第94話 決着の刻
「弾九郎様!」
マルフレアは思わず声を上げたが、その背中はすでに彼女の視界から消えていた。
続いて地面を蹴ったのは、ライガとクラットだった。
二人は自らのオウガが破壊されたことで既に地上に降りている。動きに遅れはない。
「ツェット! 俺たちも行くぞ!」
ヴァロッタが叫ぶ。
ツェットはうなずき、すぐにファルシオンから飛び降りる。鉄の巨体の膝に足をかけ、滑るように地面へ着地。
戦士たちは次々に森へ走る。クルーデを逃すわけにはいかない。自分達の矜持にかけて。
その時、メシュードラも機体から降りようとした。
「私も──」
だが、その腕をマルフレアが強く掴んだ。
「お待ちください、メシュードラ将軍。あなたは、この場に留まってください」
鋭い声。軍師としての冷静な判断だった。
メシュードラの目がわずかに揺れる。だが、マルフレアの言葉は正しい。
クルーデ軍には、まだ二十機余のオウガが残っていた。
首魁を失い呆然とする彼らが、次の瞬間クルーデ救出に動き出さないとも限らない。
その抑止力として、ここには重しとなる指揮官が必要だ。
「……確かに」
メシュードラは頷いた。そして、剣に手をかけ、視線を残敵へと向ける。
その眼差しは、もし動けば斬る──そう語っていた。
「クルーデの始末は、弾九郎殿にお任せしましょう」
その声には、全幅の信頼が宿っていた。
マルフレアもまた、黙ってその背を見送る。
心の奥では焦りと不安が渦巻いていた。だが、信じるしかなかった。あの背中を、あの戦士達を──。
森の奥、風がざわめく。
そこで今、新たな決着の刻が迫っていた。
*
鬱蒼とした森の奥、日差しすら届かぬ暗がりの中で、空気が軋むような気配があった。
クラットとライガが木々をかき分けて進み、視界が開けた瞬間──そこにあったのは、人ならぬ者同士の戦いだった。
怒れる獣と、剣の鬼。
それ以外の何者でもなかった。
弾九郎と、青龍偃月刀を手にしたクルーデが、互いに肉迫していた。
鉄が石を裂くような音が森に木霊する。刃が閃き、風が唸る。
もはやただの戦闘ではない。二つの魂が火花を散らす、純粋な「命の闘争」だった。
「弾九郎様っ……!」
ライガが思わず声を上げ、前へ踏み出す。だが、その肩をクラットが素早く押さえた。
「止めとけ、ライガ。今あそこに割り込んだら、今度はお前の胴体が両断されちまう」
クラットの声は低く、だが静かな迫力を孕んでいた。
「し、しかし……!」
「見りゃ分かるだろ。あれは、俺たちが手を出せる戦いじゃねぇ。人の限界を超えたもん同士の、化け物の決闘だ」
ライガは唇を噛み、拳を震わせた。
それでも弾九郎の背中が、決して揺るがぬものとしてそこにあるのを見て、何とか踏み止まる。
その背後にまた、木の葉を踏む音。
「おう、もう始まってたか」
低く響く声とともに、ヴァロッタとツェットが姿を現す。二人の表情にも驚愕と緊張が混ざり合っていた。
「……これは、下手に手は出せんか……」
ツェットが、静かに戦況を見極めるように言う。
ヴァロッタが軽く鼻を鳴らした。
「まるで獅子と虎の取っ組み合いだな。どっちにしろ人間の出る幕じゃねぇ」
クラットは唇を引き結び、提案した。
「だったら俺たちは──逃げ道を塞ごう。四方に散って、どの方向に逃げても足止めできるように」
その言葉に全員が頷いた。
自分たちにできる最善の策は、戦場の輪郭を固め、弾九郎の背中を守ること。
そして四人は音を殺し、森の闇の中へ散っていった。
クルーデと弾九郎を包囲するように。
誰一人、言葉を交わさなかった。ただ、それぞれの呼吸と鼓動が、次の瞬間を待っていた。
