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勇者は逃げ出した


 日も暮れて辺りが完全に闇に支配された時刻。

 ラカームは人間形態で魔王城の中庭をぶらぶらと歩いていた。

「ふわー、いつものように狼になってレイジ様の傍にいるのもいいけど、たまにはダチたちと酒を酌み交わすのもいいわよねー」

 ほんのりの頬を酒精で染めたラカーム。久しぶりにガルガンチュアに帰ってきた彼女は、街中でたまたま出会った知人たちと酒場で酒を飲んでいたのだ。

「今の私が新たな魔王様の愛玩動物だと知った時のあいつらの驚いた顔……くくく、見ものだったわぁ」

 先程までいた酒場での様子を思い出し、ラカームはくすくすと笑みを零す。

「まあ、私もレイジ様が魔王になるなんて思ってもいなかったけど……そこはさすがレイジ様ってところかなー」

 自らの主のことを思い出し、幸せそうに微笑むラカーム。

 だが、目を細めていた彼女の視界に、僅かにきらりと輝く何かが映り込んだ。

 一瞬で酔いが吹き飛び、真顔になるラカーム。

 ここは魔王が座す魔王城。当然、警備だって厳重だ。

 だが、もしかするとレイジが新たに魔王の座に就いたことを、快く思わない勢力がないとは限らない。

 彼女はレイジの愛玩動物である。そして同時に、主であるレイジを守る兵士でもある。

 レイジの身に危険が及んでいるのかもしれない。

 そう考えたラカームは、姿勢を低くして走り出す。

 もちろん、足音は一切立てない。気配も完全に殺している。

 まさに獣そのものになった彼女は、先程感じた僅かな光へと風のように駆けていった。




「……逃げ出すって、どうやってここから出るんですか?」

 首を傾げながら、サイファが問う。

 ここは魔王の居室である。当然、部屋の外には警備の兵士がいる。彼らに気づかれずに部屋から脱出するのは難しくはないかもしれないが、問題はこの魔王城の構造だった。

「このお城、無駄に複雑な構造をしていますもんねー」

 魔族の幹部たちとの謁見の後、レイジたちは元魔王であったマーオに案内されてこの部屋に来た。

 その際、やたらと複雑な構造の廊下を通ったため、サイファなどは謁見の間からここまでの道筋を、ほとんど覚えていないぐらいだ。

「おそらく、城が攻められた時のために、わざと複雑な構造にしてあるのでしょうね」

「なるほどな。で? この城のマッピングはもうできているんだろ?」

「はい、レイジ様。当然ですよー」

 チャイカの返答と共に、レイジの補助脳にこの城のマップが転送されてきた。

 これで、この城の構造は文字通りレイジの「頭の中」である。

 おそらく、チャイカはこの城に到着した時からドローンなどを使って城の全域を調査していたのだろう。

「とはいえ、普通に脱出しようとすれば、連れ戻そうとする方たちがいそうですねー」

「ああ。あのマーオとかは完全にそうだろうな」

 レイジの教育係を自認するマーオのことを思い出して、レイジは僅かに顔を顰めた。

「あいつも悪い奴じゃなさそうだけど、融通は利かなそうだよな」

 だから、と続けたレイジは笑みを浮かべた。

「こっちから脱出しよう」

 そう言ってレイジが指差したのは、綺麗に磨かれた硝子の嵌った大きな窓だった。




「あの若者……本当に魔王が務まるのか?」

 酒の満たされた杯を傾けながら、《(はく)(ぎょく)元帥》ウーレ・メラ・ラレッターヤが呟く。

「確かに、ガールガンド要塞を一瞬で破壊した実力は認めよう。だが、彼はまだ若い。国を治めるということがどういうことか、理解しているとは思えん。まあ、その点は自分でも認めているようだがな」

 ウーレの言葉を受けて、《(こく)(ぎょく)元帥》ジーラ・ゲキ・ザーコインが苦笑を浮かべた。

「だが、実力こそが王の証。それが我ら魔族の歴史であり掟だ。この俺様とて、魔王の座についた当初は貴様らの父親たち……先代の二極元帥に散々鍛えられたからな」

 そう答えたのは、マーオ・デラ・サンシッター。つい先日まで魔王の座に就いていた男である。

 レイジが新たな魔王となり、役職などの改新は行われなかった。レイジがまだ魔族の幹部たちの実力を把握していないというのが大きな理由だろうが、それでも過去には、新たな魔王が玉座に就いた時、その周囲や重職を腹心や血族で固めた者は少なくはない。

 マーオこそ「魔王の教育係」という新しい位置に落ち着いたものの、軍部を司る二人の元帥は以前のままであった。

「……そうだな。俺たちで次の魔王様を支えればいい」

「俺としても、あの若者は嫌いではない。少々人が良すぎるかもしれんが、非道を非道とも思わぬより輩よりは随分マシだ」

 白と黒の二人の元帥がそれぞれ杯を掲げる。

 その杯に、「魔王の教育係」がかちんと自分の杯を合わせた。

「新たな魔王様に──」

「──乾杯、だな」

「うむ」

 三人は頷き合うと、それぞれの杯の中味を喉の中へと流し込む。

 マーオとウーレとジーラの三人は、共に魔族三大貴家の跡取りとして、昔からの付き合いである。

 その関係は親友と言っても過言ではなく、互いに信頼し合っていた。

 それぞれが杯を空にし、マーオが酒瓶から新たな酒を三つの杯に注ごうとした時。

 不意に、マーオがその手を止めた。

「どうした、マーオ?」

 その様子に何かおかしなものを感じて、ウーレとジーラも顔の上から笑みを消した。

「魔王様の気配が……この城から消えた」

「な、なんだとっ!?」

「ランド様が玉座の間にて魔王の玉座に就かれた時、護衛の一環として彼の影の中に〈蟲〉を忍ばせておいだのだ。その〈蟲〉の反応が……たった今、この城の中から消えた……」

