11.氷解、そして
「エリーナ……君は……っ」
彼が、震える声で私の名を呼んだ。
「君は、何も間違っていない。怖かったのも、戸惑ったのも、当然のことだ」
彼は、私の頬に触れ、優しく涙を拭った。
「愛情を知らずに育った君に、俺はあまりに不器用で、大きすぎる愛情を、突然押し付けてしまった。白い結婚だという君の覚悟も知らずに、俺の都合だけで……っ」
彼の言葉に、私は首を横に振った。違う。彼のせいではない。私の、私自身の問題なのだ。言葉にはならないまま、ただ首を振る。
彼は、私のその仕草を見て、瞳を細めた。そして、私の両頬をそっと包み込み、顔を上げさせる。
「そして……」
その声に、辺境伯としての、主としての、揺るぎない命令の色が混じる。
「君が価値がないなどと、二度と言うな」
静かだが、絶対零度のような響きを持った命令。その言葉に、私の心臓が跳ね上がる。
「君は、俺の光だ。あの王都の澱みの中で、俺が見つけた、唯一の清らかな光だ。君がいなければ、俺は……っ」
彼は、言葉に詰まり、そのまま私を強く、壊れそうなくらいに抱きしめた。
「君こそが、俺にとって、あまりに眩しく、あまりに価値のある存在なんだ……っ。君の価値を疑う権利は、誰にもない。君自身にも、だ」
彼の腕の中で、私は再び涙を流した。それは、後悔の涙でも、悲しみの涙でもない。
誤解が解けた安堵と、彼の深い愛情、そして、彼が私の存在価値を、こんなにも強く肯定してくれたことへの、温かい、救われたような涙だった。
「ゲオルグ……様……」
初めて、彼の名を呼んだ。爵位をつけずに、親しみを込めて。
「ああ……エリーナ……」
彼は私の名を何度も呼んだ。その声には、もはや辺境伯としての威厳はない。ただ、愛する女性を腕に抱いた、一人の男性の、深い安堵と幸福だけが満ちていた。
訓練場の片隅での口づけは、二人の関係の始まりを示唆する一歩だった。そして、部屋でのこの告白と涙は、お互いの心の壁を完全に打ち壊し、真に結ばれた夫婦となる瞬間だった。
「白い結婚」は、最初から形だけのものだった。ゲオルグ様の偽りのない、あまりに大きく、深すぎる愛情によって、それはあっけなく意味を失った。
そして、私の抱えていた孤独も、自己肯定感の低さも、彼の惜しみない溺愛と、全てを受け止めてくれた優しさによって、少しずつ溶かされていくだろう。
辺境の厳しい土地で、私たちは、お互いの欠片を満たし合いながら、温かく、そして偽りのない夫婦として、歩み始める。
ゲオルグ様の、止めどない、あまりに重い愛と共に。
ゲオルグ様の腕の中で、私は再び涙を流した。それは、後悔でも悲しみでもない。全てが解けた安堵と、あまりに大きな愛情への感謝、そして、彼が私の存在価値をこれほどまでに肯定してくれたことへの、温かい、救われたような涙だった。
彼は、私の背中をゆっくりと撫でながら、何度も私の名を呼んでくれる。その声は、ただ愛しいものを慈しむ、一人の男性の柔らかな響きだった。
「エリーナ……もう、大丈夫だ……何も、怖がることはない」
彼の声が、直接心に響く。私の全てを受け止めてくれた温かい声だ。
「ゲオルグ……様……」
「ああ、エリーナ」
彼の腕の中で顔を上げ、その瞳を見つめる。そこにあるのは、もう傷つきや困惑ではない。深い愛情と、安堵、そして、これから始まる未来への希望のような光だ。
「ありがとう……ございます……全て、話してくださって……私の、勝手な思い込みや……怖さに、向き合ってくださって……」
「何を言うんだ。話すべきは、俺の方だった。君に、あんなにも辛い思いをさせて……すまなかった」
彼は、申し訳なさそうに眉を下げた。
