第97話 最期の願い
夕日がグリクトモアの城壁を朱に染める頃、弾九郎らは静かに凱旋した。戦場で泥にまみれ、傷だらけになったオウガには、それらが勝利の証として刻まれている。だがその足取りは驕ることなく、ただ確かな使命を終えた者たちの重みを湛えていた。
まず彼らが向かったのは、城内に仕掛けられた地下通路の罠。そこに閉じ込めた敵兵五十余名を降伏させる。抗おうとする者もいたが、クルーデの敗死を知り、傭兵の誇りも尽き果てた今、刃を交えることなく彼らは降った。無益な流血を避けられたのは幸運だった。
続いて、弾九郎を筆頭とする七名の戦の主導者たちは、戦勝の報告のため、領主テルヌ・オロロソの元へと向かうこととなる。
「此度の勝利、誠におめでとう御座います。本来であれば、街を挙げて祝勝の宴を催したいところですが……」
老執事は深く頭を下げた。
「あいにく我が主の体調が芳しくなく、予断を許さぬ状況でございます」
その言葉に、弾九郎は表情をかすかに曇らせた。テルヌの病は常々気にかけてはいたが、まさかそこまでとは思っていなかった。
「左様か……。なによりもテルヌ殿のお身体が第一。報告はまた日を改めよう。どうか、お大事にとお伝えくだされ」
だが老執事は躊躇いがちに言葉を続けた。
「……それが、弾九郎様。主がどうしてもお話ししたいことがあると──恐れながら、お会いいただけますか?」
弾九郎は一瞬ためらったものの、やがて静かに頷いた。
「お身体に障りがないようでしたら、喜んで」
仲間たち──マルフレアら六人を控えの間に残し、弾九郎は一人、静まり返った城の奥へと歩を進めた。夜の帳が降りつつある廊下はひんやりと冷え、蝋燭の炎だけが頼りなく揺れている。
テルヌが待っていたのは、石造りの領主の間ではなく、寝所であった。天蓋付きの寝台に横たわる彼女の姿は、まるで老いた鶴のように儚く、それでもその瞳はなお、鋼のごとき意思を宿している。周囲には医師と看護師が控え、評議員たちが黙してその寝台を囲んでいた。
「テルヌ殿……お加減はいかがですか?」
弾九郎が声をかけると、テルヌは微かに笑みを浮かべ、かすれた声で返す。
「……ああ、弾九郎様……この度は、ありがとうございます……グリク……グリクトモアを……ゴホッ、ゴホッ!」
咳き込む彼女の口元には、うっすらと血の紅が滲んだ。見るに堪えぬその痛々しい姿に、弾九郎はそっと膝をつき、声を低く抑えた。
「ご無理なさらずに。お話はまた、身体が戻られたときに。今はどうか、ゆっくりとお休みくだされ」
だがテルヌは小さく首を横に振った。か細いその動きには、決して揺るがぬ強さがあった。
「……いいえ。もはや私の身体は……戻りません。これはもう、終わりの旅支度……」
言葉の合間に、息が切れる。だが彼女の目は、まっすぐに弾九郎を見据えていた。
「何をそんな弱気なことを。これからこの国を立て直し、バート王と向き合わねばならぬのですよ……」
弾九郎の励ましに、テルヌはふっと穏やかに微笑んだ。その笑みは、我が子を見る母のようであり、老領主が最後に託す覚悟の笑みでもあった。
「……弾九郎様。貴方にしか頼めぬことがございます。どうか、どうか……」
その先に続く願いは、命を削って紡がれる祈りだった。やがて弾九郎は、真剣な面持ちでその言葉を静かに耳を傾けた──。
*
控えの間に戻った弾九郎の姿を見て、そこにいた六人はすぐに異変を感じ取る。
彼はまるで別人のようだった。普段の朗らかで毅然とした空気は影を潜め、歩みは重く、顔色は血の気が引いたように青白い。まるで胸中に嵐を抱えたまま、それを押し殺して歩いてきたかのようだった。
「どうしたんだ弾九郎? ずいぶん顔色が悪いぞ」
真っ先に声をかけたのはヴァロッタだった。彼の明るい声にも、どこか鋭い緊張が潜んでいる。快活な弾九郎が、ここまで沈んだ顔を見せるなど、そうあることではない。
「……うん……」
弾九郎は答えにならない言葉を一つ呟くと、重たく椅子に腰を下ろし、無言のままテーブルに肘をついた。その姿は、戦の勝者ではなく、何かを失った敗者のようにも見えた。彼は両手を組んで口元に当て、深く俯いたまま動かない。
静まり返る室内。用意された食事の香ばしい匂いが、皮肉にもその場の空虚さを際立たせている。
「弾九郎様、テルヌ様のご様子は……」
マルフレアが静寂を破る。彼女の声は静かで、それでいて芯の通った響きを持っていた。
しばらくして、弾九郎は小さく息を吐き、顔を上げた。そして、絞り出すように言った。
「……テルヌ殿は……今しがた、身罷られた……」
その一言は、空気を凍りつかせるに十分だった。
軽食に伸びかけていた手が宙で止まり、誰もが言葉を失う。
「……そんな……」
「まさか……」
「おいたわしい……」
