第96話 希望の狼煙
グリクトモア城から西へ二十キロ──山々が連なる山岳地帯に、ひっそりと人の営みがあった。濃密な森が斜面を覆い、常に薄暗い影を落としている。風が梢を揺らすたび、ざわめきが谷を這い、まるで山そのものが何かを囁いているようだった。そんな自然の懐に、小さな村が身を寄せるようにして存在していた。
村人たちは代々、森と共に生きてきた。木こりたちは斧を振るい、伐り出した樹木は建設資材として城下へ運ばれ、都市の暮らしを支えていた。村の場所は山の中腹、川向こうには比較的傾斜の緩やかな高原地帯に広がっており、その周辺では牛や羊が放たれ、のどかに草を食んでいた。
だが今、その牧歌的な風景は一変した。十日前から、この地には次々とテントが設営され、草原は一夜にして仮設の街と化した。数えてみれば、すでに一万張りを超えるテントが風に揺れ、そこにはグリクトモア市民四万二千人が身を寄せ合っている。
人々は集団で、数千人単位で何日もかけて移動してきた。歩ける者は足で山道を登り、幼い子どもや老人、病人や負傷者はオウガが曳くコンテナに揺られてきた。その背後には、盟友グリシャーロットから届けられた膨大な食料と生活物資がある。幸いにも水には困らない。山の沢や麓を流れるボタニ川が、今も絶え間なく命を潤してくれている。
子どもたちはまだ事情を理解していない。突然始まった避難生活を、まるで壮大なキャンプのように捉え、無邪気に笑い、走り回っている。その笑顔がせめてもの救いだ。だが、彼らを見守る大人たちの顔には、暗い影が色濃く落ちていた。
命をつなぐことはできた。けれど、それは全てを捨てた先の不確かな未来に身を投げたということでもある。この先、どうなるのか──誰にもわからない。もし弾九郎たちが破れれば、今度は自分たちがクルーデに追われ、あてのない逃亡生活が始まる。そう思うと、胸の奥が重く沈んでいく。
そんな沈鬱な空気を振り払うように、誰よりも懸命に動き回っていたのがミリアだった。炊き出しの班に加わり、汗まみれになって食事を配りながらも、彼女は常に明るい声で人々を励まし続けた。空いた時間には弾九郎の話をする。「彼は誰よりも義に厚く、情に熱い。そして、何より強いのだ」と。声には確信がこもり、語るその眼差しは一点の曇りもなかった。
市民たちは皆知っている。ミリアが弾九郎の身内であり、かつて共に魔賤窟から少女たちを救い出してくれた恩人であることを。そして彼女がここに居る限り、弾九郎はきっと自分たちを見捨てないのだと──そう信じている。
ミリアの笑顔は、この避難地に差し込む一筋の光だった。人々はその微笑みを見て「大丈夫だ」と思いたかったのかもしれない。もはやそれは祈りに近く、信仰のようなものだった。心細さのなかで、誰もがすがるものを求めていたのだ。
*
その瞬間は、まるで山の空気ごと一変したかのようだった。
不安と静寂に満ちた避難キャンプに、突然、叫び声が駆け込んできた。風を切って走る兵士の姿。額に汗を滲ませながら、彼は声を張り上げる。
「狼煙が上がった! 勝ったぞ! クルーデを討った! 弾九郎様の勝利だ!」
それは雷鳴のように、張り詰めた空気を打ち砕いた。刹那、沈黙が弾けるように破れ、歓声が高原を揺らす。まるで地中に埋もれていた喜びが、一斉に地表へ噴き出したかのようだった。
「帰れるんだ……家に帰れる!」
「もう、もうクルーデを恐れなくていいんだ!」
「すごい……弾九郎様、やっぱりすごい!」
人々は抱き合い、跳ねるように笑い合い、涙をこぼしながら空を仰いだ。涙に濡れる頬を隠そうともせず、ただただ歓喜に身を委ねていた。子供たちは手を取り合って走り回り、兵士の手から聞いたばかりの知らせを、もう一度誰かに伝えずにはいられなかった。
その声の波は、炊き出しの鍋の前にも届いた。
「ミリアちゃん! やったよ、リーダー! 弾九郎様が勝ったって!」
「本当に……すごいよ、すごい! リーダーの言ったとおりだった!」
無邪気に歓声を上げる少女たち。その顔は輝くように明るかった。彼女たちは、かつて魔賤窟で救い出された命だった。あの絶望の淵から拾い上げられ、今はこうして自ら手を動かし、他者のために尽くしている。その姿は、まるでミリアの心そのものだった。
「ありがとう……ルティアちゃん、カイサちゃん……」
ミリアはかろうじてそう言うと、ふらりとその場に膝をついた。声は震え、肩は小刻みに揺れ、次の瞬間には堰を切ったように涙が溢れ出した。顔を覆うようにして泣き出したその姿は、まるで限界を超えて張りつめていた糸が、ようやく許されたかのようだった。
涙は止まらなかった。