「辺境伯様は……不器用な方ですね」
思わず、笑みが漏れた。王都で噂されていた「無骨」とは全く違う、愛しい不器用さ。長年感情を殺してきたせいで、愛情表現の方法を知らなかっただけなのだ。そのせいで、私をどれほど困惑させ、自分自身も苦しめていたのだろう。
「……耳が痛いな」
彼は、僅かに照れたように頬を染め、私を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
「どうしていいか、本当に分からなかったんだ。ただ、君を大切にしたくて、傍にいたくて……溢れる思いを、そのままぶつけるしか、方法を知らなかった」
「はい……伝わってきました。あまりに、大きすぎて……私のほうが、受け止めきれなくて……」
「いいんだ。焦らなくていい。少しずつ、慣れていけばいい」
彼はそう言って、私の髪に口づけを落とした。その口づけは、訓練場での探るような、確かめるようなものではなく、ただ純粋な、愛しむという感情だけのものだった。
腕の中から抜け出し、改めて向かい合う。手を取る手から伝わる温もり。見つめ合う瞳に宿る、偽りのない光。そこにはもう、「白い結婚」の契約も、「辺境伯」と「公爵令嬢」という立場もない。ただ、お互いの心だけがある。
「辺境伯様……」
「ゲオルグ、と呼んでほしい」
遮るように、しかし優しい声で彼は言った。
「……ゲオルグ、様」
まだ少し気恥ずかしい。
「様もいらない。エリーナ」
私の名を呼ぶ彼の声は、何度聞いても甘い。
「……ゲオルグ」
小さな声で彼の名を呼ぶと、ゲオルグ様は満足そうに、深く頷いた。
「ありがとう、エリーナ」
彼は私の両手を包み込み、熱っぽい視線で私を見つめた。
「これからは……本当の夫婦として、生きていこう。白い結婚、ではない」
「はい……本当の、夫婦として」
私の言葉に、ゲオルグ様は再び安堵の息を漏らした。
「エリーナ、君が望むなら、王都での暮らしに近い環境を整えることも……」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「私は、辺境伯様……いえ、ゲオルグの妻として、ここに来ました。この地で、あなたと共に生きていきたいです。あなたの傍が、私の場所ですから」
私の言葉に、彼の瞳が大きく見開かれた。そして、その瞳に、再びあの熱が宿る。私という存在に向けられた、純粋な、燃えるような愛の熱だ。
「エリーナ……!」
彼は、私の手を握る力を強め、そのまま勢いよく立ち上がった。そして、私を腕の中に抱き上げる。
「きゃっ!?」
突然の行動に、思わず声を上げた。
「私の愛しい妻……っ! こんなにも、健気に……っ」
彼は私の顔に、首筋に、惜しみなく口づけを落としてくる。止めることも、拒むこともできない。したくない。辺境伯としての威圧感も、武人としての無骨さも、この瞬間、彼の中には存在しない。ただ、愛する妻への、溢れんばかりの愛情だけがあった。
「ゲオルグ……ふふ……くすぐったい……」
笑みが漏れる。こんな風に、夫に甘やかされるなんて、結婚するまで想像もしていなかった。
彼は私の言葉を聞いて、少し動きを止め、私の顔を覗き込んだ。その瞳には、甘さと、そして、深い愛おしさが満ちている。
「本当に、愛しい……私の妻……。エリーナ」
彼はそう呟き、そのまま私を抱きかかえたまま、寝台へと向かった。
(あ……!)
ゲオルグ様の、温かい体温。私の体を抱く、力強い腕。そして、私だけに向けられる、情熱的な視線。
もう迷いも、恐れもない。あるのは、二人の間の、確かな愛情だけだ。
「エリーナ……」
彼の声は、熱を帯びていた――




