歩んできた道 経済危機・・・そして
経済危機と言えば
そして二月
アメリカ発世界恐慌によって世界中の景気が悪くなったと言っても過言では無い。
日本も当然のように不景気だ。
既に景気の牽引役で有った鉄道改軌も終了間近だ。新規の鉄道開設はこの不景気に有って難しい。
是清さんは頑張っているが、足を引っ張る輩も多い。
海軍艦艇の新造も検討されるが、昨今の財政事情では難しい。ワシントン軍縮条約の戦艦建造枠十五万トンというユトランドで沈んだ三隻分と陸奥になるはずだった分は有るが、予算は出ないだろう。
続くロンドン軍縮会議でも同じ量は確保できるというのが関係筋の見通しだった。
陸軍は歩兵師団が既に若年失業者の志願先として枠一杯になっている。新師団の増設は海軍の戦艦同様認められないだろう。
そこへ高橋是清が体調不調で休養するという事態に政治経済界は混乱した。いかに彼の人に頼っていたのか。
そこで時の政権が愚挙に出る。地方予算を削って関東地方への集中投資を行った。健全財政を保ったまま、言い換えれば無借金で新たな投資を行うのだ。当然予算は増えないから他を減らすことになる。
この政策はある程度成功をした。関東への人の流れと金の流れが加速出来た。関西集中が緩和されかなり住みやすくなったのだ。
この機会にと関西では上下水道の整備が促進された。
煽りを食ったのは関西・関東以外の全ての地方だった。東海は中間地点で潤ったが、元々産業基盤が脆弱な東北と北海道はたまったものでは無かった。山陰もひどかったが東北・北海道ほどでは無かった。女衒が女を買い、食えない若者は関東へ出て行く。残されるのは土地持ち農家と年寄り、どこに行く当ても無い者達だった。まさかの姥捨てもが発生した。
山陽・四国・九州は戦国時代からの蓄積で何とか踏みとどまれた。
この苦労に政府は何ら有効な政策を出せず。ただ景気が良くなればと繰り返す。政府は東北・北海道では信用されなくなった。
この時の政策上の無策が後の二・二六事件に繋がっていく。
世界は不況を克服しようとブロック経済を選択する国が増えている。
日本もまた選択を迫られた。独自に行く力は無い。頼りの人はまだ静養中だ。
選択肢は幾つかあった。だが、アメリカのドルブロックは選択外だった。維新の頃から経済はともかく政治では仲の良い関係では無かった。
イギリスのポンドブロックか、フランスのフランブロックか。この不況下にあっても内乱を繰り返し統一には遠い中華圏との協調などは問題外だった。
ロシアもまた選択を迷っていた。とにかくアメリカ以外ならと言うのがスタンスだった。シベリア派兵ですっかり嫌われたアメリカだった。
そんな中、日本が取ったのはポンドだった。相変わらず政治的には信用できないが国としての安定性は一番だった。
フランスは維新以降でもどれだけ政体が替わったのか。イギリス以上に信用が出来ない。
ロシアはフランスを取った。昔から仲がいい。ナポレオン時代を除いてだが。
そしてロシアを通して日本がフランスと、日本を通じてロシアがイギリスと、間接的に経済で繋がっているおかしな関係が出来た。
しかし、ユーラシアの端と端である。中間にソビエトさえ無ければシベリア鉄道が威力を発揮したのに。
パナマ運河は出来たばかりであった。距離的には二割ほど近いものの中間寄港地点が全てアメリカとその影響力の強い地点であり、それならイギリス・フランスの植民地が多いスエズ経由アジア行きの方が自国利益にかなうとしてスエズ経由を推奨された。
世界にポンドブロック、フランブロック、ドルブロックの三大経済圏が出来上がった。他の国はいずれかの選択をするか、旨く立ち回るかだった。
ここで地政学的にも重要な国、トルコがどちらに付くか注目されたが、どちらも嫌いな国なようで、付かず離れずを選んだ。
ドイツには戦後復興と言う形でドルが大量に流し込まれていた。ポンドとフランは駆逐されそうだ。
WW1の結果、儲けすぎたアメリカにはドルがだぶついている。日本も儲けたが日露戦争の戦費償還と地震復興で飛んで消えた。
このままではヨーロッパがアメリカに経済支配されてしまうと焦るイギリスとフランスだった。
そこにこの世界恐慌だった。アメリカの資金が目に見えて消えていくのだ。アメリカはドイツに回っていた資金の回収をした。
これで困ったのがドイツのみならず、イギリスとフランスだった。ドルで復興するドイツから戦時賠償を受け取っていたのである。ドイツに金が無くなれば受け取れなくなるのは当然だった。
その金でアメリカから調達した戦費を償還していたのだ。
アメリカも資金が不足するようになり最大貸し付け国であるイギリス・フランスから回収を図った。両国とも膨大な戦費を先延ばしする交渉を行っていたが、貸し付け側の景気が大変よろしくない。返済を迫られた。
