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ここは日出ずる国  作者: 銀河乞食分隊
前章  -宗方サンプル-
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歩んできた道 その時歴史が変わった

変わったのは、本能寺の変からですね。

よく有る奴です。


 関ヶ原の合戦で東軍の大将である徳川家康は、ここまでの苦労と今の戦場を思うと思わず天を仰いだ。

 何故雨なのだ。これでは桶狭間の二の舞では無いか。今川家の一門で終わると思われていた儂がここまで来たのはあの時信長様が勝ったからだ。

 今度躍進するのは誰なのだ。

 家康は己の腹に刺さる槍を最後の力で叩き切る。島津の若い武将なのだろう。震えている。自分のやったことがまだ分かっていない。

 家康はその若者に笑いかけてやった。どう取るかは本人次第だ。最後にこんな意地悪をしても良いだろう。

 再び天を見上げるとやはり雨だった。そのまま後ろに倒れた。

 頬に在るのは雨か涙か

 そこでこちらにおいでおいでをしているのは誰じゃ。の・・・



 徳川家康は関ヶ原に散った。







 本能寺の変で織田信長が明智光秀に倒された。

 その後、知らせを受けた羽柴秀吉は毛利と和睦を結ぼうとするが同じ事を知った毛利が足下を見て引き延ばし。

 秀吉の強気な和睦条件を全て蹴った。

 結局中国よりも自分達の帰還が大事となり、一方的に撤退を開始。毛利は追撃よりも高松城救援を取った。これは整然とした撤退を見て、追い打ちをしても損害が多く出そうと考えたからだった。

 秀吉勢は撤退中宇喜多に横槍を入れられないよう旨く立ち回り、損害を出さずに撤退を成功させた。

 姫路に到着したのは六月も半ばだった。これは家康が逃げ帰り戦備を整え尾張まで出てきた頃だった。

 光秀はその間朝廷周りを固めることに奔走。味方も次第に増えていくのだった。

 結局、山崎の戦いで秀吉、家康の連合軍に光秀は敗れたものの池田恒興や丹羽長秀に主役を取られ秀吉は武功を稼ぐことが出来ず、織田家の重鎮は秀吉、勝家、家康の三竦みになった。出自から言えば勝家が、出世頭という意味では秀吉が、同盟と仲であれば家康が。一長一短であった。

 有力な武将である滝川一益は関東で上手くいかず、関東から追い出されその地位は下がってしまった。

 池田恒興と丹羽長秀は織田家での存在感はともかく武力・経済力で劣っていた。


 信長の後を決める清州会議では、柴田勝家が音頭を取り秀吉は家康と共に両脇を固めた。

 重臣の間では信意{茶筅丸}・信孝、共に頼りなしという声が大きく、三法師を後継として育てることが決定。

 その後勝家死去に伴い柴田家は次第に勢力を弱めていく。秀吉は信雄と家康は信孝と手を組み勢力争いを繰り広げるが三法師が元服し、織田信成となった状態では戦などの無理は出来なかった。だが三法師・信成には秀吉と家康を従える器量は無く二人の主導権争いを傍観する。


 秀吉は畿内から西を固めるべく奔走していく。だが長宗我部を引き入れるのには成功したが毛利は引き入れることが出来なかった。さらに言えば九州は修羅の地であった(ムリゲー)。


 一方家康は美濃から東を取り纏めようと努力していた。しかし。上杉・北条・佐竹などとくせ者ぞろいである。それでも弱体化してしまった柴田家を取り込み上杉を牽制しながら飛驒・越中も手に入れた。が、そこまでだった。


 関八州は北条の物かと思われたが、普段は諍いが絶えない間柄でも対北条となるとある程度固まるのであった。上杉は助けに来るのか略奪に来るのか分からない。信用できなかった。上杉は越中を取られている。とても進軍は大変であるが越後まで来られないわけでは無かった。軟らかい下腹である信濃も徳川に取られた。動こうにも動けなかった。


 関八州から北は魑魅魍魎が支配している。


 強力な大名は動けなくなっていた。動けば後背をつかれる危険があった。ここに戦国時代の休憩が訪れた。

 ガチでやっているのは九州・修羅の国である。東北はえげつなかった。


 結局、秀吉は天下人には成れなかった。実子はおらず、親族にも有力な武将はいない。豊臣は秀吉亡き後急速に没落、滅びる。子飼い・恩顧の武将はいるものの戦国武将であり機を見るに敏だった。