「テルヌ様が……」
誰もが、自分の耳を疑っていた。あの誇り高く、民に敬慕され、国家の象徴とすら呼ばれた女性が、この戦勝の夜に、まるで時を見計らったかのように旅立った──その現実を受け止めきれなかった。
弾九郎は膝の上で手を握りしめたまま、じっと虚空を見つめていた。彼の瞳には、感情が渦を巻きながらも、言葉にならず押し留められているようだった。
マルフレアだけが、その場の空気を振り払うように問う。
「……弾九郎様。お気持ちは痛いほどに察しております。なれど──」
彼女は一呼吸置き、決意を秘めた顔で続けた。
「私たちは未来を見据えねばなりません。跡を継がれるのは、どなたでございますか?」
それは冷たい問いではなかった。未来を見据える者としての当然の確認だった。
グリクトモアとグリシャーロットが共に勝利した今、バート王と対立する道は避けられない。戦の火種が本格的に燻り始めた今、指導者の不在は致命的な隙となる。
だがその問いに、弾九郎はすぐに答えられなかった。
「……それは……」
その口調は、明らかに歯切れが悪かった。いつもなら即断即決の弾九郎が、ここまで言い淀むとは。仲間たちは、彼が背負った何かの重さを悟った。
やがて弾九郎は、静かに口を開いた。まるで、魂の奥底に沈んでいた声を掬い上げるように。
「テルヌ殿は──」
そう口を開いた弾九郎だったが、その声はすぐには続かなかった。
彼の胸裏には、つい先ほどの光景が、静かに蘇っていた。
*
天蓋の帳が淡く揺れ、微かに開かれた窓から差し込む黄昏の光が、テルヌの枕元を仄かに照らしていた。命の灯が消えかけた老領主の声は、風に紛れそうなほどにか細く、それでも一言ひと言に重さと、凛とした誇りが滲んでいた。
「私は……子も、孫も失い……跡継ぎとなる甥すら……奪われました……」
その言葉に込められた静かな絶望に、弾九郎の胸がひりつく。
テルヌが語るまでもなく、彼も知っていた。この八年、バート王がどれほど執拗にオロロソ家を狙い、血筋を絶やそうとしてきたかを。
毒杯を傾けさせ、影の暗殺者を遣わし、理不尽な咎をでっち上げ、獄に繋がせて命を奪う。
オロロソの名は、意図的に、大陸の地図から消し去られようとしていた。
そして、今このベッドに伏すテルヌただ一人を残して、名門は風前の灯火と成り果てていた。
「……もはや、この私の代で……オロロソ家は、地上から消えましょう……」
「テルヌ殿……」
喉元まで込み上げる否定の言葉を、弾九郎は抑えきれなかった。
「弱気になられてはなりませぬ、テルヌ殿。だとしたら、なおのこと……心を強くお持ちくだされ……」
「弾九郎様……それは、なによりの励ましです……」
テルヌはかすかに笑った。それはもはや体力を削る行為だったが、それでも彼女は微笑もうとした。
それが、己の最期を悟った者の、気丈な誇りだった。
「……なれど、私にはわかるのです。この身に、訪れる死からは……もう逃れられぬと」
ふと、風がカーテンをふわりと揺らした。
老いた命の炎に、外の世界が別れを告げるかのようだった。
「今の心残りは……民のこと……ただ、それだけです……グリクトモアに生きる人々が……この先も、日々を穏やかに暮らせるか……それが、心配なのです……」
そのとき、テルヌはゆっくりと、震える指を弾九郎へと差し伸べた。
枯れ枝のように細く、けれどその手には確かな想いが宿っていた。命の最後の熱が、指先にこもっているようにすら見えた。
弾九郎は膝をつき、その手を両手でそっと包み込む。
まるで割れ物を扱うように慎重に、丁寧に、祈りを捧げる僧のように。
「ならば、尚のこと……」
彼は声を絞り出す。だがその先の言葉は、簡単には続かなかった。
何を言えばよいのか。どこまで誓えば、彼女の不安を拭えるのか。迷いの霧が弾九郎の心を包み込んでいた。
そんな彼の迷いを見透かしたように、テルヌは再び唇を震わせた。
「……弾九郎様……」
その声は、託す者の声だった。
それは願いであり、命の継承。
血ではなく、名ではなく、心を継ぐ者にしか託せぬ、最後の言葉だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
この世界の住人たちは病原菌への耐性が非常に強く、ほとんど病気にかかることがありません。
虫歯菌も存在しないため、歯科医という職業も存在しないのです。
そのため、人々が罹る病は主に遺伝性の疾患や糖尿病、癌といったものに限られます。
テルヌが患っているのは肺がんで、彼は全身を引き裂くような激痛と、絶え間ない呼吸困難に苦しめられていました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




