第78話 案の定、幼馴染は筋肉痛
借りてきたバイクをかっ飛ばし、俺は如月家に到着した。
リビングでニマニマしながら待っていた撫子さんを短い会話だけでどうにか一蹴し、足早に唯花の部屋の前に辿り着く。
「なるほど、こういうことか……」
扉の前にはお盆が二膳置いてあった。
朝用と昼用。どっちも見事に手つかずだ。
確かお菓子なんかの備蓄も部屋にはなかったと思う。つまり唯花は今日一日、何も食べていない。
どうしたっていうんだ、一体……。
とりあえず昼用のお盆を抱え、ドアノブをまわした。
ノックは省略。そのまま部屋に入る。
「唯花、来たぞ。ちゃんと食わなきゃ駄目だろ……って、うお!?」
「ぷぎゅるぅ」
「ぎゃーっ、なんか踏んだ!? なんか踏んだ!? んで、なんか変な音がしたーっ!?」
部屋に入った途端、足の裏に柔らかいものを踏んだ感触があった。
同時に響いたのは、ぴこぴこサンダルをすり潰したような謎の音。
俺はお盆を落としそうな勢いで飛び退く。すると。
「お腹空いたぁ……」
「ゆ、唯花ーっ!?」
謎の音の正体は、俺の好きな女の子でした。
いや思いっきり頭踏んじゃったよ。どうしよう、ちょっとドキドキする……。
で、当の唯花は扉の前でうつ伏せになって、ぐんにょりしていた。
状況から察するに、朝ご飯のお盆を取りに出ようとして、たどり着けずに力尽きたといったところか。
俺はお盆を床に置き、黒髪の頭を恐る恐る突いてみる。
「だ、大丈夫か……?」
「大丈夫じゃにゃい。筋肉痛で動けにゃい……」
「ああ……」
どうやら撫子さんの見立ては正解だったようだ。
「動けなくなるほどの筋肉痛って、お前どんだけトレーニングしたんだよ……」
「この命、燃え尽きるまで……」
「燃え尽きてたら死んでるぞ?」
ギギギ……と音がしそうな固さで首を傾け、唯花はこっちを見る。
「……昨日、奏太が帰ってからもずっとやってたの。ダンベルの他にリバースプランクとかヒップリフトブリッジとか色々……」
「見事に片仮名オンパレード……言葉の響きが格好良いところから手を出しまくったパターンだな」
「まったくその通りだから反論できにゃい。……それで朝起きたら全身ビッキビキ。ご飯取りに出ようと思ったんだけど、立つのも無理でどうにかここまで這っていって……」
「でも途中で力尽きた、と」
「イグザクトリィ、その通りでございます」
何はともあれ、喋る元気はあるみたいで安心した。
これも撫子さんの見立て通りだな。
さっきリビングで撫子さんが言っていたんだ。『たぶんウチのお姉ちゃん、動けなくなってるだろうけど、ご飯さえ食べれば元気になるから大丈夫よ。わたしもそうだったけど、こもってる時にトレーニング始めると止まらなくなっちゃうのよねー』と。
急いでたから適当に聞き流したが、今にして思うと、『わたしもそうだった』とか『こもってる時』とか、まさかあの人も唯花と同じように引きこもってた経験でもあるのだろうか。
……いやまさかな。親子二代で美少女で、振り回し癖持ちで引きこもりとか、いくらなんでも属性過多過ぎる。
「とりあえずさ、頑張るのはいいけど、程々にしとけよ。動けなくなったら元も子もないだろ」
「面目にゃい。身に染みておりまする……とりあえず起こして」
「へいへい」
パジャマの後ろ襟を掴み、子猫のように持ち上げてやる。ちょっとコツがいるが、慣れるとこの持ち方は便利だ。ぷらんぷらんしながら唯花は床から浮上する。
「楽ち~ん」
「そりゃようござんした。箸は自分で持てるか?」
「むりー。食べさせてー」
「そう来ると思ったわ……」
まあ、トレーニングを頑張った結果だからな。
多少は甘やかしてもバチは当たらないだろう。
で、とりあえずベッドの淵を背もたれにして座らせようとしたのだが。
「お背中痛い……。むり、固いところには座れにゃい……」
「まじか……」
背筋も酷使していたらしく、腰掛けた途端に唯花は半べそになった。
「えーと、じゃあ布団を背中側に持ってきて……」
「奏太、お腹空いた。これ以上待ってたら餓死しちゃう」
「待て待て、物事には順序がある。まずは布団を……」
「奏太、奏太」
「なんだ、なんだ?」
「我に名案あり」
「……嫌な予感しかしない」
が、筋肉痛の本人が言うので、従うしかなかった。
その結果。
「……どうして、こうなった?」
「だってこれなら痛くないもーんっ」
三上奏太、17歳。この度、唯花の椅子に就任しました。
正確には俺がベッドを背もたれにして座り、その俺を背もたれにして唯花が座っている。
