歩んできた道 維新から日露
主に日露ですね。
作者作 最後の零戦からの流用です。一部修正有り。
維新を成し遂げた薩長を中心とした勢力であるが、前途は多難だった。
維新後すぐに黒船来航。対等な条約なら締結すると言って追い返す。思えばアメリカとはこの頃から仲が悪いのかも知れない。
立憲君主制の中央集権国家を目指す彼等は天皇家の存在が必要だった。
京都で複数回交渉するも、首を縦に振ってくれなかった。
薩長の代表が疲れた頃に事件は起こった。
横柄な態度の薩長代表にぶぶ漬けいかがと言ってしまった。これに怒った代表の中の一人が公家の夫人を斬り殺してしまう。
京都事件だった。
これによってますます天皇家は首を振らない。
京都人から薩長の代表はボロかすに扱われる。
結局、孝明天皇がお隠れになり睦仁殿下が新しく即位した時に始めて了解をして貰った。
明治が始まった。
日本は明治維新以降、着実に大国への道を進んでいた。
明治の初めには混乱も有ったが外国に付け入る隙を与えず無事平定できた。
大きな出来事は日清戦争で勝ったことだった。この時、新聞が煽れば売れることに気がつき各新聞社は次の機会を待っていた。
次の機会は日露戦争だった。
戦争が始まりそうな雰囲気に、新聞は煽りまくった。中には冷静な視点で社説を書く新聞も有ったが、七割方の新聞は煽る方だった。
中にはやり過ぎで有るとして、発禁処分になった新聞社も有る。
その煽りのせいですっかり本気になってしまった多数の国民と陸軍だった。海軍もやる気はあったが戦力差から言って、日清戦争並みの苦労を覚悟していた。新聞が煽るような快勝など無いのだと言う現実を知っていた。海軍が相手にするのは海という人知を超えた存在と船という名の最新技術の塊と言う現実だった。海軍は陸軍より先に戦国時代の思考から脱却を始めていた。
戦争は日本の先制攻撃で始まった。しばらくしてから日本から宣戦布告がなされた。
戦争は進んでいくが新聞の煽りは酷かった。
中でも海軍が新聞嫌いになる事件があった。
当時ロシア海軍は日本海で通商破壊戦を仕掛けていた。これに振り回された日本海軍は村上中将率いる第二艦隊で捕捉すべく行動するが悪天候や偽情報を掴まされる等失敗続きであり、国会議員や新聞社から無能呼ばわりされ自宅には投石も有った。
この投石事件をとある新聞社は[無能で有り当然で有る]などと書いたため村上中将宅はほぼ再生不能 新築の方が安い まで投石によって破壊された。後に海軍はこの新聞社の新聞を購読しないよう軍内部での無言の決定をした。
家族は避難していて無事だったという。
最初に無能呼ばわりした国会議員と新聞社は謝罪も発言の訂正もせず、逆に海軍全体の無能を誹った。
最初の新聞社が非購読新聞に加えられたのは当然だった。議員への投票もしないことはこれも当然となった。
後に通商破壊戦を繰り返していたロシア艦隊を遂に捕捉撃滅に成功したが、かの新聞社は手のひらを返したように目出度いなどと書き立てたため今度は読者から不審を買った。
国会議員もそんな事は当然だとばかりに発言を繰り返したため、選挙民から人品に悖るとして批判を受け次の選挙では落ちた。
陸軍は多くの死傷者を出しながらも順調に戦争を遂行していた。
最初の躓きは旅順要塞攻略戦だった。海軍との意見の対立や食い違いや陸軍内でもうまく連携が取れ無い事があってちぐはぐな作戦行動になり、また新兵器であるマキシム機関銃の前に多大の戦死傷者を出してしまった。自身でも所有していたマキシム機関銃の威力は野戦よりも陣地防衛戦で意力を発揮すると知った。
次の躓きは奉天会戦だった。この戦いで乃木将軍が功を焦り率いる第三軍を予定よりも遙かに突出させてしまい、ロシア軍の逆撃を受け大損害を出してしまい壊滅した。
総司令官の児玉源太郎は直ちに戦線を整理するも、ロシア軍の勢いは止まらず包囲するはずが逆に半包囲され劣勢のまま膠着状態に陥った。これは両軍とも補給が尽きたためで有る。攻勢に出るような物資が無かった。
