第88話 追撃の迷宮
クルーデが陣を構えるボタニ渓谷。その南西、およそ五キロ先に広がる原生林──冷たく湿った空気が、昼を過ぎたというのに地を這うように漂っていた。樹々の影が複雑に絡み合い、陽光はわずかに葉の隙間から漏れるのみ。グリクトモア本軍は、その深い緑に身を沈めるようにして潜んでいた。
沈黙の中、ただ風に揺れる葉擦れの音と、時折どこか遠くで啼く鳥の声だけが響く。誰もが息を潜め、ただじっと、戦果の報を待っていた。
やがて、空気が微かにざわめいた。グリクトモア城の方向に、赤煙がゆるやかに天を裂いて立ち昇る。それを追うように、アデム砦からもまた狼煙が上がった。
「弾九郎様。両拠点から勝利の報が入りました」
野営テントの中。マルフレアの声が張り詰めた空気を切り裂いた。中にいたのは、弾九郎、メシュードラ、クラット、そしてライガ。張り詰めていた空気が一気に緩む。だがそれは、一瞬のことだった。
「そうか。で、戦果は?」
弾九郎の声は低く、淡々としていた。その表情からは感情の色が読み取れない。
「二拠点とも敵を全機撃滅。我らの完勝です」
マルフレアが淡々と告げると、その場の空気がはじけた。クラットが小さく息を吐き、メシュードラは静かに目を閉じて何かを噛み締める。ライガに至っては、押し殺していた歓喜が今にも爆発しそうなほど、身体を揺らしていた。
「……よくやった。ヴァロッタ、ツェット」
弾九郎だけは、歓喜の輪に加わらず、重々しく呟いた。その瞳は遠くを見据え、険しさを帯びたまま動かない。声に含まれる緊張が、場の空気を一変させた。まだ終わってはいない──クルーデという、最後にして最大の敵が残っているのだ。
「では、次の行動に移ります。皆様、ご準備を」
マルフレアは静かに言い残すと、すっとテントを出て行った。その背に、誰も声をかける者はいなかった。
弾九郎も無言のまま立ち上がる。彼の瞳には、勝利の余韻など宿っていなかった。今にも何かが崩れ落ちそうな静寂の中で、彼らはそれぞれのオウガへと向かう。
──最終決戦が、幕を開けようとしている。
*
ボタニ渓谷──岩肌が剥き出しの断崖と、重く沈んだ霧が視界を遮るこの地に、クルーデは本陣を構えていた。谷間を渡る風は冷たく、鋭く、まるでここが戦の坩堝であることを予感させるようだった。
テミゲンとバルボに兵を託し、それぞれをグリクトモア城とアデム砦に送り出してから、すでに六時間以上が経過していた。しかし、どちらの方面からも未だに「ダンクルス出現」の報は届かない。
もちろん、彼らが既に敗北し、百六十二機ものオウガが全滅したなど、クルーデは夢にも思っていない。いや、考える必要すら感じていなかった。彼の思考に、敗北の二文字は存在しないのだ。
だが、変化は突如として訪れた。
「前方に敵軍を確認! 数、二十五機!」
緊張に染まった伝令の声が、幕舎に走る。クルーデは眉をひそめた。敵が遊軍を持つ可能性は考慮済みだ。だが、それがこの場所、自らの目前に現れるとは──思考の隙間に、わずかな違和感が走る。
まだ自分の手元には八十六機のオウガが控えている。どれも戦場を幾度も生き延びた精鋭たち。そんな戦力に対し、たった二十五機で挑んでくるなど、愚行に等しい。
「率いているのは──メシュードラ! 光剣のメシュードラです!」
その名が告げられた瞬間、場の空気が微かに揺れた。
光剣のメシュードラ。名を聞くだけで兵が鼓舞され、敵が動揺する存在。ザンジェラを先頭に、二十五機のオウガは迷いなく突撃してきた。白銀の閃光が先陣を裂き、まるで自らが突破口となるべく進む姿は、見る者に畏れと敬意を同時に抱かせる。そして彼が率いる二十四機は全て上級兵。まさにグリクトモア軍の最精鋭部隊であった。
クルーデ軍の前衛は動揺した。数で勝り、質でも優位に立つはずの彼らが、圧され始めている。メシュードラの存在が、その戦場を支配しつつあった。
「おい、デュバル! メシュードラだ。奴はお前が始末しろ!」
クルーデの指示に、ライムグリーンのオウガ、ルキーチを駆る男──デュバルが即座に反応する。彼の顔には自信というより、獲物を前にした野獣のような凶暴な笑みが浮かんでいた。
「はい! 任せてください、クルーデさん! 必ず奴の首を持ってきます!」
「四十もあれば皆殺しにできるだろう。さっさと片付けてこい!」
「ははっ!!」
デュバルのルキーチが唸るように飛び出し、それに続くように四十機のオウガが後方から突撃を開始する。大地が揺れ、戦場の気配が一変した。
その様子を確認すると、メシュードラはすぐさま全軍に命じた。
「退け! デュバルが来た! 後方へ下がるぞ!」
その指示に二十四機のオウガは寸分の狂いもなく、一斉に退却を始める。訓練されたその動きには無駄がなく、まるで最初からこの展開を読んでいたかのようだった。