たぶん、本当に一番怖かったのは、ミリア自身だったのだろう。何が正しいのか、何を信じればよいのか、その全てに応えが出るまで、自分を奮い立たせ続けてきた。ただ一人ではなかった。けれど、皆の前では誰よりも強くあらねばならなかった。
──私は大丈夫。ダン君はきっと勝つ。だから、みんなも信じて。
そう言い続けていた十五歳の少女。その肩にのしかかっていた重圧を思えば、この涙こそが彼女の戦いの終わりだった。
「リーダー……」
ルティアがそっとミリアに寄り添い、その背中を抱きしめる。カイサもまた無言でその手に触れた。そして、次第に他の少女たちも集まり、輪のようにミリアを囲んだ。誰も声を上げなかった。ただその場で、彼女の涙を分け合うように、静かに寄り添い続けた。
その中には、小さくすすり泣く声もあった。少女たちもまた、ただ助けられた存在ではない。彼女たちは恐怖と不安の中を、ミリアと共に歩き、共に支え合ってきたのだ。小さな胸に、それぞれの戦いを抱えて。
風が高原を吹き抜けていく。晴れ渡った空には、遠く狼煙の名残が、かすかに揺らめいていた。
*
グリクトモアの人々が全員、山岳地帯へ避難したわけではなかった。ほんのわずか──極ひと握りの者たちが、敢えて城に留まることを選んでいた。
その中心にいたのは、領主、テルヌ・オロロソ。六十を過ぎた身でありながら、白銀の髪を結い上げ、背筋は今なお真っすぐに伸びている。だがその身体は、長年の激務と病の侵食によって、もはや床を離れることも困難となっていた。
それでも彼女は、ひとたび眼を開けば、城の石造りすらも凍りつくような鋭さを宿している。その瞳には、代々受け継がれてきた領主の誇りと、民を思う慈愛が共に宿っていた。
彼女の側には、十名の評議員たちがいる。皆、彼女と苦楽を共にしてきた忠臣であり、年齢や立場に関係なく、一様にテルヌに従って城に残る道を選んでいた。そのほか、事務官、帳簿係、給仕係に秘書──誰一人として命令で縛られた者はいない。皆、自らの意志でここに留まり、最後の砦となる覚悟を胸に刻んでいた。
万が一ヴァロッタが破れ、占領された城がもぬけの殻であれば、避難した市民にすぐさま捜索の手が伸び、殺戮は免れないであろう。しかし、統治者と中枢が残っていれば、侵略者とてすぐには手を出せない。金融と文書の処理には手続きが要る。債券の譲渡、財産の移転、金庫の開封──すべてが時間を要する。たとえわずかな時間でも、その間に民が遠く逃げ延びることができるのなら。
──そのためだけに、テルヌたちは城に残った。
グリクトモアという都市を、そしてオロロソ財閥を支えてきた知と責任の結晶。それが今、この寂しい石の城壁の内側に凝縮されていた。誰もが己の命の価値を秤にかけながら、それでも立ち去ることなく、静かにその時を待っていた。
そんな沈黙の時間を破ったのは、テミゲンとヴァロッタの激闘から数時間後。詰め所の見張りが声を張り上げた。
「狼煙が上がった! 赤、緑、赤、青──勝利の狼煙だ!」
一瞬、城内の空気が凍りついた。やがて、急ぎ足で駆けてきた兵が息を荒げながら叫ぶ。
「弾九郎様が勝ちました! クルーデ軍、壊滅! 味方の損害はごくわずかとの報告です!」
その言葉は、まるで城の石壁に染み渡るように、静かに、人々の胸に届いた。誰も大声を上げて歓喜することはなかった。ただ、ゆっくりと呼吸を深くし、互いの目を見つめあい、小さく頷き合った。
生き延びたのだ。弾九郎が市民達の希望を繋いだのだ。
テルヌ・オロロソは、静かな寝所にて報せを受けた。彼女は細い指を軽く持ち上げ、傍らに立つ看護師に微笑んでみせる。そして、薄く開いた唇から、囁くような声をこぼした。
「……弾九郎様……本当に、よくやってくれました……」
その声音は、疲れきった老婦人のものではなかった。民と共に戦い抜いた、一人の誇り高き領主の、揺るぎない魂の言葉だった。
その笑みに滲むのは、安堵か、達成か、それとも深い感謝だったのか──それを知る者は、彼女の瞳に宿る静かな光の中に、それぞれの答えを見た。
お読みくださり、ありがとうございました。
この世界にも有線電話や有線スピーカーといった通信機器は存在しますが、それらを動かす電力は、ガントから供給される太陽光発電機と蓄電池に頼るしかなく、非常に不安定です。
そのため、遠隔地との通信手段を確立するには大量の資材と手間がかかってしまいます。
こうした事情から、今回のように離れた場所へ状況を伝える手段として用いられたのは、昔ながらの狼煙でした。
マルフレアはあらかじめ狼煙の信号表を作成し、それを使ってできる限り正確に戦況を伝達したのです。次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