ロシアの希望は最新鋭戦艦4隻を含むバルチック艦隊である。だが出だしで躓き(ドッガーバンク事件)怒りのイギリスによる様々な有形無形の妨害も有り人も船も疲れ果てた状態で準備万端な連合艦隊の迎撃を受けたので有る。バルチック艦隊の早期発見が成功したことも要因の一つだ。
結果は書かなくてもいいだろう。
日露戦争は日本の辛勝という形で休戦となった。
だが、また多くの新聞社が完勝・大勝利などと書き立てた。政府はこれを戒めたが肝心の新聞社がそんな事は記事の隅に少し書いただけだった。特に陸軍は一四万人以上の戦死・病死者を出した事を糊塗するために積極的に新聞社を利用した。
これが後の天王寺暴動を引き起こす原因の一つとなるのだが、当時は損害をどうごまかすかに心血を注いでおりそんな事まで考えていなかった。児玉源太郎が日本にいればそんな事はなかっただろうが、残念ながら劣勢のままの休戦であり現地を離れるわけにはいかなかった。
講和交渉はアメリカのポーツマスで行われた。
日本代表全権は予定されていた伊藤博文が急病のため急遽小村寿太郎に変わった。
交渉は困難を極めた後締結された。
日本はこの戦いを世界に打って出るため利用するのであり格好を付けなければいけなかった。すなわち賠償金の放棄である。
これには一コペイカたりとも支払わないとしたロシア皇帝の意を受けたロシア代表も驚いた。
その後は舌戦や根回しなどを繰り広げた両国であるが休戦時の状況は、陸戦で日本負け海戦で日本完勝という状態であり、痛み分けとなった。
結果
日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する
ロシアは東清鉄道を日本と共同経営する。これには各種鉱山の租借権も含む
ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本の漁業者にも与える
領土は両国とも現状とし、これを永久に認める。
賠償金はお互いに請求しない
当初日本としては朝鮮半島の優越権と遼東半島の租借権を狙っていたのだがどちらも取ることが出来なかった。
狙っていたものには届かなかったが、現状では日本が良く纏めた方だった。
これに対する新聞の反応は酷かった。やはり五割の新聞が「勝ったのに領土も賠償金も無い」と強調してこれでは負け戦では無いかと喚く。賠償金も無い。勝ったはずでは無いのか。東清鉄道の共同経営や沿海州の漁業権についてはだんまりだった。
実際、陸では負けそうになっていた。もう日本には奉天で耐えている児玉達日本陸軍に有効な補給が出来なかった。
そう、国庫が空である。また根こそぎ動員によって生産・輸送体制に酷くガタが来てしまっていた。
酷く劣勢になった日本にこれ以上融資をしてくれる勢力は見当たらなかった。
もし休戦中にロシアが物資の集積を済ませ何かきっかけが有れば日本陸軍は瓦解していただろう。
講和条約を纏めた小村達日本代表団を待っていたのは投石と暴言の嵐だった。
警備すべき警察もあからさまに手を抜いていた。陸軍に警備を命令するも従わなかった。
これを聞き及んだ陛下によって近衛が登場。ようやく小村達は宿舎に入った。自宅はやはり投石でダメにされていた。
不満が収まらない新聞各社と煽られた大衆は各地で暴動を起こした。中でも最大規模だったのが天王寺暴動だった。有名どころの論客や批評家、一部政治家を集めた集会には多数の人間が集まり、興奮から狂騒へ、やがて暴動になった。
付近の商店を略奪し婦女子への暴行、果ては焼き討ちまで発生した。警察では抑えることが出来ず、陸軍は言うことを聞かない。再び近衛の出動だった。
これには陸軍が驚き、暴動鎮圧に乗り出した。結果、全国で死者三〇〇人重軽傷者一〇〇〇人以上を数える大惨事になってしまった。この三分の一が天王寺だと言われる。
これを聞き及んだ陛下は原因究明と再発防止、被害者の救援に務めるよう桂内閣に命じた。
