第82話 切られた火蓋
夜明けの空が、墨を溶かしたような灰青色からゆっくりと朱に染まりゆく。冷たい山気が大地を這い、朝露に濡れた草を震わせていた。
その朝──クルーデ率いる二百四十八機のオウガが、山岳地帯の砦を一斉に出立した。機体の咆哮が山々に反響し、まだ寝静まる森を呼び覚ますように空気を震わせる。鋼の咆哮を響かせながら連なる巨体の群れは、さながら鉄の奔流。進軍するその列には、整然とした規律と容赦なき暴力の予兆が刻まれていた。
彼らの目的地は、ボタニ渓谷──グリクトモア城の東、二十五キロメートル地点。アデム砦との距離も同じく二十五キロ。地理的に見ても、両拠点をにらむにはこの上ない戦略的な要地だ。
渓谷には、台地を深く刻むようにボタニ川が流れている。両岸は百メートルを超える断崖で囲まれ、その下には鬱蒼とした原生林が広がっていた。空から見下ろせば、まるで大地を裂いた緑の傷痕のような景観。防衛にも適しており、敵の奇襲に対する備えとしては理想的と言えた。
だが、その地はまた、罠でもある。
街道が通っているとは言え、その場所は多分に水を含んだ地盤で、道から外れると時折、足を取られる。オウガのような百トン級の重量物が進軍するには、決して快適な地ではない。ぬかるみに足を取られ、機体が膝まで沈むような箇所もあった。それでもクルーデは意に介さない。なぜなら、彼にとってこの場所は「戦う場」ではなく、「進撃の通過点」に過ぎないからだ。
一方その頃、マルフレアは、野営テントの中で静かに一人、机の上の地図を見つめていた。
──来た……ついに……。
彼女は弾九郎の軍師に就任して以来、クルーデという男を徹底的に分析し続けた。幸い、彼には四十年以上の戦歴があり、過去の作戦や行動の記録も豊富に残されている。それらを紐解き、この男の「思考の癖」や「好む戦型」を一つずつ抽出した。
結論として、クルーデは戦士としては最強の部類に入る。しかし、戦略面においては驚くほど単純だ。力押しで勝てるうちは、わざわざ策を弄する必要がなかったのだろう。そうして育った戦士の戦法は常に直線的で、合理性と安全性を重視する、いわば「手堅い愚直さ」を持っていた。
ボタニ渓谷に拠点を構えさせよう──そう狙ったマルフレアは、わざとその動線上にアデム砦を築いた。クルーデのような性格なら、その配置の意味など気にも留めない。思惑通り、敵は動いた。クルーデは「手のひらの上」とも気づかぬまま、自ら罠の中へと歩を進めたのだ。
その頃、ボタニ渓谷では、クルーデの低く太い声が静かに響いていた。
「テミゲン。お前は八十機を率いてグリクトモアを叩け」
命令を受けたテミゲン・コナハンは、無表情のまま頷く。その瞳の奥には、感情とは別のもの──ただ純粋な「殺戮」の欲望だけが静かに潜んでいた。
「ダンクルスが出てきた時はどうします?」
「相手にするな。その時は俺を呼べ」
「……承知しました。それまでは、存分に遊ばせてもらいます」
クルーデのオウガ、グァンユから、次の名が呼ばれた。
「バルボ。お前は砦だ。八十機を連れてけ。ダンクルスが出てきたら、すぐに報せろ。いいか、自分でやろうなんて考えんじゃねえぞ」
「わかってますよ、クルーデさん。アンタの獲物には、俺ァ手を出さねぇって」
狼剣バルボ・アルベルは自分のオウガ、ヴァーランから軽く笑う。その声音には、獣のような嗅覚を持つ男ならではの危うさと、戦場に対する奇妙な高揚が混じっていた。
その一言一言が、マルフレアの読み通りに運ばれていく。彼らは均等に戦力を割き、それぞれの拠点へ進む。すべては、クルーデが「弾九郎を倒す」ために他ならなかった。
弾九郎──マルフレアにとって、彼の存在は軍略を支える「核」である。逆に言えば、クルーデにとっては「敵陣の心臓」。だからこそ、あらゆる策を弄さずとも、ただ一直線にそこを狙ってくると信じて疑わなかった。
──あとひと削り……。その時が来たらお願いします。メシュードラ将軍。
クルーデの手元に残された兵力は八十六機──そして、それがどちらに向かうのかは最初から決まっている。ダンクルスが姿を見せた方だ。出現の報を受けたその瞬間、残る全軍をそちらへと振り向け、確実に来栖弾九郎を討ち取る。
無駄がなく、隙もない──それが、クルーデの戦い方。