いわゆる後ろから抱っこの姿勢だ。
「はい、食べさせてっ。食-べーさーせーてーっ」
「ここぞとばかりに甘えおる……」
「ふふん、筋肉痛は甘えんぼオッケーの許可証なのです」
「そんなシステムは生まれて初めて聞いたぞ」
「じゃあ、奏太の罰ゲームでもいいよ? さっき、あたしのこと踏んづけたし」
「ぬう、覚えていたか……っ」
これは逆らえない。
諦めて箸を手に取った。お盆は目の前のガラステーブルに置いてある。サラダのミニトマトを箸で掴み、二人羽織の要領で唯花の口元へ持っていく。
「ほれ、あーん」
「えへへ、あーん」
そうして唯花にご飯を食べさせた。ご機嫌な様子であれ食べたい、これ食べたい、次はこれ、と本人が指示してくるので、楽っちゃ楽である。
最後は食後のデザート。
撫子さんお手製のラズベリーヨーグルトをスプーンではむはむさせる。
「こんな至れり尽くせりは今日だけだからな?」
「分かってるってー」
「ならばよし。お食事は如何でしたか、お姫様?」
「余は満足じゃ!」
「そりゃ良かった」
「良い働きだったので、奏太にご褒美をあげよっか?」
「ご褒美?」
「そ。さっきからずーっと思ってたんだけど、奏太は気づかないみたいだから教えてあげる。この体勢、何か思い出さない?」
「何かって……」
そう言われて、思い出した。
以前にも唯花とこんな体勢になったことがあったな。
あれは確か……お気に入りのアニメがあるとかで無理やり観させられた時だったか。良いシーンになると、唯花が振り返ってくるので、危うくキスしそうに……あ。
「気づいたようですな?」
より深く、唯花が背中を預けてきた。
気にしないようにしていたシャンプーの匂いにクラっときそうになる。
背後はベッド。逃げ場なんてない。どうにか口だけでも開く。
「ま、待て待て。さすがにいかんだろ?」
「なんで? いいじゃん。だってご褒美だし。もう一回しちゃってるし」
「それは……」
そうかもしれないが、こっちにだって事情はある。
昨日だって理性さんが生命の危機に陥ってたんだ。こんな密着した状態でキスなんてしたら……絶対、我慢できなくなる。
――今、押し倒したら、きっと大人になれちゃうぞ☆
だーっ! うるせえ! 煩悩退散、煩悩退散!
どっかの母親の声が脳内に響き、俺は必死に頭を振った。
「と、とにかくいかん! 俺はお前の椅子なのでご褒美など必要ないのだ!」
「奏太だってしたいくせにぃ」
「したくても駄目なものは駄目なんだよっ」
「本当にいいのー?」
さらっ黒髪を揺らして、唯花が振り向く。
つい視線が吸い寄せられてしまうのは、魅惑の唇。いつもよりほんの少し赤い色。
「今だったら期間限定、ラズベリー味のキスだよ?」
イタズラっぽい笑みで小さく舌を出す。
唇よりもさらに鮮烈なその赤を見て、心臓が跳ね上がった。
「唯花、お、お前……っ」
「んー?」
「舌まで入れる気なのか!?」
「へっ!?」
ラズベリーではなく、いつも通りの色で真っ赤になった。
「そ、そんなことは言ってないでしょー!?」
「だってお前、舌をぺろっ出したろ。ぺろっと!」
「ぺろっと出しても、ぺろっと入れるって意味じゃないのー!」
「でもラズベリーを味わうなら舌は入っちゃわないか!?」
「そ、それは……入っちゃうかも、しれないけど……っ」
かぁぁぁぁっとさらに頬が朱に染まる。
恥ずかしさが臨界点に達したのか、唯花は叫んだ。どっかーんと爆発するように。
「とにかくそこまでは考えてなかったもん! あたしはそんなえっちな子じゃないもーん!」
意外! それは唯花の羞恥心の基準!
お腹を触らせるのはセーフでも、舌を入れちゃうのはえっちなことらしい。で、耳は触るだけでも絶対アウトだろ。これもう一つ一つ確認していくしかないな……。
そして叫んだ直後のこと。「はうわっ!?」と唯花の顔が引きつった。
「全身の筋肉さんが悲鳴を上げるーっ! 痛たたたたたたたーっ!?」
「うわ、ばかっ、テーブルの方に倒れるな! そっちお盆あるんだぞ、お盆!」
痛みのせいか、面白い動きで倒れそうになり、子猫持ちで慌てて助けた。
まあ幸か不幸か、おかげでキスうんぬんの空気は吹っ飛んでくれたが。
はぁ、助かった……。今日もルパンダイブは我慢できたぞ。下手なことすると、どこで撫子さんの耳に入るか分からんからな。
その後、唯花は俺を椅子にしてずっとぐったり。
無理なトレーニングはだめ、ゼッタイ。その言葉を深く心に刻んだという。




