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異界戦国ダンクルス  作者: 蒼了一
グリクトモア死闘編

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第98話 茨の道

 張り詰めた沈黙が、薄氷のように室内を覆っていた。

 蝋燭の灯がわずかに揺れるたび、影が壁に長く伸び、誰もが息を詰めたまま、その言葉を待っている。


 やがて、弾九郎はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は遠い場所を見つめている。いや、記憶の奥底に沈んだ何かを掘り起こそうとしているようだった。


「──頼まれたんだ。この国を……俺に託すと……」


 その言葉が放たれた瞬間、重い沈黙がさらに深くなった。

 誰もが耳を疑った。思考が止まり、時間が一瞬、凍りついたかのようだった。


 ほんのひと月前、異界から現れたばかりの来栖弾九郎に国を譲る?

 常識が否定されるようなその言葉に、誰もすぐには口を開けなかった。


 だが──。


 テルヌは本気だった。彼女は評議員たちに諮り、全員の賛同を取りつけた。

 その証として、あの場には評議員全員が揃っていた。これは単なる彼女個人の意向ではない。

 オロロソ家の全財産と、グリクトモアの統治権すべてを──来栖弾九郎忠景に譲渡するという、国家の決断だった。


「それで……弾九郎様は、どうお答えになったのですか?」


 マルフレアの問いが、静かに空気を割った。

 だが弾九郎は、すぐには答えなかった。再び、沈黙が彼を包んだ。


 託されたものの重さを言葉にすれば、軽くなってしまいそうだった。

 簡単に語ってはならないと、心が告げていた。


 目を伏せ、拳を膝の上で握る。

 そのまましばし、誰にも届かぬ内面へと深く潜っていく。


 ──自分は、かつて何者だったのか。

 ──なぜ、この世界に呼ばれたのか。

 ──そして、今この瞬間、何を受け取ったのか。


 思考は前世の記憶へと手を伸ばしていた。

 そこにあったのは、権力でも名誉でもない。

 あったのは、ただ、守りたかった命。信じたかった絆。

 そして──その手には、届かなかった。


 *


 過去が、音もなく引き戸のように開く──。


 塚原卜伝の子として生を受け、戦国から安土桃山の荒波に翻弄された弾九郎。


 柳生石舟斎の門を自ら出奔し、目的も定まらぬままさまよい歩いた果てに、奇妙な縁で彼はある武士団に拾われた。主を持たず、戦のたびに各地を渡り歩く傭兵集団。そこにいたのは、血に染まることでしか己を証せぬ男たちだった。

