね。大至急、このことを帝城の皇帝陛下にお伝えし、お出迎えの準備を急いでいただかないと」
アルミシアは羊皮紙とペンを用意すると、勇者一行の到着予定を知らせる報告書をしたためる。
そうしてでき上がった報告書に蝋封を施し、直ちに皇帝に届けるように部下に命じた。
レシジエル教団のアルミシア大司教より届けられた、勇者の現在位置を知らせる報告書。それを読んだキンブリー帝国皇帝アルモート・キンブリーは、詰まらなさそうにその報告書を床に放り捨てた。
「勇者様ご一行かなり近くまで来ているらしいが……確か、最近はその辺りで野盗が出没しているって噂がなかったか?」
「はい、陛下。野盗というものは、どれだけ街道を厳しく見張っても、どこかから沸いてくるものですから」
「だったら、その野盗に旅の途中の勇者様がたまたま襲われたとしても……不思議なことじゃないよな?」
「陛下のおっしゃる通りにございます。ですが、勇者様の一行にはレシジエル教団の高司祭が一人、同行しているようですが?」
「その高司祭殿も不幸よな。なんせ野盗という連中は、獲物を選り好みなどしないだろう?」
「確かに、野盗などは低俗な者どもと相場が決まっておりますな」
腹心の部下の返答を聞き、アルモートはにやりと口元を歪める。
「神々の遣いたる勇者様も、無敵ってわけじゃない。食事や睡眠は必要だろうし、油断する時は絶対にあるからな。運悪くそこを野盗に襲われたとすれば……」
途中で言葉を途切らせるアルモート。だが、彼の言いたいことはしっかりと部下に伝わった。
キンブリー帝国という巨大な組織を維持するには、綺麗事だけでは済まない場合が多々ある。そして、そんな裏の仕事を引き受ける部署──帝国の暗部とも言うべきものがこの国にも存在する。
その仕事には、密偵として各国に潜り込んで様々な情報を得たり、人知れず皇帝の身を守るというものも含まれるが、彼らに任される最も重要なものはやはり暗殺の類だろう。
「帝国」という巨大な組織を維持するため、暗殺という手段は古来より度々使われてきた。
口を閉じ、窓から帝都の風景を眺めるアルモートに、彼は一礼を残して退室する。皇帝の意思に従い、この国の暗部を動かすために。
帝都キンブリーから南下し、ゲンガルへと続く街道。その中でも、鬱蒼とした森を横切る最も見通しの悪い地帯。
街道の脇に繁る木々の影に、黒い衣装に身を包んだ一団が息を潜めてひっそりと忍んでいた。
彼らは木々の影から、街道を行く旅人たちを注意深く観察する。
多数の護衛に守られた何台もの馬車を連ねた大規模な商隊もいれば、個人営業の行商人もいる。
武装したままだらだらと歩く一団は、雇い主を求める傭兵団だろう。その他には巡礼者の姿も見受けられる。
しかし、木々の影に潜む者たちが求める標的は、一向にその姿を見せない。
「……本当にこの街道を通るのだろうな?」
「ああ。情報に間違いはない」
特殊な訓練を重ねて、最低限の声と唇の動きだけで意思の疎通を行う彼ら。
こうして標的が通りかかるのを待ち構え出して、既に数日が経過した。だが、標的が現れる気配は全くない。
「もしかして、我々が見過ごしたということは……?」
「それはない。皇帝陛下からの情報によれば、標的は他では見ることのできない不思議な魔物に騎乗しているそうだ。今のところ、そのような魔物は街道を通りかかっていない」
さすがにそんな魔獣が街道を通りかかれば、彼らが見落とすようなことはないだろう。つまり、彼らが待ち受けている標的はまだ街道を通りかかっていないのだ。
「だが、情報によればとっくに目の前の街道を通りかかるはずだが……」
「もしかして、どこかで街道を逸れたのでは?」
「いや、徒歩で道なき道を掻き分けて帝都を目指すならともかく、魔物に乗っている以上はこの街道を使うしかないはずだ」
「おそらく、何らかの理由で行程が遅れているのだろう」