クルーデ軍の前衛は深追いせず、退却するメシュードラたちを見送った。その背後から迫るのは、怒気と殺気に満ちたデュバルの軍。
「メシュードラァ! 俺様が出てきたら逃げるとは情けない奴だ! 今から殺してやるから覚悟しろ!」
叫びが谷に響く。その声が聞こえたかどうかもわからないほどに、メシュードラたちは迷いなく後方へ下がり続けた。追う軍と追われる軍、距離はわずか数百メートル。
クルーデはその様子を、まるで退屈な芝居でも眺めるかのように、興味なさげに見送っていた。
残るオウガは四十五機──いや、正確には四十三。さきほどの襲撃で二機が消し飛んだ。だが、その数さえ彼の中ではただの「誤差」にすぎなかった。
……少なすぎる。
一瞬、そんな言葉が脳裏をかすめた。二十五機、しかも先鋒だけが姿を見せ、残りの本軍は影も形もない。
だがクルーデはその思考を、首をひと振りして打ち消した。
「くだらん。所詮は悪あがきか──」
声に出してはいない。だが、己の中に芽生えかけた警鐘を、あえて踏み潰すようにその場を見下ろす。
彼にとってこの戦は、もはや勝利の儀式だった。自分が罠に嵌められ、襲撃されるなどという発想自体──思考の地図に存在していない。
侵略者の傲慢。策を見破れぬ愚鈍。今や彼の元に残るのは、当初の二百四十八機から、わずか五分の一以下──。
しかし、クルーデはまだ「勝っているつもり」でいた。
*
メシュードラとデュバルによる追撃戦は、奇妙なまでに一定の距離を保ち続けていた。森の中を縫うように走り抜け、岩間を越え、谷を越え、ついにはボタニ渓谷から七キロ以上も離れた地点へと至る。
高木の枝葉が視界を遮り、木々の根が複雑に絡み合う地形の中では、背後に続く味方の姿すら見えづらくなる。気づけばクルーデの視界からも完全に外れ、二人の姿は緑と土の迷宮へと消えていた。
「待ちやがれ……メシュードラァ……ッ!」
デュバルの怒声が、木々の間に反響する。だがその声には、いつもの猛々しさとは異なる、どこか乾いた響きが混じっていた。
見えない。あと少しのはずが、また影が森の奥に消える。踏みしめる地はぬかるみ、視界は木々の枝葉に遮られる。
(チッ……このままじゃ、また……)
グリシャーロット──忌まわしい記憶が脳裏を掠める。あの敗北が、クルーデの眼差しを変えた。かつての信頼は剥がれ、今の自分は「試される側」だ。
(あいつを仕留めねぇと……全部、終わる)
苛立ちが唇を噛む。そして拳を強く握り直す。
「いい加減に……止まりやがれ、メシュードラァ!!」
叫びはもはや、敵を威圧するものではなかった。自らの不安をかき消すための、焦燥の発露だ。
冷静さは既に霧散していた。彼の視界には、ただ「首を取らねばならない男」──その姿だけが焼き付いている。もはや、戦場の全体など見えてはいなかった。
メシュードラの首。それこそが、彼にとっての贖罪であり復権だった。
そしてその「追いかけっこ」は、ある場所で終わりを迎える。
急に視界が開けた。森林の奥に、ぽっかりと広がる草原。中央にはなだらかな丘があり、そこに二十四機のオウガが既に陣を成していた。ザンジェラがその中心で静かに佇み、まるで待ち構えていたかのように、風にたなびく白いマントが丘の頂で舞っていた。
「ついに観念したか! 今からぶっ殺してやる!」
丘を見上げながら、デュバルが怒気を込めて叫ぶ。だがその声に、メシュードラは微動だにしなかった。
「観念? 違うな、デュバル。ここは貴様の墓場だ。さあ、覚悟を決めるのだな」
その声音は静かだったが、まるで氷の刃のように鋭く、デュバルの胸を突き刺した。メシュードラはゆっくりとザンジェラの背から、象徴たるロングソードを抜き放った。刃が陽光を受けて淡く光り、丘の上に冷たい光芒を走らせた。
「抜かせ! 野郎ども、やっちまえぇッ!!」
もはや苛立ちを抑えきれず、デュバルは乱暴な檄を飛ばした。彼の配下たちは吠えるように応じ、一斉に丘へと駆け上がる。戦意は高い。いや、むしろ高すぎるほどだった。だがそれは、視野を狭め、冷静さを奪うものでもある。
そして、その瞬間だった。
──ズガァンッッ!!
轟音が戦場を切り裂いた。
背後で爆風が巻き起こり、土煙が激しく舞う。デュバルの部下のうち数機が、まるで何かに叩き飛ばされたように横倒しに吹き飛ばされた。金属が軋み、土を裂く音が重なる。
「な、なんだッ!?」
お読みくださり、ありがとうございました。
メシュードラに課された任務は、敵本軍の戦力を削ぐこと――それはマルフレアの作戦における、最後の一押しでした。
彼女は、クルーデの性格からして襲撃者を見逃すはずがないと判断しており、その読み通り、デュバルが追撃してきたのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




