第91話 絆の盾
クルーデは、長いこと退屈していた。
戦場の空気も、血の匂いも、すでに彼の心を沸き立たせはしなかった。かつて胸を焦がしたあの高揚感は、もはや彼の中で風化し、乾いた灰のようにただそこにあるだけだった。
──あまりにも強くなりすぎたのだ。
力を磨き、磨き抜いた末に待っていたのは、孤独だった。
名を上げるために幾多の修羅場を潜り抜け、名だたる猛者を屠ってきた。その剛腕はあまりに苛烈で、やがて誰も正面から立ち向かってこなくなった。戦場はいつしか「戦いの場」ではなく、「処理場」と化していた。彼にとって戦とは己を燃やす行為だったが、それは今や灰燼を踏みしめるだけの虚しい作業に変わっていた。
大陸には、まだ見ぬ強者がいることは承知していた。だが、そうした者たちがわざわざ自分の前に現れるとは思えなかった。いかに報酬が跳ね上がろうと、その力に見合う敵がいなければ、意味はない。
それでも金は集まった。最低報酬は一万ギラ──大陸十三剣の十倍。雇う者が勝つ、それが定説となり、クルーデを擁した軍は例外なく勝ち続けた。しかし、その金額を支払える軍など限られている。彼を求める戦場もまた、限られた。
結果、彼は、生きがいそのものであった「戦場」すら失いつつあった。
強すぎるということが、これほどまでに退屈と同義だとは、若き日の彼には想像もできなかった。
そんなある日、ヤドックラディから届いた破格のオファーが、鈍りかけた彼の興味を一瞬だけ揺らした。提示された金額は、二十万ギラ──小国の国家予算に匹敵する額。そして、バート王が差し出したのは爵位という名誉だった。
金と地位。かつては笑って蹴飛ばしていたそれらも、晩年を意識し始めた今となっては、悪くない取引だった。
だが──それでも心は躍らなかった。
ヤドックラディに課された任務、それはただの「弱小国の殲滅」だった。勝敗などはじめから決している戦に、何の価値がある。
そう、自らに言い聞かせていた、その時だった。
黒きオウガの名が、彼の耳に届いた。
──ダンクルス。
アヴ・ドベックとナハーブンの戦場に忽然と現れ、大陸最大の傭兵団を率いたマーガ三兄弟を、一人で──しかも苦もなく屠った機体。
グリシャーロットではクラットを手玉に取り、デュバルを怯えさせた男。
そして、決定的だったのはテミゲンの報告だった。
常に冷静沈着、感情を一切表に出さない男が、あの黒いオウガについて語るその声には、熱があった。
恐怖ではない。興奮でもない。ただ──「理解できぬ力」に対する、言葉にならない警戒。
それは、クルーデの中の何かを明確に刺激した。
ようやく、出会えた。
この無価値な戦場に、ただ一つの意味が現れた。
来栖弾九郎──目覚めたばかりの異界人にして、無双の剣を振るう者。
クルーデの中に、久しく眠っていた戦士の血が、静かに目を覚ました。
そして、その瞬間は突然訪れた。
予定外の展開。突如として戦場に姿を現した黒いオウガ。
味方の動揺など、彼の耳には届かない。作戦が狂った? 知ったことではない。
クルーデの目に映るのはただ一つ──黒き機体、ダンクルス。
ただ、それだけだ。
戦うために生まれ、戦いにすべてを捧げたこの男にとって、いまこの瞬間こそが人生の核心。
ようやく、退屈が終わる。
*
クルーデ本隊が弾九郎たちの奇襲を受けたのは、ほんの数分前のことだった。
前触れもなく降りかかる雷鳴の如き襲撃に、本隊は瞬く間に混乱に陥った。
怒号が飛び交い、爆風と鉄の軋みが交錯する戦場。四十二機のオウガたちは、まるで稲穂のように次々と刈り倒されていく。
だが、その中心に立つ一機──クルーデの駆るオウガ、グァンユは、まるで別世界の存在であるかのように、微動だにしなかった。
敵味方の悲鳴も、爆炎の轟きも、彼の意識には届いていない。ただひとつ、その視線の先にある漆黒の機体──ダンクルスだけが、今の彼を現実につなぎとめていた。
その右手には、異様な存在感を放つ得物がある。
──青龍偃月刀。
全長二十五メートル、刃だけで五メートルを超える巨大な一枚鋼。その姿には青龍が刻まれ、柄の太さは人間の胴ほどもある。
その重量、四十トン。常識を遥かに逸した武器は、オウガという怪物の躯体をもってしてようやく振るえる代物だった。
クルーデは歩く。乱戦の中を悠然と。まるで無人の野を行くかのように、誰にも目もくれず、ただ真っ直ぐにダンクルスへと歩を進める。
その足取りには一切のためらいがなく、むしろ喜悦すら滲んでいた。
そして──。
──ガンッ!!
