ワルシャワまで後何マイル? いえ、日本はひっそりとプラハを目指します
方針転換か
モーデル川で対峙する、BFJR軍とソビエト人民共和国軍。
一時の攻勢が失敗に終わり、再攻勢を架けたいソビエト人民共和国ではあったが、問題はその人と物の補給能力だった。
兵隊はいろんなとこから徴兵してごく短期間の錬成の後、配備するだけで良かった。兵隊個人で戦術や作戦目的を理解する必要はない。極端な話、ただ引き金を引ければいい。それがソビエト人民共和国軍の一般的な徴兵された兵だった。
だから短期間で信じられない数が揃う。
もちろんきちんと錬成された志願兵もいる。そうした志願兵は戦場と人員の急拡大の中、限られた数の士官と大量の徴兵された兵の間に置かれる。下士官である。言い換えれば下級中間管理職にされた。志願兵の中でも古参の曹クラスである軍曹や曹長は少尉や准尉への昇進もあった。兵長辺りはよほどの役立たず以外は曹にされた。上等兵は兵長や曹に、1等兵の半数程度は兵長に。さすがに2等兵はそのまま置かれたが。だが2等兵でさえ、ほとんどの場合徴兵された兵士よりはマシであるために徴兵された2等兵の上位に置かれた。
それで数は有るが、有機的な運用など夢の軍隊ができあがった。
有機的な運用をするには、末端まで戦術と作戦目的を理解した兵が必要だった。
それを大量に昇進させた下士官兵で補おうというのが、ソビエト人民共和国軍の考えで有った。
これは他の国でも同様で有るが、ソビエト人民共和国軍では徴兵された兵の錬成期間が短すぎた。しかも、民衆を押さえつけやすいように識字率を先進国水準に引き上げる努力をした以外は、意図的に教育レベルが落とされていた。これは広大な国土と膨大な国民に対して、教育者と予算の不足から仕方がないことでもあった。それでも1920年に2割程度だった識字率を1940年までに8割前後まで上げた。また新たな国民教育プログラムでもソビエト人民共和国では共産党員の家族以外は、読み書きと四則演算程度で最終学歴とされている事が多かった。しかもその教育を受けた国民が徴兵年齢に達していなかった。
徴兵された多くは読み書きがかろうじてできるだけという人間も多く、高度な軍事教育はやりたくても出来なかったのが実情だった。
だから兵隊が作戦目的と戦術が理解できるかというとかなり疑問視されざるを得なかった。
結果、一から十まで指示しないと動けない兵隊ばかりになり、ソビエト人民共和国軍が考えていた戦時編成軍とは現実問題として乖離が激しかった。
人員を確保したまでは良かったが、装備でも問題は起きる。
銃や大砲はまだ良かった。戦闘車両や航空機では、未経験の人間をひっぱてきていきなり作業させるものだから不良品の山で有る。本来なら不良品は工場出荷段階で撥ねられ再調整なりを受けるのであるが、共産党政権の成果主義に引っ張られ数量が優先された。つまり不良品でも形になっていればパスしてしまうのである。
これが前線にまで回ってくるのだから、戦争をしている人間はたまったものでは無かった。
継ぎ目がずれている飛行機。中には木製機の合板が接着不良で飛行中に何層か剥がれ飛ぶなどもあった。性能低下は著しかった。
装甲車両も酷かった。装甲の隙間から外が見える戦車さえもあった。
軍服でさえも、サイズがまちまちであったり、左右で違うなども日常茶飯事だった。
とどめは生ゴムの不足だった。生ゴムの主要産地はほとんどBFJR連合とアメリカの域内であり、BFJR連合の域内からソビエト人民共和国には輸出されなかった。ではアメリカはと言うと、生産量が自国必要量を下回っておりなお輸入が必要な状態だったから、密輸まがいの少量が第3国経由で医療品原料という形で渡されただけだった。他にはブラジルから足下を見たぼったくり価格で少量が入ってくるだけだった。
生ゴムの不足は、クラスノヤルスク陥落による銅とニッケルの生産減など比べものにならないほどの影響があった。
ソビエト人民共和国軍はその実態を知り、シュガシビリには攻勢不可能であると報告するが相手にされず、逆に反革命成分として扱われる始末だった。
ただでさえ革命政権成立後の混乱と長年にわたる粛清で有能な幹部将校が減っていたソビエト人民共和国軍である。一時、粛清は弱まっていたがシュガシビリの機嫌が悪くなり、また粛清が酷くなり余計に弱体化するのだった。そこにシュガシビリに阿諛追従する者達が拍車を掛けた。ブリヤは代表的な人物だった。
