第99話 星下の誓い
控え室として使われている広間には、ほんのわずかに焚かれた香の匂いが漂っている。弾九郎たちを囲む空気は、さながら嵐の前の静けさだった。
「それでは……これから忙しくなりますね」
マルフレアが、静かに口を開いた。凛とした声音だったが、その奥にわずかな安堵の響きがあった。まるで、すべてを見通していたかのような言い方。だが彼女にとって、次の瞬間こそが予想外だった。
「それで、マリーはどうするんだ? クルーデを倒す目的は果たした……また、ベネディクト殿のもとへ戻るのか?」
弾九郎の問いかけに、マルフレアは小さく瞬いた。胸の奥がわずかに疼いた。彼の目が、自分の進退を案じている──その事実が、予想以上に彼女の心を揺らした。
「私は祖父に、弾九郎様をお支えするよう申し付けられております。ですから……弾九郎様が私を不要と思われるその時まで、ご一緒させていただきますよ」
その答えに、弾九郎はほっとしたように表情を緩めた。口元には、自然と微笑が浮かんでいた。彼にとって、マルフレアの冷静で的確な知略は、もはや欠かせぬものだった。これから国を興すという、未踏の大海に漕ぎ出すにあたり、彼女の才覚は舵であり羅針盤となる。
「ならば……引き続き頼む。俺の至らぬ点は、これからも遠慮なく言ってくれ」
「もちろんです。遠慮も、容赦もいたしませんから」
鋭いがどこか嬉しそうなマルフレアの応答に、弾九郎は小さく肩をすくめた。
「……少しは手心を加えてくれてもいいんだぞ」
その言葉に、場の空気がふっと和らいだ。皆がくすりと笑い、重苦しかった部屋にあたたかな風が流れ込んだようだった。未来に待ち受ける試練がいかに苛烈であろうと、彼らが共に歩むならば、恐れるものなどない。そう思わせる静かな決意が、全員の表情に浮かんでいた。
「ライガよ。こういう話になった。できればグリシャーロットとは、これからも友誼を──」
弾九郎が言いかけたその時、ライガが突然椅子を蹴るように立ち上がり、次の瞬間には膝をついて頭を垂れていた。
「ど、どうしたライガ!?」
「ライガ・ライコネン、不肖の身ではありますが……何卒、弾九郎様のご家臣の列にお加えください! この命が尽きるその日まで、全身全霊でお仕えいたします!」
空気が、一瞬にして張り詰めた。衝撃が皆の顔に走る。ライガは傭兵でも浪人でもない。グリシャーロット領主の息子であり、将来は一国の指導者となる身。それが、頭を垂れてまで仕官を願い出るとは──。
「し、しかしライガ……お前、自分の立場を……!」
「構いません! 親父と議会は、俺が説得します! バート王と対峙する覚悟は、グリシャーロットとて同じ。ならば、いっそ弾九郎様に合流し、その礎となる道こそ、我が国の誉れと信じます!」
その言葉は、まるで雷鳴のようだった。燃え上がるような情熱。まっすぐな瞳。誰もが、彼の決意の強さに圧倒されていた。そして同時に、その真摯な想いが場の空気を包み込む。
「……いいんじゃねえか? これからもグリシャーロットとは手を取り合っていかなきゃならねえ。なら、ライガを身内にしちまったほうが話は早ええだろ」
ヴァロッタのぶっきらぼうな一言が、その緊張をほぐした。続けてメシュードラが、静かにうなずく。
「私も賛成です。ライガ殿のように義に厚い若者が加われば、我らの軍はさらに頼もしくなるでしょう」
「メシュードラ様……!」
感激のあまり、ライガはこぼれる涙を隠しきれなかった。その様子を見て、ツェットが肩をすくめて笑う。
「そんなに泣くなよ。まるで弾九郎を泣き落としにかかってるみたいじゃないか」
「し、しかし……ツェット殿……」
そこにクラットが一言添える。
「お前の気持ちは、ちゃんと皆に伝わったよ。あとのことは弾九郎の旦那と、軍師殿に任せときな」
「クラット殿……!」
ライガは感極まった面持ちで、顔を上げ、仲間たちを見渡した。赤く腫れた目のまま、ぐっと拳を握りしめる。そして最後に、弾九郎をまっすぐに見つめた。
「一度、お前の親父殿……ライオス殿と会おう。そして、これからの話をしよう」
「はいっ!」
力強い返事が、広間に響いた。その声に、誰もが小さく頷いた。こうして、新たな同盟と覚悟が、その場で確かに結ばれたのだった。
*
避難民たちの帰還は、静かに、そして粛々と始まった。早朝に出発した列は昼前にはその先頭が故郷、グリクトモア城に辿り着く。四万人を超える長大な列が、折れそうなほどの静けさを纏いながら、ゆっくりと進んでいた。空は雲ひとつなく晴れ渡り、本来ならば希望に満ちた帰還の光景であるはずだった。
だが、彼らの顔には笑みひとつ浮かばない。歩を進めるその足取りには、歓喜よりも沈痛な思いが滲んでいた。テルヌ──皆が敬愛する領主にして守護者。民の盾としてクルーデとの激戦を戦い抜き、護り通した英雄。その死の報せが既に民衆に届いていたのだ。平和が取り戻されたというのに、心は取り残されたまま。
それでも、時は待ってはくれない。やらねばならぬことは山積していた。
