第86話 野性と知性
森の奥にはまだ見えぬ守備隊のオウガが潜み、ツェットの命令を今か今かと待ち構えている──しかし、バルボたちの視界にそれは映らない。ただ、目の前のファルシオンが冷ややかな笑みを浮かべ、ゆっくりと、あざけるように手招きしている。それはまるで、「来い」と誘う死神の仕草だった。
「テメェら、やっちまえ!」
バルボの怒号が響いた。だがその声は、怒りというより恐怖に裏打ちされた震えを帯びていた。鋼の刃を握るその手に、無理やり力を込める──疑念はあった。だが、咄嗟の判断ができるほど冷静ではなかった。わかっていたはずの罠に、自ら足を踏み入れてしまったのだ。
兵士たちの間に、一瞬だけためらいが走る。それは静かな波紋のように広がり、誰もが一歩を踏み出すのをためらった。だが、勢いに任せて前へ出た者たちもいた。苛烈な緊張に押されるように、二十機がファルシオン目がけて突撃を開始する。
そして、その瞬間──。
「なっ、なんだと!!」
バルボの叫びが、静寂を裂いた。
ツェットのファルシオンが立っていたのは、人の手によって意図的に掘り下げられた湿地帯のど真ん中。かつては浅い沼地だったその場所は、今や直径二百メートルに及ぶ人工の魔窟と化していた。黒く淀み、藻と雑草に覆われた水面が、不気味なまでに佇んでいる。その底は見えず、ただ、見る者の胸に「帰れない」という予感だけを深く刻む。
突撃をかけた傭兵たちは、ほんの十数メートル進んだだけで足を泥に取られ、次々と腰まで沈んでいく。金属の軋む音が、もがき、抗う者たちの無力さを際立たせた。鋼鉄の巨体はその質量ゆえに、いったん沼に囚われればもはや逃れる術はない。生きたまま沈む感覚──それが兵士の精神を削っていく。
それでも、数機のオウガが執念で前へ進んだ。なぜなら、彼らの目にうっすらと見えたのだ──沈められた一本の橋。コンテナを連結して造られた、わずかに浮かぶ細道。希望と錯覚が入り混じったその存在に気づいた者たちは、わずかな活路を求めて橋の上を駆けた。
だが、その先にいたのは氷剣のツェット。幅わずか六メートル──逃げ場も回避の余地もない死線の上で、彼女は冷酷に待ち構えていた。その剣が一閃すれば、機体は音もなく橋から叩き落とされ、無情にも黒き沼へと吸い込まれる。
ツェットには、致命傷を与える必要などなかった。ただ、一撃で均衡を崩せば、それで終わるのだ。
「ちぃっ!」
結果、沼に自ら沈んだオウガ十四機。ツェットによって橋から落とされた六機。わずか数分の出来事で、バルボは更に二十機のオウガを喪失した。何も得られず、ただ損失だけを積み重ねたこの瞬間、彼の胸には今さらながらの焦燥と、遅すぎた後悔が舌打ちと共に渦を巻いた。
「バカが多くて助かるよ……」
ツェットは唇の端をわずかに吊り上げ、乾いた声で呟いた。その顔に浮かぶ笑みは、勝者の余裕というにはあまりに冷たく、どこか哀れみすら含んでいるようだった。自分たちは微塵の損害もなく、対する敵のオウガは四十八機が戦闘不能。
──奴らはまるで舞台の上で操られる人形のようだ。
この作戦を組み立てたのは、マルフレア。敵の性格、行動傾向、判断の癖までも徹底的に読み切ったその戦術は、もはや知略ではなく「精密な設計」だった。ツェットは思う。これは戦ではなく、処刑だったのだと。
「て、てめぇ!!」
その声が、沼の向こうから響いた。バルボの怒号。血走った瞳がツェットをまっすぐに睨みつけているが、そこには怒りよりもむしろ、追い詰められた獣のような焦燥があった。
気づけば、彼の周囲にはわずか三十二機のオウガしか残されていない。つい先程まで意気揚々と砦を目指した軍勢は、いまや半壊状態。数の上でも、士気の上でも、勝利などとうに潰えている。
それでも、引き返すわけにはいかなかった。
あの男──クルーデの前で大口を叩いた以上、今さら成果もなく退くことなどできるはずがない。敗北はすなわち、名誉の剥奪であり、存在の否定だ。だからこそ、せめて。せめて目の前の女だけでも討ち取らねば、自らの「剣の名」が泣く。
「汚ぇマネをしやがって……」
言い放つバルボに、ツェットは目を細めて応じた。
「汚い? 何の罪もないグリクトモアを蹂躙したお前たちこそ、よほど汚いぞ」
「うるせぇ!! こうなったら俺と勝負しろ! 氷剣のツェット!」
「勝負? お前たちはもう、とっくに負けたのにか?」
「黙れ!! 俺は狼剣のバルボだ!! 妹のように、テメェの腹を割いてやる!!」
その言葉に、ツェットの全身が一瞬硬直した。
ティート──妹の死の真相──死因を知る者など、ほとんどいない。知っていたのは、現場を発見した村人と……犯人だけだ。