 ただ三成と三成家臣の島左近のみが滅びに付き合ったという。


 ここから戦国時代は再び鳴動を始める。

 もう織田信成は足利将軍と同じような立ち位置で命令を聞いて貰えなかった。

 

 九州の博多以外を制した島津が毛利と組み上洛を開始。長宗我部はこの流れに乗らず。宇喜多は信ずるに足りずとこの集団に滅ぼされる。

 畿内は秀吉子飼いの武将と独立勢力の対立で纏まることが出来なかった。

 紀州は畠山が中立という日和見を行っている。

 伊勢は分からなかった。三介様なのだから。

 尾張は徳川寄りであった。

 

 徳川はと言うと北条を何とか友好勢力に引き入れることに成功。今川人質時代の伝があって良かった。

 北条は後背を気にすること無く、まずは上総・下総を制し、上野も制した。

 もう上杉には関東に影響を及ぼす力が無い。と思われた。


 

 西国勢の上洛が知らされると、徳川が立ちはだかる。北条も応援に駆けつけた。

 戦力は西国勢がやや有利だが、地の利を持って戦える関ヶ原に誘導が成功。

 ここに関ヶ原の戦いが始まった。

 両軍ともおりからの雨に火縄が使えず従来の戦場だった。

 

 一進一退である戦場に於いて追い込まれ不利になった島津が見たのは戦場にあってぽっかり空いた空間だった。

 島津は不利な戦場から突撃して逃げた。

 逃げた先が徳川本陣だったのは誰の悪戯か。直衛で居た忠勝の武勇も数の暴力で押しつぶされた。


 家康討ち死にの知らせに狼狽える東軍、一気に攻めようとした西軍。


 そこに横から打ち掛けてきたのがなんと、三介様だった。紀州畠山も連れている。

 三介様は散々諸将を打ち破ったあとで停戦を持ちかけた。西軍も東軍も嫌だったが、いつの間にか上杉が越後から直江兼続を将として美濃まで来ていた。長宗我部も淡路から上陸、西軍の後背に付いた。

 ここに関ヶ原の戦いは終わった。

 

 笑ったのは、徳川・北条でも毛利・島津でも無い。三介様だった。

 朝廷を介した戦後処理で三介様はその存在感を発揮。茶筅丸の頃とは別人のようだったと言われる。

 この時、大坂に朝廷の命を受け政処(まつりどころ。後に政府と呼ばれる)を作った。

 島津・毛利・長宗我部・織田{三介様}・徳川・北条・上杉の七家による日の本の統治の始まりだった。紀州畠山・佐竹・伊達・最上を上記七家の控えとして扱い、実質十一家による寡頭政治だった。


 如何しても東五家に中三家と西三家では西三家の島津・毛利・長宗我部が経済力で不利であり、この不満が明治維新の遠因になったと言われる。


 足利幕府は消滅。征夷将軍の役職は受け継がれなかった。織田信成は一万石を隠居領として受け取らされ織田家頭領から隠居状態に置かれた。さすがに出家はさせられなかった。


 十一家の最高官位は内大臣で他は中納言と参議であった。

 朝廷の顔を立て朝廷・公家の経済的な復興は行ったが武家台頭以前のような暮らしが出来るほどでは無かった。

 政治的には朝廷・公家の影響力を減らすことに成功。

 朝廷に対してむやみに年号を替えることを禁ずるなど、朝廷は権威のみで政治的実効性の無い存在にする事に腐心。

 かたや、朝廷・公家文化の継承は密に行い応仁の乱以降実行されなかった儀式などの復旧に成功。後年でも宮中行事などの実行に問題が出るような事は無かった。


 蝦夷地の開発にも着手。先住民との調和と争いが繰り返される。寒冷の地であり開拓は進まず、北海道を平定した後ようやく樺太の大泊を起点として北に少し行ったところまで進んだ。しかしそれ以北は既にロシア圏だった。

 千島列島は占守島まで進んで、カムチャッカの南半分まで行ったが北半分はロシアになっていた。

 