──決着の刻は、すぐそこまで来ている。
*
「驚いたぞ、弾九郎……!」
クルーデは歯を剥いて嗤うが、その声音には動揺が滲んでいた。
「まるで童ではないか、その姿は!」
剥き出しの憎悪を力に変え、彼は青龍偃月刀を頭上に振りかざす。
周囲三十メートル四方、森の中でも奇跡的に開けた空間。クルーデはここに弾九郎を誘い込み、自らの「剣域」で迎え撃つつもりだった。
「気にするな。俺は異界から来た人間だ、齢は四十四になる。たとえ童に敗れても、恥にはならん」
涼しげに答える弾九郎の声は、どこまでも落ち着いていた。それが逆にクルーデの苛立ちを煽る。
「黙れぇッ!!」
叫びと共に、青龍偃月刀が弾丸のように振り下ろされる。だが──その圧倒的な質量すら、弾九郎には届かない。まるで風に溶けるように、彼はその軌道を読んで身を翻した。
「オウガほどは鋭くないな……やはり、生身ではこの程度か」
静かに、冷ややかに。言葉がクルーデの心臓に杭のように刺さる。
クルーデは五十六。若き日より常人を凌駕する筋力と反射を誇った男だが、今やその肉体には老いの陰が忍び寄っていた。
一方、弾九郎の肉体は十五歳の少年。だが、その内に宿るは侍の闘気。少年の皮を被った剣豪だ。
「はぁ……はぁっ……!」
クルーデの呼吸は荒く、肩が激しく上下している。重すぎる偃月刀を支える腕が、わずかに震えていた。
「……肩で息をしているな。そんなバカでかい得物、今のあんたに扱える代物じゃあない」
弾九郎の目が、光を失った冷たい湖面のようにクルーデを見据える。その瞳には、恐怖も怒りもない。ただ、決着の時を見極める裁き手の視線だけがあった。
「黙れ……まだ終わっとらんッ……!」
クルーデは血走った目で睨みつけ、最後の力を振り絞って構えを取る。
重心を前に乗せ、渾身の力を一閃に込めようとした。己のすべてを乗せた、最後の賭け。
「……己の罪を贖う刻だ。来い」
弾九郎のその言葉が、処刑の鐘のように響いた。
次の瞬間、クルーデの全霊を込めた斬撃が空を裂いた──!
しかし。
弾九郎は、ひらりと風のようにその死の刃を躱した。次の瞬間、鋭く伸びたその足がクルーデの膝裏を蹴り抜く。
たまらずバランスを崩した巨体が、仰向けに倒れ込んだ。
「がっ……!」
土煙が立ちのぼり、クルーデの背が地に叩きつけられる。その胸元には、銀色の刃が無情に突きつけられていた。
「──どうだ、参ったか?」
弾九郎の声に、感情の波は一切ない。刃先は心臓まで、あとわずか数センチ。もはや勝敗は明らかだった。
「ま……参った……だから殺すな……殺さないでくれ……」
かすかに震えた声が、森の深い静けさに吸い込まれ、波紋のように消えてゆく。
それは、クルーデにとって初めての──心からの屈服だった。
そして、生まれてこのかた触れたことのない、死の気配。
命が本当に終わるかもしれないという感覚が、骨の奥まで冷たく染み渡ってゆく。
知らなかったはずの恐怖が、今や全身を締めつける。
その重みに耐えきれず、彼の唇から、祈るような命乞いが零れ落ちた。
だが、その一言を聞いても、弾九郎の表情は微動だにしない。ただ冷然と、短く言い放つ。
「……ならば、死ね」
刃が、音もなく沈んだ。
冷たい鋼が心臓に触れたその瞬間、クルーデの目に絶望の色が広がる。
戦国人、来栖弾九郎には、一度殺すと決めた相手がどんな醜態を晒そうと、憐憫をかけるような甘さは一片もない。
「──あっ」
微かな息が漏れた、刹那。
一閃。
空気すら断ち切るような斬撃が走り、クルーデの首が容赦なく宙を舞った。
地に転がったその首は、かつてこの世を恐怖と暴力で支配した男のものとは思えないほど、静かで、儚かった。
