第22話 蝴蝶の悪夢
痛みが走った。
鈍痛はゆっくり静かに私の身体を浸食して──私の意識を乗っ取ろうとする。
触手に襲われて、助けに来てくれたセドリック様。
私を抱きしめようとした、その手を払ってしまった。
(えっ……)
声が出なかった。
何をしたのだろう。
驚き酷く傷ついたセドリック様の顔を見た瞬間、私が彼の手を払ったのだと気づく。
体が、動かない。
声が、言葉が紡げない。
まるで私の身体じゃないように、主人のいうことを聞いてくれない。
「オリ……ビア」
「せっ……ド……ック……た……す……け……」
涙が頬を伝って零れ落ちる寸前、私の意識は途切れた。
私を抱き抱えたセドリック様の温もりが愛おしいのに、指先一つ動かない。
どうして急に──。
私は困惑して涙を流すことしかできなかった。
***
それから目が覚めたけれど、私は自分で身体を動かせなかった。
声もうまくでない。
傍に居るセドリック様が触れようとすると反射的に手を払ってしまう。
そのたびに悲しそうな顔をする姿に胸が軋むように痛んだ。
謝る言葉は何とか絞り出せたけれど、それ以上の弁明はできなかった。
不敬に思われてしょうがない。
それから毎日部屋を訪れていたセドリック様は、一日一度から三日に一度、ついには一週間に一度程度しか顔を見せなくなった。
会話も短くて、私の顔を見ることもなくなって──。
名前も呼んでくれなくなった。
私に赦されたのは涙を流すことだけ。
泥のように眠る。
そんな時だけ都合のいい夢を見た。
セドリック様が傍に居て、私の手を掴んで、たくさん話をしてくださる。
セドリック様の温もりが愛おしくて、嬉しくて──今度は自分から抱き付いて離れない。シトラスの香りが心地よくて、たくさん「好き」だと口にする。
とても幸せで、ずっと続けばいいと願っても、次に目が覚めるとそこには誰もいない。
私が作り出した都合のいい夢なのだと次第に思うようになった。
季節はあっという間に巡り、グラシェ国に冬がやって来た。窓から牡丹雪が降り注ぎ、見慣れた窓の外には銀色の世界が広がっている。
セドリック様が部屋に訪れなくなり、少しずつ体が動くようになった。
けれど声は上手く出ない。
手紙なら──と思い至ったが、思いを綴ろうとした瞬間手が硬直して動かなくなる。
どうしてしまったのだろう。
あの触手の魔物に襲われたからだろうか。
あの日の朝は、あんなに幸せていっぱいだったのに──。
サーシャさんやヘレンさんが声をかけてくれることはあるけれど、返事が上手くできない。
きっと呆れているのだろう。言葉数も多くはない。
ダグラスやスカーレットの姿も見なくなった。
風邪を引いた時に傍に居て、過保護すぎるほど大事にしてくれていた日常が遠い昔のように感じられた。あれは時々夢だったのではないかと思うようになった。
本当はセドリック様に愛されていた事実はなくて、ずっと幸福な夢を見ていたのだとしたら、今の扱いも当然だろう。
けれどそれを認めるのが怖くて、悲しかった。
どうにかしたいのに、雁字搦めで息苦しい。
このままじゃいけないと思うのに、動けない。
時折、衝動的にこの場所から逃げ出したくなるけれど、セドリック様の笑顔や温もりを思い出すと決意が揺らいだ。
(私、どんどんおかしくなってる。……病気だとしたら書庫にいけば手掛かりがわかるかしら?)