払えないのはこちらも同じとして、両国が取ったのは返済を求められた債権を一部の植民地で返済するという方法だった。しかも独立運動が酷くなり上手くいっていない地域だ。
確かに契約時に返済は植民地でも構わないとしていたが、本当になると思っていなかったアメリカだった。
契約時の資産変換では結構なお値段だった。しかし、現状では資金還元不能な上[資源は有るが独立運動が激しい植民地]という厄介な資産よりも、キャッシュが欲しかったアメリカである。
これにより両国は対米債務を大幅に減らすことが出来た。また国家財政的にも人的負担も軽減され、やたら植民地を持つべきでは無いとの教訓を得た。
契約時にこんな条項を入れてしまったアメリカによる自縄自縛であるが、両国を恨んだ。そしてこれを契機にモンロー主義が拗れ出す。経済的にはともかく政治的な引きこもり傾向が強くなった。
日本はポンドブロックに入り、一時の経済的安定を得た。国内では関東偏重の政治判断により地方が疲弊していく。不満が溜まっていた。
ロシアとの対外協調はいいが、この情勢でさらなるシベリア開発に手出しをしてしまう。
やがて不満は爆発した。東北や北海道、山陰など予算的にひどく減らされ疲弊している地方出身の中堅・若手士官が中心となり現政権を倒し新しい日本を作るという反乱だ。
1935年の寒い時期、二月二六日の事である。
この陸軍海軍問わずの賛同者達に軍上層部は衝撃を受けた。陸軍海軍は別々の判断をしてしまう。
陸軍は対話と協調を持って鎮めようとした。なあなあである。
海軍は反乱軍に大阪湾から戦艦主砲を指向した。海軍精神注入だ。
もちろん陸軍内にも反乱を武力鎮圧しようとする動きはあったが、高級士官の多くが奴らはすぐに目を覚ますと言った楽観論であり血を流そうとはしなかった。
海軍でも一部が鎮圧に非協力的な動きを見せた。
既に結構な数の被害者が出ている。もちろん反乱側にもだ。
それで尚動かない陸軍に、昭和天皇は伝家の宝刀近衛部隊を率いて自ら鎮圧に出ようとした。
慌てた陸軍は直ちに鎮圧を開始。短絡的かつ無計画な鎮圧開始に多数の死傷者を出してしまう。
海軍の主砲が火を噴くことは避けられたが、関係者の責任は重大だった。
陸軍はこの責任を現場指揮官に取らせようと目論むが、陛下の意を受けた近衛部隊と憲兵隊によってこの動きは阻止された。
陛下は大いに陸軍に失望されたという。
結局陸軍上層部は事件に関与していた人間は軍法会議により全員軍籍剥奪。警察に引き渡された。中心人物は死刑。他も長期の懲役となった。
残りの士官は三割が更迭された。一割が軍籍剥奪、一割が予備役編入、一割が左遷であった。もちろん憲兵隊にも非協力な者は居て、その者達も罰せられた。
海軍には迅速な対応を認められ寛大な措置が執られた。それでも一部高官や中堅処の処罰は避けられなかった。
ただ軍籍剥奪者は責任を取らなければならない者の内、過激指向では無い者が含みを受けた上で了解の下、軍籍剥奪とされた。
もちろん軍籍剥奪は最高に不名誉なことである。退職金も年金も出ない。こっそりと支援されるのだった。
この時、思想的に危険で本当に警戒すべき相手は予備役編入や左遷とし監視を容易とした。この中には石原莞爾、辻政信等が含まれる。相沢などの小物は放逐するとかえって危険であり、左遷の上監視しやすい業務に就かせた。もちろん変な動きをすれば即断で罰する。
海軍でも少なくない数の将校が同じ目に遭っていた。
この時の内閣は関東遍重を始めた内閣の後継であり同じ派閥・政治勢力に属していた。
国民はこのことを知り、内閣を批判。社会問題になった。
内閣は解散し総選挙で是非を問う。
この頃新聞社はずいぶんとまともになっており、極端な偏向報道は無くなっている。
内閣及び関東遍重を進めてきた派閥・政治勢力の議員は多くが落選。負けた。
組閣に当たって、陛下の意向を伺うが「民に良き者を」と言われたという。
首相候補の高橋是清は老齢であり、陛下もこれ以上は負担を掛けるなとおっしゃられた。
首相は中本幸司が選ばれた。内務省から別れた保健衛生省で大臣を務めるなどの気鋭の人物だった。
彼は内閣を若返らせるとして六十五歳以上の人物は評価が良くてもあえて避けた。自身が五十五であり年上の人間は扱いにくかったのかも知れない。
ヨーロッパでいろいろな事件があったが、日本は国際上の責任も有りいやでも巻き込まれていた。
前振りはおわりです。
次回より本編。
この世界、陸軍は日露以降拡大は抑えられ政治的影響力は史実に比べるとずいぶん少ないです。
この事件で更に影響力は減ります。
次回 日曜日かな。時間は朝五時。