桂内閣は努力をしたつもりだが、反抗する人間や勢力の多くが桂・山縣勢であり、上手くいかなかった。
陛下に度々質問を受けた桂は「我が努力の及ぶところでは無し」と責任を放棄して退陣してしまった。
以降陛下の信頼を失い、二度と政界に出てくることはなかった。
この頃の明治天皇は維新の頃と違い、薩長勢に御しやすいお子様陛下では無くなっていた。
経験を積み年齢を重ね威厳が生じていた。薩長は自分達が与えた権威によって逆に主導権を握られてしまった。
西園寺公望に組閣を命じ天王寺暴動の原因究明と再発防止策を採るように厳命した。陸軍大臣には児玉源太郎を指名したと言われている。
この内閣で児玉は陸軍増長の原因の一つである山縣有朋の影響力をどうやって減らすか腐心したとされる。
西園寺は協調してくれる勢力と共に政治の刷新を進めた。
内務省の権力集中も問題であるとされ、警察・地方・保健衛生が独立した。この権力集中は山縣有朋が主体になって手がけた物で特に警察と地方が内務省から独立したのは影響が大きく、内務省が好き勝手出来なくなっていくと共に山縣有朋の影響力が減っていく。
日露戦争で散々煽った新聞も何社か潰された。煽った知識人や活動家が煽動罪で逮捕される件数も多数に上った。警察が独立したことで司法との連携が取れ様々な妨害に強くなったせいも有る。
苦しい財政は桂の予定だと満州で手に入れた鉄道をアメリカ財閥と共同で運行することや朝鮮への投資で返還されるとされたが、絵に描いた餅となった。
国家財政の四倍という戦費を返済するに当たって、日清戦争で得られた賠償金をほとんど充当し更に今後三〇年で返済するという苦しい協定を戦費調達先と結んだのである。
朝鮮への投資は無くなったが、残りの返済分を国内投資の減額で補うという苦しい選択をしなければならなくなった。
この時辣腕を振るったのが高橋是清であった。彼の功績は大きすぎるため割愛させて頂く。
政府は緊縮財政の一環として軍縮を手がけた。これに一番反対したのが山縣有朋を始めとする一派であった。ロシア脅威論である。
だが伊藤博文と児玉源太郎はこれを奇貨として陸軍内や政治勢力からの山縣閥をかなり排除することに成功。
山縣は怒り心頭であった。だが、日露戦争での劣勢や戦費返還方法の不備を桂・山縣閥のせいにすり替えられてしまい、影響力が激減した。
山縣はその後も巻き返しを図ろうとするも陛下の信任は既に無く重責に就く事も無かった。陛下の信任を失ったことを感じた彼は完全に政治・軍政の世界から遠ざかり故郷で隠棲した。
軍縮であるが、陸軍は平時一五個師団と二個師団の減少を迫られた。日露戦争後、召集解除の他傷病者の除隊が相次ぎ実質一二個師団の人員しか確保できておらず文句は言えなかった。新聞を使って死傷者数を過小に世間に聞かせていたこともあり、かなりの将官が退役や予備役編入と左遷をされた。これにより明治維新の混乱で実力も無く高官になった者達を排除できた。
海軍も財政の問題は理解しており、大型艦を中心に軍縮を行った。具体的には日清戦争時の艦艇を廃艦とし、新鋭艦に切り替えるという数を減らして質を取る戦略だった。艦艇の更新は国内建艦能力の維持程度とされた。
鎮遠は清に返還された。
この海軍戦略で艦艇数は減ったものの近代戦を戦える戦力は向上した。
国内開発では、日露戦争に於いて広軌規格鉄道の輸送力に触れた日本が国内新規鉄道は広軌とするとした。既存の鉄道も出来る限り早い機会に広軌に改軌するとした。
これには安く鉄道を引きたい勢力が大反対したものの輸送力の差は歴然であり、初期費用の安さと山間部や渓谷での鉄道敷設が楽という以外優位な点が無く、敷設技術・土木技術の向上を図って国内各地への敷設を進めると決定された。
攻撃的な思想家や活動家で危険思想の持ち主はかなり退場して貰いました。
煽りまくる新聞社も。
陸軍も膨大な死傷者の数や数々の失敗を糊塗しようとした連中には消えて貰います。




