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白い結婚のはずが、年の離れた辺境伯様に毎日愛を囁かれ、過保護なほど溺愛されています  作者: 秋月アムリ


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9/12

9.壁の向こうへ

 ゲオルグ辺境伯様が部屋を出ていってしまった後、私はその場に呆然と立ち尽くしていた。掌には、彼が触れた場所の温もりがまだ残っている。けれど、私の心を覆うのは、辺境の空よりも、いや、あの冷たい王都よりも深い後悔と、どうしようもない自己嫌悪だった。


(なんてことを……私、は……)


 彼の、傷ついたような、困惑しきった表情が脳裏に焼き付いて離れない。せっかく、あの仮面の下にある、温かく、情熱的な彼の心に触れられたかもしれない、あの貴重な瞬間を。あの口づけで、二人の関係は確かに「白い結婚」の枠を超え、一歩踏み出したはずだったのに。私の内にある、愚かな恐怖心が、全てを台無しにしてしまった。


 私は両親の忙しい背中を見て育ち、愛情をどう受け止め、どう返せばいいのか、その方法を知らないまま大きくなった。彼の、あまりに大きく、偽りのない愛情は、そんな私の小さく、愛情を知らない心を簡単に満たしてくれた。


 ……満たしてくれたのに、同時に、あまりに大きすぎて、自分には受け止める資格などないのではないか、という歪んだ思いを呼び起こしたのだ。


 瞳から止めどなく流れ落ちるものを、止めることができない。声にならない嗚咽が、静まり返った部屋に虚しく響いた。頬を伝う涙が、肌を冷たく濡らす。


 私は、彼の優しさも、甘さも、愛情も、何もかも受け止める資格などない、臆病で価値のない人間なのだと、改めて突きつけられた気がした。彼を傷つけてしまった。彼の、あの純粋な愛情を、私自身の問題で拒絶してしまったのだ。



 ――どれくらいの時間がそうして過ぎただろうか。


 壁にかけられた時計の針の音だけが、やけに大きく響く。涙が枯れることもなく、ただ立ち尽くしていた私の耳に、再び扉をノックする音が届いた。


(ゲオルグ……様……?)


 まさか、彼が戻ってくるなんて。自分があんな態度をとった後で。


 私の心臓は、驚きと戸惑い、そして微かな希望がない交ぜになり、激しく脈打った。


 慌てて涙を拭い、乱れた息を整えようとするが、上手くいかない。今、どんな顔をして彼に会えばいいのだろう。


 先ほど突き放した私に、彼はまた冷たい氷のような仮面を被るのだろうか。それとも──予想外の態度をとるのだろうか。どちらにしても、彼に会うのが、怖い。


 それでも……それでも、もう、逃げるわけにはいかない。彼がもう一度くれた機会で、私は彼と、そして自分自身と向き合わなくてはならない……。


「は……い」


 私の(かす)かな返事に呼応するように、扉が、ゆっくりと、しかし迷いのない動きで開かれた。


 そこに立っていたのは、やはりゲオルグ辺境伯様だった。


 部屋を出ていった時の傷つきと困惑の色は、彼の顔から完全に消え去ってはいない。しかし、先程の動揺はそこにはなかった。何かを決意し、一度定めたら決して揺るがないという、静かで、しかし研ぎ澄まされた鋼のような光を宿した瞳だった。


 手には何も持っていない。ただ、真っ直ぐに、迷うことなく私の元へと歩み寄ってきた。その足音は静かだが、確固たる意志の強さを感じさせる。


 部屋の中央で、彼は私の目の前に立ち止まった。そして、私の両手を、迷いなく取った。冷たさはない。確かな体温。そして、私を繋ぎ止めるかのような、力強く、でも優しい感触。その手は彼の強い意思を示しているように感じられた。


「エリーナ」


 彼の声は、先ほど部屋を出ていく際の掠れた声とは違い、落ち着いていた。辺境伯としての威厳よりも、私という存在に向けられた、真剣な感情が込められているのが、その声の響きから伝わってくる。


「君が、なぜ私から距離を取ったのか……なぜ、あんなにも怯えたような顔をしたのか……正直、分からなかった。全く、理解が及ばなかった」


 彼の瞳が、私の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。そこにあるのは詰問ではなく、純粋な困惑と、そして、それでもなお私を理解しようとする、揺るぎない意思の光だった。


「だが……君がああなった理由を理解できないまま、このまま君との間に、また壁ができてしまうのは……耐えられない。せっかく、ほんの少しだけ……触れられたと思った、君との間のこの距離が……再び遠ざかってしまうのは、私にとって、何よりも恐ろしいことだ」


 彼の声に、切実な、そして痛みを堪えるような響きが混じる。彼は、辺境の脅威よりも、政略的な駆け引きよりも、私という存在との間の距離が広がることを恐れている。その事実に、私の胸はまた締め付けられた。彼もまた、私と同じように……あるいは私以上に、壁ができることを恐れているのだ。


「だから……話をさせてほしい」


 彼は私の手を握る力を強めた。


「君が、なぜ私がこれほど君に……執着するのか、その理由を疑問に思っていることも……『白い結婚』の約束から逸れていると、戸惑っていることも……分かっている。君は、私の態度を、理解できずにいたのだろう?」


(え……!?)


 私の内心の葛藤、疑問、困惑。誰にも言えず、一人で抱え込んでいたそれらを、彼は全て見抜いていたというのだろうか? 私の戸惑いや、彼の甘さに対する疑問が、彼には全てお見通しだった?


「その全てについて……私が、君に話そう。隠すことは何もない」


 彼の瞳に宿る光が、決意の色を帯びる。それは、迷いのない、真っ直ぐな決意だ。その対象は剣でも、敵でもない。私という存在、そして私たちの関係に向けられている。


「なぜ、私が君を見ると、こうなってしまうのか……君が、不思議に思っている、この私の全ての理由」


 彼は私の手を引いて、部屋のソファへと導いた。隣に並んで腰掛け、改めて私の両手を、今度は包み込むように取った。


「これは、少し長い話になるかもしれない。そして、もしかしたら……年甲斐もないと、君に笑われてしまうような話かもしれない」


 彼の、深呼吸をする気配。その視線は、私の顔をじっと見つめている。そこには、辺境伯としての威圧感はなく、ただ、一人の男性として、秘めてきた、しかし偽りのない感情を打ち明けようとする、緊張と、そして僅かな気恥ずかしさが滲んでいるように見えた。


「だが、これが……君と、この私の……全てだ」


 ゆっくりと、しかし迷いなく、彼は語り始めた。それはただ、一人の人間が、目の前の大切な人間に向けて、心の一番奥底にある真実を伝えようとする、静かで、そして決定的な響きを持っていた。

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