旅人の行程が遅れることなど、珍しいことではない。交通の殆どを徒歩が占めるこの惑星では、ちょっとしたことで旅程が狂うことはよくある。
天候不順、危険な魔獣の出没、崖崩れや橋の倒壊など、旅程が狂う原因はいくらでも考えられるのだ。
「あと数日、このまま見張り続ける。だが同時に、街道沿いを南に向かって斥候を出せ。標的が何らかの理由で行程を遅らせているならば、それはそれで襲撃の好機だからな」
闇に潜む者たちのリーダー格がそう決定すると、他の者たちは小さく頷いて同意を示した。
もしも本当に標的の旅程が予定よりも大幅に遅れているのなら、襲撃をかける機会は増えるだろう。
特に宿場町などに泊まらずに野営でもしていれば、それこそ襲撃の絶好の機会となる。
影たちはリーダー格の言葉に再び頷くと、すぐに行動を開始した。
しかし、その後数日が経過しても、彼らの目の前を標的が通りかかることは遂になかった。そして南に放った斥候が、標的の居場所を突き止めるまで更に数日が必要となるのだった。
その頃、影たちの標的であるレイジたちが何をしていたのかと言えば。
実はまだ海で遊んでいたりした。
生まれて初めて海を体験し、その楽しさにすっかり夢中になったレイジは、のんびりと海を満喫していた。
時に海で泳ぎ、時に釣りを楽しみ。釣り上げた魚を仲間たちと談笑しながら味わいながら、レイジたちは楽しい一時を過ごしていた。
しかし若干一名ほど、海を楽しむどころではない者もいたりしたが。
「あのー、勇者様? 一体いつになったら帝都へ向かわれるおつもりなのですか?」
「そうだなぁ。もうしばらく、ここで遊んでいてもいいんじゃないか? こうして海で遊ぶのって、前々からの楽しみだったんだよな、俺」
「は、はあ……」
勇者であるレイジの言葉に、アーベルは逆らう術がない。
しかし、彼に与えられた使命の関係上、そうそうのんびりしてもいられないのも事実なのだ。
「……せめて近場に宿場町でもあれば、早馬で今の状況をアルミシア猊下にお知らせできるのだが……」
先日彼が送った報告書は、既にアルミシアの手元に届いているだろう。あの報告書を書いた時とは予定が大幅に遅れてしまったため、改めて報告書を送る必要がある。
しかし、周囲に宿場町どころか漁村さえないような場所にいては、報告書を帝都に運ぶ手立てがないのだ。
「まあまあ、アーベルさん。俺が我が儘言って遅れたってことにすればいいからさ。もう少しのんびりと海を楽しんでから出発しようぜ」
「勇者様がそうおっしゃってくださって、本当に助かります……」
若くして枢機議会に名を連ねるアーベル。もちろん、その才覚を認められた上で枢機議会の一員として迎え入れられているのだが、このままでは彼の経歴に傷がつきかねない。
だが、レイジ本人が自分が責任を取ると言っている以上、そのようなことにはなるまい。それだけが彼にとって救いだった。
最近慢性化しつつある胃痛を噛み殺しながら、アーベルは大きな溜め息を吐き出した。
その日の夜。
海でたっぷりと遊んだレイジたちは、疲れ果ててぐっすりと眠り込んでいた。
浜辺ちかくの空地に四輪車を停め、快適な温度に保たれたキャンピングユニットの中でゆっくりと眠っているレイジたち。
そんなレイジたちの元に、静かに忍び寄るいくつかの影があった。
影たちは慎重に様子を伺いながら、ゆっくりと音もなくキャンピングユニットへと近づいていく。
言うまでもなく、影の正体はキンブリー帝国の刺客たちだ。
彼らは視線だけで意思の疎通を図り、じわじわとレイジたちの眠るキャンピングユニットを包囲する。
影たちの手には、どす黒い刃の短剣が握られている。もちろん、その黒い刃の正体は猛毒である。
僅かな掠り傷で致死量となる猛毒は、例え相手が勇者であろうとも確実にその命を蝕むだろう。
文字通り死を携えた影たちは、ゆっくりゆっくりと着実に標的に近づいていった。