弾九郎はただ、静かに、片合掌でその魂を送った。
*
森を抜け、緑の帳を割るようにして現れた弾九郎。その背後には、ヴァロッタ、ツェット、クラット、ライガ──四人の戦士たちが沈黙のまま従う。
目を伏せるでも、うなだれるでもなく──ただ、その背に従う者としての誇りと、戦いを終えた男の凄絶な気配に、言葉を飲んでいるだけだった。
弾九郎の右手には、血の滴る何かがぶら下がっている。だが、それが何であるかを悟った者たちは、息を呑んだ。
それは、戦場を恐怖で支配した暴王──クルーデの首。
戦いの喧騒が消えた戦場。残骸と灰の漂う空気の中に立ち尽くすのはクルーデ軍の兵士たち。だが彼らの瞳に映るのは、いまや機体を持たぬ、生身一つの男。
来栖弾九郎。
彼は、ゆっくりと歩を進め、焦土の中心へと立った。
そして──その腕を掲げる。
「──見よ!」
力強く、怒号のように響く声が、戦場の空気を切り裂いた。
弾九郎が掲げた腕の先、その手には、クルーデの首。
まだ生温かさが残るその証を、彼は天空へと高々と突き上げる。
「クルーデの首、来栖弾九郎が討ち取った!」
その言葉は、大地を打つ雷鳴のようだった。兵士たちの背筋が凍りつく。誰もが知っている。その首が意味するものを──己が王の敗北、理想の崩壊、そして圧倒的な力の差。
弾九郎は続ける。その声はもはや怒りでも憎しみでもなく、戦場に響く審判の鐘だった。
「これでもなお抗うのならば、かかってこい……全員、クルーデの後を追わせてやる!」
その言葉は、静かに、しかし確実に敵兵たちの胸を打ち抜いた。
誰も動けなかった。
誰も声を発せなかった。
音を失った戦場に、ただ一人の男が立つ。
手には血塗れの首。
目には一切の情がなかった。
ある兵士が、剣を持つ手を震わせた。
隣の者がそれに気づき、顔をしかめる。
恐怖か、動揺か。誰もが、己の信じたものが音を立てて崩れたのを感じていた。
「……本当に……クルーデ様が……」
「そんな……馬鹿な……」
折れたのは、兵の膝よりも先に、心だった。
ぽつり、と一人が剣を地面に落とした。
それが合図のように、次々と武器が捨てられ、顔が伏せられていく。
もはや戦意はなかった。希望も、怒りすらもなかった。
それは敗北ではない。
服従でもない。
ただ──絶対の力を前にした、本能的な屈服だった。
なにもできず、ただ機体から降り、剣を地に伏せるしかなかった。
次々と──まるで沈黙の波が伝播するかのように、敵兵の膝が崩れる。
その光景を、誰よりも静かに見つめていたのは、弾九郎自身だった。
自らの手で幕を引いたこの戦の果てに、何が残るのか。それは彼にもまだ見えていなかった。
──かくして、恐怖と暴力の象徴であったクルーデは討たれ、バート王の野望はここに挫けた。
荒れ果てた戦場の上に、ようやく一陣の風が吹く。
それは、終焉と始まりを告げる風だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
クルーデの青龍偃月刀は全長二百五十センチにも及び、森の中では思うように扱えません。
そのため、彼は森の中でも開けた場所で弾九郎を迎え撃つことに決めました。
クラットたちが森の中で逃げ道を塞ごうとしたのも、そこではクルーデが青龍偃月刀を十分に振るえないことを知っていたからです。
さすがに武器なしの状態であれば、誰もがクルーデと互角以上に渡り合える実力者だからこその判断でした。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




