レニングラード
我らはナポレオンを超える
ソビエトは南部の柔らかい下腹を徐々に食い破られているが、元がデカいだけ有って中央モスクワにどんな影響が出ているのかはBFJR連合には分からなかった。
ただ、確実なのは弱っていることだ。もっとも、こちらも戦力は足りないが。アメリカという大戦力があるが、かの国は国内政治も有り時機を逸してしまっている。今後も物資の提供にとどまるだろう。
そこで、ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニアまでのソビエト軍を追い出した時点で戦力の再編に取りかかった。
まず、BFJR連合は現時点で対ソ持久とし再び押し込まれないようにするだけとした。
チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニアを陣営に引き込み、戦力を整えた上で反抗を再開する。増えてもそれぞれ10個師団程度であろうが、有ると無いとでは大差がある。そして、装備は後のことを考えてアメリカに提供して貰うことにする。もしソビエトが何らかの形で戦後復活しても、チェコスロバキア・ルーマニアに利権を持ったアメリカが矢面に立ってくれないかな?と言う皮算用で。それに、英仏とも戦時生産をそこまで増やす予定はないので、アメリカ製装備が無いと戦力にも出来ないという問題が有った。
特に航空機については、フランスが全く頼りにならない国であることが分かり、需要を満たせるのはアメリカだけだった。イギリスは自国装備とフランス支援で手一杯で無理だ。
戦車も同じだった。イギリスも怪しげな戦車が多いがフランスよりはマシだった。アメリカからは今年になってから採用された最新型であるM4中戦車を提供して貰うことにする。ただし、国内で配備されているM3中戦車を先にこちらに送ると言ってきた。中古ですから安いですよと。M2軽戦車も送るといてきたが、そのスペックで軽装甲がわかり遠慮した。そのスペックならチェコのLTvz34とLTvz38で足り得る。だが、やはり数が足りないのとアメリカがナニを考えたか知らないが、提示価格を遙かに下回るほとんど捨て値で送ると言ってきたのでありがたく貰うことにする。
アメリカから買ったのは、高価でない兵器と現地調達が間に合わない物資だった。なんでも買ってしまうと後々支払いで縛られることになる。また、ソビエトに苦渋を味あわされてきた国家では自国産の兵器でと言う機運も多かった。
結局アメリカから購入したのは、トラックを始めとする自動車類と自国でまかないきれない消耗品が多くなった。これは生産力が違いすぎた。戦車も同じである。
航空機はとにかく安価で数が揃う機体が中心だった。購入は陸軍機であるP-40が中心だった。フランスがほとんどでポーランドも主力機として使用した。
アメリカは高価な機体を売りたがったが金が無いの一言で断った。高速長距離戦闘機として、また偵察機としてP-38を売り込みに来たが、イギリスのモスキートや百式司令部偵察機で十分という事と、もう死に体のソビエト空軍相手に必要ないという事も有った。
小銃はM1小銃も検討されたが、高価で有り弾薬の補給に難があるという事(30-06はヨーロッパで使われていない)整備も専門の部門を作らないとよろしくないという事で中止となった。各国で造る事となるが、イギリスの303ブリティッシュにフランス7.5ミリの他は7.92ミリモーゼル弾を使う銃が多く結局Kar98kが主力となる。
軽機関銃はチェコのZB26である。重機関銃は同じくチェコのZB37が多く使われる。しかし、機関銃はやがて汎用性の高いMG34が主力となっていく。やはり弾薬の関係でアメリカ製は使われない。
見通しの悪い山林や市街地で抜群の威力を示す拳銃弾使用の短機関銃はフィンランドのスオミKP/-31とイギリスのステンが使われる。スオミは重さがステンは当初トラブルが多く不評であった。ステンのトラブルは徐々に改善された。スオミはその装弾数の多さと反動の少なさで扱う体力があれば好評だった。いずれも9ミリパラを使う。
ここにアメリカのトンプソンも候補に挙がるが、高価で有ることと、やはり弾薬の関係で採用されなかった。
大砲の類はヨーロッパに優秀な砲が多数有り、採用例は無い。
アメリカが有力な高性能兵器の他に、この時とばかりに古い兵器や性能的に物足りない兵器を処分したいのは明白だった。それならとBFJR連合は値切りにかかった。
最初の提示価格よりも値切ったのは、前述のM2軽戦車やM3中戦車。それに航空機ではF2AバッファローとP-36ホーク。いすれも生産数500機で打ち切りになった機体である。輸出用モンキーモデルやスクラップ扱いでは無く、正規スペック品だ。F2Aはフィンランドに送られ活躍する。P-36はチェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニアに送られそれなりに活躍した。ただ、各国とも機数はそんなに扱えないので、各国の残りは後から参戦した国で必要なところに送られる。