 南方は沖縄を帰属させることに成功。


 明を継いだ形の清に対する朝貢貿易は清の政策で増減を繰り返した。清としては近隣で銀の一大産地で有る日本から銀を入手したかったのだが自らの政策に寄って上手くいかなかった。ヨーロッパの銀だけでは足りなかった。

 そこで清の一部高官が蛮族の地である海南島を日本に売ることを画策。何とかやり遂げた結果、海南島が日本になったのである。その際寄港地として台湾と香港の港の利用権を手に入れる。


 銀を大量に輸出した日本は最大級の鉱山であった石見銀山が枯渇の危機に有った。だが、幸運なことに千島列島幌延島で石見銀山を越える規模の銀山を発見していた。

 この銀山の所在と産出量は政府秘匿事項とされた。鉱山は犯罪者の刑場として採掘に従事させた。

 環境が悪く、食事に気を遣っていても受刑者のみならず管理側の役人にも相当数の死者が出たと記録がある。食事に気を遣ったのは、粗末な食事ではすぐに死んでしまい効率が悪かったからである。この食事重視は後年、本土でも過酷な作業をさせる受刑者にも適用し効率が上がったことから、日本の労働者に対する食事重視が始まる。後に軍や刑務所の食事でも変態レベルまで昇華するのはここからだった。


 海南島を手に入れた日本は、同地に進出するも南方の風土病に勝てず遅々としか進まなかった。

 やがて幾つかの良質な鉱山があることが判明。植物資源も豊富でとても良い買い物であった。

 ポルトガルやスペインが同地欲しさに強引な布教を施した事を発端に日本ではキリスト教の排除が始まる。

 反対するキリスト教勢は島原の乱など反乱を起こし、これにより幾つかの名家が途絶えた。ますますキリスト教に対する締め付けは厳しくなり、やがて禁教までは行かないが監視対象になってしまった。


 それ以外には事も無く平穏な日々が続いた。清がアヘン戦争で負けるまでは。

 この時日本は清との関係も有り海南島の港湾使用をイギリスに認めなかった。アヘン戦争の後でもその姿勢は変わらなかった。ご禁制のアヘンで貿易をするというイギリスは信じることが出来なかった。


 この戦争は日本の国内情勢の変化を促した。積極的な海外文化の導入で国力を強化し侵略を避けようとする勢力と、それを是とせず夷を排除して自国を守るという勢力の争いになった。

 勢力がぶつかり合う京都と大坂は人斬りの嵐が吹き荒れた。

 結局、海外文化導入勢の勝利で終わる。

 ここからが維新の始まりだった。人々の日常生活はともかく政治の世界は混乱の極みであった。

 島津と毛利はいち早く海外文化・技術を導入。主導権を取ろうとした。今度は京都と大坂の人斬りと言う騒乱どころでは無く、内乱だった。

 短期間で終わった内乱は国内の混乱も最小限に抑え、海外からの侵食を防いだ。





秀吉

中国大返しが不発

山崎の戦いで秀吉は主役になれず

清洲会議でも主導権を取れませんでした。担いだ奴が奴ゆえ

淀君が嫁ぐことも無く秀頼も生まれません

朝鮮出兵もありません

太閤検地に変わる検地はありました

刀狩りに近い物も


家康

山崎の戦いと清洲会議で存在感が出るも担いだ奴の頼りなさで失敗

北条とは人質時代の縁で同盟がなるもそれ以外の勢力とは結べず

一応信孝が織田家の中で徳川寄りで居てくれるが

乾坤一擲の関ヶ原に散ってしまった


勝家

清洲会議では信雄・信孝両名に付くこと無く中立。重臣達の票を集め三法師を跡継ぎに

その後、老齢に加え後継者に恵まれず家は衰退。徳川に頼る。柴田家は秀吉が嫌いだったから


三介様

中の人が入れ替わったようだ。 元ネタ拝借申し訳ありません


戦国時代の材題が多いの分かったような気がします。でも名前が余りに面倒で書く気は無い。あくまでも読み手一本。


幌延島の銀とか出鱈目ですね。


次回 六月三日 05:00予定

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― 新着の感想 ―
[気になる点] カムチャッカ南部があるならそこもどうにかなるし、まだまだ極北のロシアなんて薄いからアラスカまで行けるんじゃない?
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