──なぜお前がそれを知っている。
胸の奥で、氷のような疑念が静かに、しかし確かに広がる。
「……フフ……」
ツェットは肩を震わせて笑った。いや、笑わずにはいられなかった。理解が、ようやく追いついたのだ。
「なに笑ってんだ! 頭がイカれちまったのか?」
「……いや」
彼女の脳裏に、あのときマルフレアが静かに語った言葉がよみがえる。
──貴女の復讐を終わらせるために、出来る限りのことをします。
それは、単なる慰めの言葉ではなかった。彼女は全てを知っていたのだ。調査し、検証し、そして「確信」した。ティートを殺した犯人が、まさに今、目の前にいるバルボであることを。
だからこそ、彼女をここまで導いたのだ。この沼へ、この戦場へ、復讐を終わらせる「舞台」へと。
「……大したもんだよ、マルフレア……だったら──」
ツェットは一歩、橋を進む。彼女の機体──蒼き巨人ファルシオンが、水面を渡る細道を静かに踏み締める。
「……その期待には応えなきゃ、な」
そして、立ちはだかるのは灰色の獣ヴァーラン。
大陸十三剣、氷剣と狼剣。戦歴に刻まれた名と名が、今、泥濘の大地で刃を交えようとしている。
(出てきやがった……この女……ククク)
バルボの口元が、獣のように歪む。
彼の思考は、すでに「勝負」ではなく「狩り」に切り替わっていた。氷剣ツェットと名高かろうが、戦場に孤立した一機など恐れるに足りない。背後に控える三十二機のオウガを使い、一気に包囲し、嬲り殺せばそれでいい。正々堂々の一騎打ちなど、最初から考えていない。
──これが戦場だ。名誉も仁義も、死んだ者には意味を成さない。
だが、その浅知恵はツェットに見抜かれていた。彼女の目は冷たく、静かに戦況を見渡していた。
相手が何を狙っているか──それはもう、手に取るようにわかる。
勝利のためには手段を選ばぬ傭兵。自らもまた、その世界に身を投じてきた者だ。だからこそ先手を打つ。
「第一軍──出てこい!」
その号令は、雷鳴のように戦場を貫いた。
直後、バルボたちの背後。薄暗い森の奥から、三十機のオウガが整然と姿を現す。その動きには一糸乱れぬ統制があり、まるでひとつの生き物のようだった。
だが、その実情は明白。戦力の内訳は、上級兵わずか四機、下級兵二十、工兵六。上級兵を除けばいずれも本格的な戦闘には不向きな兵ばかり。実力はバルボの軍勢には到底及ばない。だが、演出は十分だった。
森の静寂を切り裂くように、守備隊は槍の石突きで盾を叩く。その音が、地の底から湧き上がる鼓動のように響き渡った。
「これから私は狼剣のバルボ一と騎打ちをする。それを邪魔しようとする奴がいたら──遠慮はいらん、殺せ」
その言葉に守備隊の気勢がさらに高まる。武骨な咆哮が重く空気を震わせ、バルボの部下たちは思わず身を竦めた。
「第二軍と第三軍にも伝えろ。勝負の邪魔は絶対にさせるな!」
ツェットの声に、空気が一瞬凍りつく。
第二軍。第三軍。──当然、そんなものは存在しない。だが、バルボたちにそれを見抜く手立てはない。
もしや、まだこの森の奥に六十機の軍勢が潜んでいるのではないか?
包囲されているのは、自分たちの方ではないか?
疑念は静かに、だが確実に兵士たちの心に根を張った。彼らの視線が森を泳ぎ、つい先ほどまでの勢いは影を潜める。
バルボの歯ぎしりが、聞こえてくるようだ。
「ツェット……てめぇ……」
その声に、ツェットは静かに笑った。敵意も侮蔑も、あるいは怒りすらない。ただ、事実を述べるかのように言葉を返す。
「どうしたバルボ? 一対一では勝つ自信がないのか? だったら、さっさと降伏しな」
その挑発が、バルボの理性の残滓を完全に焼き払った。
「ぶち殺してやる!!」
叫んだその瞬間、ヴァーランの両腕が持ち上がり、獣の咆哮のようなブースト音が大地を揺るがす。
それは理性なき怒りの象徴。
一方、ツェットのファルシオンは微動だにせず、ただ冷たい蒼の光を瞳に宿していた。
そして──氷と牙が激突する、大陸十三剣同士の死闘が、幕を開けた。
お読みくださり、ありがとうございました。
オウガ本体にはブースターなどの機能は搭載されていませんが、脚部装甲にそれらの機能を備えたオウガも存在します。
これらは主に機動力を重視する機体に採用されており、推進に必要なエネルギーはオウガ本体から供給されます。
推進剤は大気から生成されるため補給の必要はありませんが、一度に使用できる量には制限があります。
このブースターは、バルボのヴァーランだけでなく、ツェットのファルシオンにも搭載されています。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