結果、上層部には、ほぼシュガシビリのイエスマンしかいなくなった。
シュガシビリは軍の完全なる把握が必要として、それまでは大隊単位にしか配属していなかった政治将校を末端の小隊にまで配属した。
それまで配属されていた政治将校は多少は軍事を学ばされたものだったが、今回配属された政治将校は全く学ぶ事なくいきなり政治将校の軍服を着せられた普通の共産党員だった。普通の共産党員などは共産党員の方がいい飯が食えるとか有利になるといった理由で共産党員になっている者が多く、高等教育を受けていたり政治信条を持つなどという人間は少数だった。そのためいきなり立場か強くなり、自分を強者と勘違いする者が続出。上からの命令は遵守させ、自分の言う事を聞かせようとするようになった。これにより軍の掌握は進んだが、同時に作戦遂行能力が著しく低下した。
そんな数は多いが能力が低下したソビエト人民共和国軍を相手にしていたのが、ようやく反撃のための戦力集中に成功しつつ有るBFJR連合だった。
ドイツは攻撃が散発的になり最前線ではなくなりつつ有ったが未だに危険で有り、焦燥感を強く持っている。しかし国内で軍備強化を図ろうにもベルサイユ条約の縛りから小さな戦力しか持てなかった為に、いきなり強大な軍事力の整備は出来ないのだった。
ドイツの役目は軍事力の整備を進めつつも、BFJR連合の後方拠点としての能力を求められた。
BFJR連合はソビエト人民共和国の内情を詳細に分析するにつれ、この戦争は長続きしないと判断。自国内での軍事生産を余り強化せず必要量プラスアルファを満たすのみと決めた。そして不足分をドイツに供給させる事も。第1次世界大戦後の物余り不況の再現はしたくなかったのだった。そうなれば笑うのは参戦していないアメリカだけだろうという事も予想できた。
それはアメリカを参戦させない方向へと意見が変わっていく。ソビエト人民共和国よりも連合の方が人口、生産力、資源、技術で上回る。アメリカの参戦は必要ないという意見に。
この考え方の変化に影響を受けたのは、日本陸軍独立第十八飛行団だった。
それまではアメリカ人傭兵の活躍や損害をアメリカに知らせ、アメリカ世論を参戦に持って行こうとしたのだったが、ここに至って活躍させない方へと舵を切る。
主攻戦線であるポーランド戦線ではなく、攻められなければいいチェコ方面ばかりを任される事になった。
また、日本陸軍ヨーロッパ派遣部隊も同様で有った。
このままでは戦後イギリスとフランスにデカい面をされる事になると危惧した日本は、ロシアやドイツを巻き込んでチェコスロバキア方面での独自行動を英仏から了解を取り付けた。
英仏は仏印を巡る戦いが実質負けで有り、ヨーロッパに口出しするなと言っても余り強く出られなかった。ポーランド方面には日本が出ないという約束だけは取り付けた。
日本が見ているのは黒海からカズピ海という、重要だが柔らかいソビエトの下腹だった。現有戦力では不可能だが追加で5個師団程度送れば、ソビエトに盛大な嫌がらせが出来、且つシベリアへの戦力増強を抑える見込みも有った。戦力誘因が成功した場合、ロシアと共にノヴォシビルスクを次の目標にすることになっていた。上手くいけば終戦までにエカテリンブルグまで行きたかった。
ノヴォシビルスクはまだシベリアだったが、エカテリンブルグはロシアである。ロシアの悲願だった。
補給は現地ヨーロッパでほとんど出来た。日本製の兵器の他に日本から持って行くのは、コメ・味噌・醤油・梅干しと被服に独自仕様の武器・弾薬が主だった。
弾薬については陸軍の7.7ミリ機関銃はヴィッカースが元だから303ブリティッシュだし、20ミリ機関砲は元がスイス・エリコン社製だった。大砲も、75ミリ野砲はフランスのシュナイダー社製で有り砲弾の補給に問題はなかった。
日本から持って行くのは少量で済んだのである。それでもかなりの負担であったが。
英仏軍がソビエト人民共和国軍を押し込みワルシャワまで後数十マイルという時に、ようやく現地で2個師団と追加航空戦力の整備が出来た日本はチェコ国境を越えた。残りは半年以内に到着する予定だった。
1943年2月、奇しくも仏印で戦端が開かれてから1年だった。
説明回でごめんなさい
次回
空飛ぶコブラの群れ か?