戦闘のために要塞と化したグリクトモア城。かつての荘厳な姿は影を潜め、無機質なコンテナによって塗り潰されていた。その撤去作業が、今まさに始まろうとしている。オウガたちが総動員され、正規軍の兵士までもが鎧を脱ぎ捨て、復興の汗を流していた。瓦礫の山と、静かに佇む亡骸のような街。その隙間から、少しずつ、かつての営みの匂いが戻り始めていた。
「ダン君!」
夜の帳が下りる頃、避難所の撤収作業を見届けたミリアが帰ってきた。たった三日。それだけの時間だったはずなのに、まるで数年分の孤独を経たように、彼女の声は震えていた。
「ミリア……無事で良かった。聞いたぞ。皆が口を揃えて誉めていた。よく頑張ってくれたな」
「ダン君こそ……本当に、ほんとうに無事で良かった……」
ミリアの顔に浮かんだ安堵の表情は、緊張の糸が切れた人間だけが見せるものだった。まだ十五の少女が、四万を超える避難民の先頭に立ち、その心を支え続けたのだ。その重圧は計り知れない。涙こそこぼさなかったが、彼女の目には、ようやく一人の少女としての脆さが戻っていた。
「ミリア……俺から、話さなきゃならないことがある」
夜風が冷たくなりはじめた頃、弾九郎とミリアは館の中庭を歩いていた。空を見上げると、雲が切れた夜空に無数の星が浮かび、どこか遠くで犬の吠える声が微かに聞こえた。城の灯りはほとんど落とされており、静寂がまるで布のように辺りを包んでいる。
その静けさの中、弾九郎の胸の内だけがざわついていた。
テルヌの遺志を受け継ぎ、この国を率いる。──その覚悟は、とうに決めた。だが、その事実は、まだ誰の口からも明かされていない。喪に服す期間である今、評議員たちもまた深い沈黙を保っている。
しかし、民の不安は募る一方だった。領主は死に、城は焼け、街は変わり果てた。グリクトモアの未来を、誰が導いてゆくのか。次にバート王と相まみえるのは、誰なのか。答えのない問いに、民衆はただ震えるしかない。
それでも、今はまだ語るときではない──それがマルフレアの判断だった。彼女は冷静に、そして周到に動いている。この服喪の間に、世論を練り上げる。弾九郎こそが、テルヌの後継にふさわしいという空気を、じわじわと育てるために。
けれど、ひとりだけ例外がいた。ミリアだ。
彼女を旅に連れ出したのは弾九郎自身であり、戦場に巻き込み、運命の渦中へと導いた責任もまた、彼にある。ミリアはまだ信じている。旅は続くと。全てが終わった次の朝にはどこか遠くの町へ、仲間達と向かうのだと。
だが、それはもう叶わない。
この地こそが旅の終着点。新たな物語が始まり、そして責任が芽吹いた場所。──そのことを、彼女に伝えねばならなかった。
弾九郎は足を止め、振り返った。そこにはミリアがいた。月明かりに照らされた彼女の横顔は、どこか夢見るようで、それがかえって胸を締めつけた。
「……ミリア」
短く名前を呼ぶ。それだけで、彼女は静かに頷いた。
弾九郎は、言葉を選びながら、これまでの出来事をひとつひとつ語った。テルヌの最期、託された遺志、評議会の沈黙、マルフレアの思惑、そして──自分がこの国を導くと決めたこと。
その全てを、隠すことなく、丁寧に、真っ直ぐに。
話し終えた時、夜の静寂は少しだけ深くなったように感じた。弾九郎の中で何かが、静かに終わり、そして始まった。
「……そっか。みんな、ダン君を頼りにしてるんだね」
「考えに考えた末の決断だったが……ミリアの気持ちを聞いていなかった。すまない」
「ううん。謝らないで。私、すっごく嬉しいよ。ダン君なら絶対、いい王様になれる。しかも、私はここでできた友達とも離れずにすむし……」
ミリアは小さく笑いながら、無垢な瞳で弾九郎を見上げた。その言葉に、彼の胸の奥にずっと刺さっていた棘が、そっと抜け落ちていくのを感じた。彼女の人生を勝手に背負ったことへの後ろめたさが、少しだけ、和らいだ。
「ね、私ね、ここでいっぱい勉強して、将来は親のいない子供たちの世話をしたり、勉強を教える仕事がしたいの。……ダン君は、どう思う?」
「ああ……いいと思うよ。ミリアは、そういうことが得意だし、きっと上手くいく」
その夢は、きっとミリアの中で、ずっと密やかに育まれてきたのだろう。この荒れた世界で、もっとも傷つきやすい存在に、そっと手を差し伸べる。剣ではなく、言葉と知恵と優しさで、誰かを支えようとする戦い。それが、彼女にしかできない使命なのだ。
弾九郎はその姿を見つめながら、思った。──この少女の未来を、俺は何があっても守らなければならない、と。
お読みくださり、ありがとうございました。
グリクトモアには商人が多く暮らしており、有能な人材を育てるため、優れた計算力と言語能力を持つ教育者も数多く存在します。
短い間ながら、ミリアはそんな人々とふれあい、学ぶことの楽しさに目を開かれていきました。
そしていつしか、学びの場を与え、子供たちに教えることのできる保護施設をつくるという夢を抱くようになったのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