 だが、彼らとは違った。


 弾九郎には、心の奥にひとつの誓いがあった。

 ──己は仕官せぬ。栄誉も、禄も、求めはしない。

 石舟斎の志に背を向けた自分に、それらを望む資格などない。

 それは、償いのような生き方だった。


 戦場に現れ、ただ一振りの刀で敵将の首を落とし、何も告げずに立ち去る。

 そうして彼は、いつしか戦場に現れる「影」として、武士たちに語られる存在となった。


 ──首狩り弾九郎。


 槍も弓も持たず、鎧も兜もつけぬまま、ただ一刀のもとに修羅場を駆け抜ける異形。

 誰もが恐れ、嫌悪し、奇異の目を向けた。


 幾つもの戦場を歩き、血で染まる河原を見た。

 焼かれた村、荒らされた田畑、絶望の叫び、幼子の涙。

 男たちは己の欲望を正義と呼び、女たちはそれに踏みにじられ、誰かが勝てば、誰かがすべてを失った。


 ──人の業。


 それでも、彼は背を向けて生きた。関わらず、干渉せず、ただ刀を振るい、己の贖いを続けた。


 悔いは、ない。そう、思っていた。


 けれど、転生した今、違う想いが芽生えている。

 かつて奪うためにあった力が、今は与えるためにあるのなら──。

 守りたい。

 寄り添いたい。

 この世界の理不尽に、今度こそ抗いたい。


 それが償いであるなら──この命も、意味を持つ。


 *


「……俺はずっと考えていたんだ」


 静まり返る部屋の中、弾九郎の声は低く、だがはっきりと響いた。


「なぜ俺はここに居るのか。この世界で、俺はどう生きるべきなのか──いや、どう生きたいのかを」


 そこまで口にして、彼は一度言葉を飲み込んだ。

 喉の奥に苦味が残る。吐き出そうとする言葉は、彼にとって剥き出しの本心だ。

 それを晒すことは、己の弱さを晒すに等しい。


 ──秘すれば花。


 戦国の世に生きた男にとって、己の思いを他者に明け透けに語るなど、慎みを欠く行いである。

 本音は、時として命より重く、簡単には手放せぬものだった。


 だが、目の前にいるのは、この世界の者たち。

 異界の住人──そして今では、自分にとって何より信頼すべき仲間たちだ。

 彼らには知っていてほしい。自分の中にある決意と、それを支える後悔と望みとを。


 だからこそ、弾九郎は覚悟を決めた。語らねばならない。この先を共に歩むために。


「……少なくとも、前世のような生き方はしたくない。俺は──」


 深く息を吸い、弾九郎は瞼を閉じた。

 まるでその胸の奥に眠る記憶に、一度触れにいくかのように。


 それは、これまでのどんな決断よりも重い。

 人生のすべてをかけた、魂の選択だった。


「テルヌ殿の願いに、応えようと思う。俺はこの地に生きる人々の暮らしを守りたい。そして──叶うのならば、この世から戦を消し去りたい」


 最後の言葉と同時に、弾九郎の瞳がゆっくりと開かれた。

 その目には、憐れみでも、怒りでもなく、ただ真摯な決意の色だけが宿っていた。


 王になる──。

 その一言を口にせずとも、意味は明白だった。


 室内に緊張が走る。

 六人の目が、弾九郎へと一斉に向けられる。


 その宣言は、聞きようによっては簒奪にも等しい。

 異界から来た男が、突如として現れ、国を譲られ、王となる。

 それは歴史の中で幾度も繰り返された「乗っ取り」と何が違うのか──そう問われれば、答えに窮する者も多いだろう。


 そして、その末路が悲劇で終わることも、また歴史が証明している。

 弾九郎も、知っていた。

 主君を討った明智光秀。

 美濃の蝮、斎藤道三。

 どちらも、その名を残しながら、志半ばで潰えた。


 ──これは、茨の道だ。


 それでも彼は歩むと決めた。

 もはや一人では進めない道。王たる者には、支える者が要る。共に国を築く仲間が要る。


 だが、彼らが自分に付いてきてくれるかどうか──それは、弾九郎にはわからない。

 信頼という絆は、望むだけで得られるものではない。


 沈黙が、重く室内を満たした。

 そして──その静寂を、ある男の声が破った。


「だったら俺は騎士団長かな~?」


 場違いなほど明るい声が、沈んだ空気を軽やかに突き破った。


「錆色に塗ったオウガをビシッと並べてよぉー! カッコいいぜぇ~」


 ヴァロッタはあえて調子を崩さない。場の空気に似つかわしくない軽薄さ──しかし、その言葉の裏にあるのは明確な意思だった。彼はもう決めている。異を唱える気など、最初からない。


「貴様が騎士団長では近衛としての品位が下がる」


 まるで間髪を容れず、メシュードラがきっぱり言い放つ。


「ここはやはり私が相応しいかと」

「なんだとテメェ! なんで俺より弱い奴が騎士団長なんだよ!」

「弱い? 自分の実力を見誤るような者に、騎士団長は務まらん」


 売り言葉に買い言葉。二人の舌戦はみるみるうちに熱を帯び、剣呑な空気が立ち込める。

 ヴァロッタは身を乗り出し、メシュードラは静かに腰の剣に手をかけた。目には光が宿る。


「ざけんな! こうなったらどっちが上か白黒つけてやる!」

「いいだろう。貴様には一度、どちらが上か教えておく必要があるようだ」


 まさに一触即発──だったその瞬間。


「お前たち、いい加減にしろ!」


 ツェットがテーブルを拳で叩き、雷鳴のような声で叱り飛ばす。


「こんな時に、はしゃぐんじゃない!」


 音と声に弾かれたように、二人はピタリと動きを止めた。


「……お前はどうすんだよ、ツェット」


 少し拗ねたように、ヴァロッタが問いかける。


「妹の仇は取ったんだ。もう、俺たちには用無しだろ?」


 それに対し、ツェットは肩を竦め、呆れたように笑った。


「私は残るよ。お前たちだけじゃ、弾九郎が可哀想だ」


 飄々とした口調の裏に、どこかあたたかさがあった。

 その答えに、弾九郎の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


 ──復讐を遂げた後、なるべく早く、違う生きがいが見つかることを祈っています。


 かつてマルフレアがかけた言葉が、ツェットの中に残っていた。

 未来に向けた静かな願い。それに導かれるように、ツェットは自ら新たな生き方を選んだのだ。


 ──弾九郎の刃となる。それこそが、私の新しい生きがいだ。


「氷剣のツェットまで旦那の下に付くのか。こりゃあ中々の面子だねぇ」


 クラットがぼそりと呟く。その声には、皮肉のような照れ隠しのような色が混じっていた。


「そういうお前はどうするんだ、クラット?」


 ツェットが問いかけると、クラットは軽く首をすくめてみせた。


「俺? 俺はダンナに借金があるからさ」

「それは今回の戦いで帳消しになったんじゃないのか?」

「いやいや、俺の働きなんてせいぜい二ギラってとこさ。あと四百九十八ギラ。こりゃ一生かかっても返せそうにないなぁ」


 とぼけたような口ぶり。それでも、そこにあるのは明らかな忠誠だった。

 彼なりの照れ隠し。真っ直ぐに「付いていく」とは言えない男なりの、最大限の表現。


 だが、その芝居じみた飄々さを、ヴァロッタがあっさりぶち壊す。


「相変わらずひねくれた野郎だな。仲間になりたきゃ素直に『なりたい』って言やあいいのによ」


 一瞬の静寂のあと、皆が一斉に笑い声を上げた。

 力が抜け、空気が和らぎ、笑いが波のように広がる。


 弾九郎も、思わず口元を綻ばせた。

 心にのしかかっていた重圧が、ふっと和らいでいくのを感じた。

 ──杞憂だったのだ。誰も、自分の想いを嘲らなかった。

 むしろこうして、隣に立つ覚悟を持って、共に歩もうとしてくれている。


 ──ひとりではない。


 その実感が、胸の内に静かに満ちていった。

 そして今、ようやく弾九郎は「王になる」という言葉の重みを、自らの両肩で真っ直ぐに受け止めることができたのだった。

お読みくださり、ありがとうございました。

戦国の世において、合戦の功績は敵将の首級によって評価されるのが常でした。

弾九郎は、戦の始まる前から敵方の有力武将を入念に調べ上げ、戦場では味方の武将たちに首を売る取引を持ちかけていたのです。

時にはその場で交渉し、敵の首を現金と引き換えることもありました。

彼は、そんな首と金を巡る狡猾な生き方を貫いていたのです。

次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。

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