「まさか、ランド様が魔王に就くことを反対する勢力でも現れたというのではあるまいなっ!?」

「判らぬ。だが、魔王様がこの城からいなくなったのは確かだ」

「すぐに《天眼》を呼べっ!! あやつの『眼』であれば、魔王様を見つけることは難しくはあるまいっ!!」

 三人は真剣な表情を浮かべると、手にしていた杯を床に叩きつけるようにして放り出し、部屋から飛び出していった。




 窓を開け放ち、チャイカとサイファを伴ったレイジはベランダへと出た。

「お、丁度良さそうな木があるな」

 ベランダの傍らに生えている木に目をつけたレイジは、その木に向かって左手を伸ばす。

 ぱしゅっという小さな音。その音と共に、彼の左手から単分子ワイヤーが放たれ、木の幹に巻き付いた。

「よし、行こうか、サイファ」

「え? え? えええええっ!?」

「だめですよー、サイファさん。大声を出しちゃ」

 にこやかな笑顔でサイファを注意するチャイカ。だが、彼女の声はサイファの耳には届いていない。

 なぜなら、突然レイジが彼女を片手で身体同士を密着させるように抱き抱えたからだ。

 そして、レイジはサイファを抱えたままベランダから跳ぶ。

 がくん、という落下する感覚がサイファの身体を襲う。

 だが、次の瞬間にはレイジとサイファの身体が突然何かに引っ張られた。

 もちろん、それは小型のウィンチでワイヤーを巻き上げたからだ。

 うぃぃぃぃん、という小さなモーター音を発しながら、二人の身体は急速に木へと近づいていく。

 レイジは空いた左手で器用に枝を掴んで勢いを殺すと、そのままワイヤーを利用して地上へと降り立った。

「チャイカ、脱出ルートは?」

「衛兵の手薄な場所を狙いましょう。逐次ナビゲートするので、私の指示に従ってください」

「了解」

 レイジはまだ目を回しているチャイカの手を取ると、彼女を優しく引っ張りながら物陰から物陰へと移動を開始した。




 チャイカという文字通り「天の目」を有するレイジたちは、巡回する衛兵に見つかることもなく、城壁のすぐ傍まで来ることができた。

「後は城壁を乗り越えるだけだな」

「……これを乗り越える……んですか……?」

 漆黒の闇の中、闇視能力のあるチャイカはそびえ立つ城壁を見上げる。

 その高さは五メートル以上。壁の表面に凹凸は少なく、何の道具もなしに乗り越えることは難しいだろう。

「ワイヤーを使えば乗り越えるのは難しくないさ。ブースターは音がするので、誰かに聞かれるかもしれないし」

 城壁の上を見据えて、レイジが左手を上へと向ける。

 そして単分子ワイヤーを射出しようとした時、突然、背後から白い腕が伸びてきて、レイジの首に巻き付いた。

「────っ!!」

 思わず上げそうになった悲鳴を飲み込み、レイジは首だけを背後へと回す。

「ちょっと。愛玩動物(ペット)である私を置いて、どこに行くつもりなのかな、レイジ様は?」

 背後からレイジの首にしなだれかかったのは、ラカームだった。

「び、びっくりした……ラカームさんだったのか……」

「相変わらず、何のセンサーにも反応しない隠密術はお見事としか言えませんねー」

「それで? レイジ様はどこに行くつもり?」

 どうやら、置いていかれそうだったのを怒っているらしい。

 城壁の近くの茂みの中に身を隠しながら、レイジはこれまでの経緯をラカームに説明した。

「えー、私を置いて逃げ出すつもりだったの?」

「仕方ないだろ? ここから逃げ出そうと決めた時、ラカームさんはいなかったんだし。それにラカームさんなら、俺たちがどこにいても追いついてきただろうしね」

「もう、調子いいんだから。まあ、いいわ。今回だけは見逃してあげる。でも、一つだけ条件があるわよ?」

「条件?」

 にっこりと、それでいてどこか妖しくラカームが微笑む。

「今後、私のことは呼び捨てにしてね。私はあなたの愛玩動物なんだから、『さん』付けで呼ばれても嬉しくないの」

「…………その理屈はよく判らないけど……まあ、判ったよラカーム」

「うん、よろしい」

 嬉しそうに微笑んだラカームは、改めて城壁を見上げた。

「城壁を乗り越えるのなら急いだ方がいいわよ? この城の衛兵って質が高いし、いつ気づかれるか知れたものじゃないわ」

 レイジはラカームの言葉に頷くと、すぐにワイヤーを射出し、城壁の上辺に存在する出っ張りに絡みつかせた。

「まず、サイファを上に上げる。その次にラカームだ。いいな?」

 その言葉に、二人は黙って頷いた。

 そして、順番に二人を城壁の上に上げたレイジは、今度は二人を抱き寄せるようにして抱えた。

「よし、後は逃げるだけだから、少しぐらい派手になってもいいよな?」

 二人を左右の腕に抱えながら、レイジは城壁の上から身を踊らせた。

 同時に、ブーツに仕込んだブースターを点火。空中で勢いを得たレイジは、そのまま堀を飛び越えて街中へと無事に降り立つ。

「よし、急ごう。追っ手が来ないとは限らないしな」

 二人にそう告げたレイジが街の外を目指そうとした時。

 彼らの目の前に、三人の男性が立ちはだかっていた。

「まさか、魔王に就任された初日に逃げ出すとは……思いも致しませんでしたぞ、魔王様」

 ぶすっとした表情を隠すことなくそう告げたのは、背後に二人の元帥を従えたマーオだった。


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