轟音と共に、青龍偃月刀が振るわれた。
刃ではない。ただの横殴り。だがそれだけで、ダンクルスの巨体は味方のオウガごと吹き飛ばされ、空中を舞った。
数十メートル先の地面に激突し、地を裂き、鉄が軋み、爆風が舞い上がる。
「弾九郎様ぁっ!!」
「ダンナぁぁぁっ!!」
マルフレアとクラットの叫びが戦場に響き渡る。
その声には恐怖と、信じたくないという焦りが混じっていた。
ライガは歯を食いしばる。その目に映るのは、破壊の象徴そのものと化したクルーデの姿。胸を焼くのは怒りか、畏怖か、それとも……覚悟か。
ダンクルスは動かない。安全装置が作動したのだろう。内部からは一切の反応がない。
だが、それは戦場では致命的な「沈黙」だった。
「所詮、この程度か……」
クルーデの口から漏れたのは、落胆のため息。期待が裏切られた者の、嘆きにも似た言葉だった。
そして再び歩き出す。失望のままに、ダンクルスを完全に壊すために。
だが、その道の前に立ちはだかる者がいた。
「我が名はライガ・ライコネン! 弾九郎様は……やらせん!!」
金色に輝くガオウが双剣を振りかざし、突進する。その機体はなお若く、洗練の域には遠い。
だがその動きには、何かを背負う者特有の、命を賭けた重みがあった。
「小童が……」
クルーデは、冷たく呟いた。
襲い来る双剣を、青龍偃月刀の柄だけで受け流す。
それは本来「持つ」部分でありながら、クルーデの手にかかればまるで別の武器──盾であり、槌でもあった。
ライガの刃は届かない。力も技も、すべてが遠い。
そして次の瞬間。石突がガオウの胸を強かに突き、たたらを踏ませたその刹那──。
青龍偃月刀が、一閃。
黄金の機体の胴が、音もなく断ち割られた。
「ライガぁーーッ!!」
咆哮のような叫びを上げて、クラットが駆け出した。
戦場の只中、倒れ伏すガオウの元へ辿り着くと、その上半身を豪快に蹴り飛ばす。
鉄と煙にまみれた空気の中、黄金の巨体が弧を描いて飛び、後方の味方陣へと転がる。
その機体の心臓部は無傷。ライガは生きている。
「ライガを後ろへ! 絶対に死なせるな!!」
怒号を飛ばすクラット。その言葉に、呆然としていた兵たちがようやく正気に戻り、動き出す。
そして今度は──クラットが己の機体、ベルクォをクルーデの前へと立たせた。
巨漢グァンユと、それに相対する一機のオウガ。
その差は歴然。だが、クラットの目は揺らがない。
「割に合わねぇよな……たったの五百ギラだぜ……」
半ば呟くように言ったその言葉には、どこか諦念と笑いが混じっていた。
だがその声音は、静かに燃える炎のようだった。
「クラット……貴様、何の真似だ?」
「真似もクソもねぇよ。弾九郎のダンナが起きるまで、アンタの足を止めるだけさ」
「貴様、正気か?」
「正気でこんなマネできるかよ」
「愚か者が……」
唸りを上げて、グァンユが青龍偃月刀を振るう。
空気が裂け、金属の塊が唸りを上げる。
それをベルクォが、紙一重の動きで躱す。その動きはまさに命綱を渡る綱渡り。
一歩間違えれば、ただの鉄屑と化す運命だ。
「さすがだな、クラット! 本気で傭兵やってりゃあ、今ごろ大陸十三剣に名を連ねてたろうに!」
「そんななぁゴメンだね。俺は好きなように生きるだけさ」
「来栖弾九郎のために死ぬことが、か?」
──ガッ!!
次の一撃が振り下ろされる。
青龍偃月刀の直撃を、クラットはベルクォの長剣の柄で受け止めた。
鉄が軋み、装甲が悲鳴を上げる。両者が拮抗し、戦場に緊張が走る。
「死ぬ気はねぇよ。俺は『つなぎ役』さ。ダンナが立ち上がるまでのな!」
「立ったところで、俺に勝てると思うのか?」
「勝つさ……間違いなく……」
「ほざけ! 俺に勝てる者などおらん!」
「気付かないのか? アンタはもう負けてるんだよ!」
「なんだと……?」
「ライガも、ヴァロッタも、メシュードラも、ツェットも……俺たち全員が来栖弾九郎の剣で……盾だ! あの男のために、全員が命を張ってんだよ!!」
「雑魚共が束になろうと、俺の前では変わらん!」
「そうかもな! だがな──アンタのために命を張る雑魚なんて、一人もいやしねえ!」
怒鳴り返すクラット。言葉には激情が乗っていた。
それはただの主従ではない。信頼でも、敬意でもない。
──近い言葉は憧れ。あの男のように、誰かの盾となれる強さを求めていたのだ。
そしてその想いが、全身に力をみなぎらせる。
クラットは叫ぶように吼え、ベルクォが全力でグァンユの力を跳ね返した。
そのまま喉元を狙って、一閃!
……しかし。
刹那。
青龍偃月刀が最小半径で反転し、まるでしなやかな蛇のように旋回する。
読めなかった。対応が遅れた。
その一撃は、正確無比にベルクォの首を捉え──。
──ゴギャアッ!!!
悲鳴のような金属音と共に、ベルクォの首がもげ、空を舞った。
お読みくださり、ありがとうございました。
オウガの平均的な身長はおよそ十八メートルですが、クルーデのグァンユは二十二メートルに達し、素体の状態でもその体重は百四十トンを超えます。
青龍偃月刀は、通常のオウガにとっても巨大かつ重量のある武器ですが、グァンユがこれを振るえば、その一撃は狂気じみた威力となり、ただの一振りで致命傷を与える破壊力を発揮します。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