船舶は戦闘艦も輸送船も必要なかったので購入はしていない。商船を傭船した程度である。
アメリカ製の兵器や車両を扱う場合の問題になったのは規格の違いだった。イギリスを除くとヨーロッパは大体メートル法であり、製品寸法はもとより工具やネジ類もヤードポンド法とは違う。工具やネジ類はイギリス製かアメリカ製を使うしか無かった。しかし整備現場では、ネジ規格の違いにより整備中に間違えてネジ山を切ったり無理な寸法の部品を使おうとして機械そのものが簡単な修理で済むところが大修理になったりと大変不評だった。
計器の表示も違う。慣れるか換えるかだが、慣れる方にした。後にメートル法の目盛りも振った計器が使われるようになった。
この時の経験から後にヨーロッパ統一規格(ユーロ規格)が作られることになる。
こんな状態で戦力の整備を進めていたBFJR連合だが、いくつかの国が戦線に加わることになった。
イタリアとフィンランドにアメリカである。
トルコにも国境を固めるだけの役目は終わったとして攻勢に参加するよう要請した。これはあらかじめ決まっていたことであり、形式上に過ぎない。トルコの目標はバクー油田以外に無かった。幸いなことにアゼルバイジャンはイスラム教圏であり、同じイスラム教徒がほとんどのトルコなら治めるに無理は無いと考えていた。
フィンランドはソビエトと国境を接しており常に圧力を受けていた。ソビエトの負けが見えてきたこの時とばかりに日頃の鬱憤を晴らすのであろう。
イタリアは口実が無いのだがと思えば、日本陸軍の飛行八十八戦隊にいたイタリア人が最初から対ソ戦に参加していると言う事と、ヨーロッパに平和をと言う表向きの理由で参戦してきた。おそらく未回収のイタリア問題への影響力を高めようという考えと、今のままでは地中海の覇権をフランスとトルコ、イギリスに握られてしまうと言う危機感からだと思われた。
イタリアが参戦したことにより、BFJR連合が「少し待ってくれ」と参戦を待たせていたバルカン半島の未参加国家が次々と参戦してくるだろう。
アメリカは、イタリアと同じで日本陸軍飛行八十八戦隊にいたが、国内の世論が高まらず政府と軍需産業が頑張って物資の提供にこぎ着けたところだった。
そこで義勇兵をと思ったが、思うように集まらず失敗。選別して現役軍人を送れば世論がうるさいし。
結局フランスを見習った。フォーリンレジオンである。フランスに依頼してアメリカ国内での募集を増やして貰う。経費は政府の機密費からとフランスがアメリカ国内で調達した戦費の減額である。もちろん、表向きアメリカ政府は一切関知しないことになっている。
これには血の気の多い奴らと食い詰め者が集まり、3個師団ほど整備された。極秘であるが制御するために正規軍人も身分を隠して参加している。もしアメリカ人の損害が多ければ義勇兵から後、正規兵の参戦にしようと皮算用をしている。ソビエトの粘り次第であるが。
ソビエトがポーランド侵攻を始めてから1年半。戦線はソビエト国境で膠着していた。
2年目の春、戦線は動きを見せた。それまでも天候により回数は少ないが冬の間でも空襲は行われていた。それはソビエト航空戦力と軍事生産力の温存を許さないものだった。ランカスターとハリファックスにスターリングの大編隊が、唯一長距離護衛が可能である日本の零戦と一式戦の護衛を受け実行されていた。苦しい航空戦だった。爆撃機も戦闘機も多くが散った。もちろんそれ以上の損害を与えているが。
目標は軍事施設や軍需工場(と思わしき施設)だった。戦後の住民慰撫を考えてイギリスの主張する都市部への戦略爆撃は避けられた。道路や橋、鉄道施設も意図的に避けられた。
主要目標はハリコフ・ドネツク・ミンスクだった。工業都市であり、点在する工場等に向けた爆撃による流れ弾でかなり市街地も被害が出た。政治的にはモスクワをやりたかったがモスクワは遠かった。
ソビエトは東からの圧力も受けている。クラスノヤルスクで越冬したロシア・日本連合が始動したのだ。
戦力を西に集中できないだろう事は明白だった。それに重要戦略物資である生ゴムの輸入もほぼ絶たれた。北海経由で少量入っているものの、とても軍事生産には足りない量だろう。ブラジルから少量が出ているのは確認されているが、完全に絶つと民生方面で悪影響が出ることを懸念され見逃されていた。
連合は(BFJR連合はただ連合と呼ばれるようになっていた)ソビエトが「今年のクリスマスまでに降伏するだろう」と考えていた。
春になり動いた連合軍の目標はレニングラードだった。バルト三国を解放しつつ進軍をするのだ。ナポレオンも出来なかったことをやる。軍人達は意気軒昂だった。
次回更新未定
今後の戦車戦で、たぶんM4の嵐は有りません。ソビエトの生産がヘロヘロで台数も無いだろうし
クルスクどうしようかな
その前にレニングラードです
ナポレオンを超えることが出来るのか
ネジ規格は現在でも各種有り、当時はもっとややこしかっただろうと思います
自転車なんかフレンチ規格も有ったし。確かピッチは同じでもJIS(ISO)と微妙に山が違うのですが強引に噛ますことも出来ました
JISで切り直して使いましたけど