自分が徐々に壊れてきているのが分かる。
自分でない何かに浸食されつつあることを──。
何もせずに泣き続けても好転しないと、私は書庫へと歩き出した。前にセドリック様が案内してくれたから場所は覚えている。
私の部屋にはサーシャさんたちもおらず、必要な時だけベルを鳴らすようになった。だから私が少しの間、居なくなっても誰も気づかないだろう。
廊下の壁に寄りかかりながらも目的の書庫に辿り着いた。雪の降る音が室内にまで聴こえてくる。
魔物に関する書物と、奇病関係で調べてみよう。そう思って書庫の奥へと足を踏み入れ──不意に奥から話し声が聞こえてきた。
「──があれば、あとは──」
「ああ、助かる」
知っている声だった。
密会なのか書庫の奥まった場所でセドリック様の背中と、緋色の美しい髪の美女が話し合っているのが聞こえた。セドリック様とその美女との距離は近く、気を許しているのが分かる。
侍女という服装ではない。
髪の色と合わせた真紅のドレスに身を包んでおり、凛とした佇まいはセドリック様と並ぶと似合っていた。口元を緩めて微笑む姿が胸を抉る。
けれど不思議と涙は出てこなかった。
とても悲しかったのに、もう涙が枯れてしまったようだった。
(ああ。……そうか。長い、長い夢が醒めたよう)
それからどうやって書庫を出たのか覚えていない。
気づけば私は雪が降る外を歩いていた。
雪がだいぶ積もっており、踵まで雪が積もっていたがなんとか進むことはできた。
どこに向かっているのかも分からないけれど、城には戻れなかった。
どこまでが夢で、現実だったのだろう。
もしかしたら私がグラシェ国の生贄として門を通った時からずっと彷徨って──幸せな夢を見ていたのでは? その方がありえそうだった。
最初からおかしかったのだ。
私を歓迎するなんてありはしないのに。
フランが死んだときのショックで夢と現実がごっちゃになっていたのかもしれない。
きっとそうだ。
なんて愚かだったのだろう。あれほど信じないと警戒していたのに──。
絶望はしなかった。グラシェ国に来た時なら違っただろう。
セドリック様の隣は温かくて、優しくて、心地がよくて、私は愛されてもいいのだと……安心した。ここに居てもいいと、『役に立つ私』ではなく、『ただの私』を受け入れてくれた。
これが現実ではない──としても、悲しくはあるけれど、たとえ夢でも一時でも誰かに愛されていたかもしれない。そう思ったら胸が温かくなった。
(そうだ。夢だったとしても、それはとても素敵な、大事な時間だった)
とても温かくて、優しくて、愛おしい時間。
誰かに心から愛されて、慕われた。それだけで胸が熱くなる。
楽しい時間はいつか終わりがくるものだ。
悲しいことや、つらいことと同じくらいに終わりがくる。
けれど生きていればまた楽しいことがやってくるように、生きて、生きて、生きて──それからフランの元に逝こう。
グラシェ国から出て祖国に戻ろう。ふと脳裏に浮かんだ。
(若葉の生い茂る森で……ひっそりと暮らしながら──)
不思議と青々とした森にひっそりと佇む一軒家が脳裏に浮かんだ。全く知らないはずなのに懐かしいと感じる。
あの場所に帰りたい。
帰ろうと──約束をした?
誰と?
なにか思い出せそうな気がしたが記憶が霧散してしまう。
気づけば足が上手く動かなくて──雪の上に倒れ込んでしまった。
あまり痛くはなかった。
冷たくも、寒くもない。
(……あれ、おかしいな。体がまた……うごかな……)
「──ア、──ビア」
声がした。
私を呼ぶ声にドキリとした。
ああ、また夢の中に戻った。
夢の中のセドリック様はとても優しかった。私を抱き上げて、力いっぱい抱き寄せてくれる。
温かい。都合のいい夢の続き。
「オリビア、ダメだ。私を一人にしないと約束しただろう」
「独りじゃないでしょう」とか「赤髪の女性と幸せに」と言えればよかったけれど、でもそんなことはもうどうでもよくて──思い出すのはセドリック様によくしてもらった、幸福だったころの記憶ばかり。
とても幸せだった。
愛されているということがこんなにも愛おしくて、甘くて、温かくて辛かった過去すら包み込んで、前が見えるようになるなんて思いもよらなかった。
自分を大切にできる。
周りの人たちを、もっと大切に思えるようになる。
ずっと私がほしかった、望んでいたものを──セドリック様はくださった。
夢の中でも構わない。
それでも私は救われた。
「セドリック様、……幸せでした。私を見つけてくださって、受け入れてくれて……ありがとう……ございます」
「オリビア、そんなこと言わないでください。ようやく、一緒になれるのに、やっと────が、解けるのに──」
頬に零れ落ちるのは──セドリック様の涙だった。
どうして泣いているの。
泣かないで。
悲しまないで。
笑っていてほしいのに。
大丈夫、死のうとなんて思ってないもの。ちゃんと生きるって、決めたもの。
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次回は夕方19時過ぎ?になります。
あと4話で最終回です。
最終話(全26)まで毎日更新(*´ω`)
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