だがその分、あまりにも直線的で、あまりにも読みやすかった。
だからこそ、マルフレアは待ち受ける。クルーデを倒すその瞬間を──。
*
午前十一時過ぎ。
晴れ渡った空の下、テミゲンの駆る真紅のオウガ、トトイカが、先頭を切ってグリクトモア城の前に姿を現した。その背後には、鋼の群れのように続く八十機のオウガたち。昨夜まで垂れ込めていた重い曇天は嘘のように晴れ、青く澄んだ空に陽光がまぶしく降り注いでいた。まるで、これから始まる惨劇を祝福するかのように。
「来ましたよ、ヴァロッタさん! 先頭はトトイカです! 数はおよそ八十!」
城壁の上から、監視兵が声を張り上げる。声の震えには、恐怖と興奮が入り混じっていた。
「軍師殿の読みが……ここまで当たるとはな。恐れ入ったぜ」
ヴァロッタは眉をひくりと動かし、乾いた笑みを漏らした。
彼のオウガ、ツイハークロフトは、城門前に立つ六機の上級兵オウガの中央に構えられている。鋼の巨体が織りなす陣形は、精鋭による鋭く引き締まった構えだ。周囲には無数のコンテナが積み上げられ、敵の突進を阻む複雑な障害物となっていた。ここが第一防御線。乱戦を避け、敵を遮断し、確実に削るための舞台装置だ。
一方、城門の前。
テミゲンは、唇を舐めるようにゆっくりと笑った。まるで、獲物を前に舌なめずりする猛獣のように。
「おやおや。あのヤドックラディの宝石と讃えられたグリクトモアが、今やこんな厳めしい砦の顔をしているとは……。随分と趣が変わったものですねぇ」
その声音には嘲りと悦楽が混じっていた。
今からこの城を落とす。民を踏み潰し、兵を嬲り、血を泥に染めて歓喜に酔いしれる──。テミゲンにとって戦とは、ただの破壊ではない。苦しむ者たちの叫び、抵抗の末に潰える意志、そうした「手応え」の積み重ねが、彼にとっての快楽だった。
そして、もしダンクルスが現れれば、それはまさしく「極上」の歓びとなる。だが、彼は慢心していない。あくまで命令どおり、ダンクルスの姿を見れば即座に引く。そしてクルーデを呼び寄せ、戦場を一変させる。ダンクルスがその手にかかって倒れたとき、グリクトモアの者たちはどれほどの絶望を浮かべるのか。想像するだけで、テミゲンの全身を言葉にできぬ快感が貫いた。
「さあ、踊ってくださいよ。私をどこまで愉しませてくれますか?」
テミゲンは小さく呟き、トトイカの脚部をわずかに動かした。
鉄と油の震えが地を這い、グリクトモア防衛戦の火蓋が、いま静かに、だが確かに切られようとしていた。
「さて、まずは城門を開けてもらいましょう」
テミゲンが艶やかに笑みを浮かべながらトトイカの腕を振り下ろすと、直後、選抜された二十機のオウガが轟音と共に前方へ突進した。鋼鉄の巨体が地を揺らし、砂埃を巻き上げる。狙うはただ一つ、城門──。
だが、グリクトモアの城門前に設置された無数のコンテナ群は、ただの障害物ではなかった。巧みに積まれたその構造物には、周到な戦術的意図が編み込まれている。
コンテナのすき間は、全部で十。狭く見えるが、オウガが一機ずつ通るには十分な広さだ。しかし、それが罠だった。導線が十に分かれることで、敵の進軍は自ずと分断され、同時に城門へ殺到することは不可能になる。全体の配置は、放射状に広がる細い通路が中央の城門へと集まるようになっており、まるで巨大な蜘蛛の巣のようだった。各通路は一機しか通れず、突入のタイミングが自然とずらされてしまう構造だ。五、六機が散らばり、それぞれ異なる経路を取る。仮に十ヶ所同時に突入できたとしても、すべての機体が城門前に到達するまでには数秒から十数秒のタイムラグが発生する。
この時間差こそが、寡兵の側が大軍を迎え撃つための最大の武器だった。
一機目の敵が城門前へ飛び出した。
待ち構えていたのは、ツイハークロフトと、精鋭六機の上級兵たち。戦場に静寂が生まれる暇もなく、一対七という圧倒的不利の構図に晒された敵機は、反応する間もなく討ち取られた。
二機、三機──。障害物の迷路を抜けた敵が次々に現れるたび、ヴァロッタたちは正確無比な連携でそれを叩き潰す。青空の下に金属が引き裂かれる悲鳴がこだまし、熱と煙が地を焦がす。
だが、敵もただの雑兵ではない。
残骸となった味方機の破片が転がるのを見た残る機体たちは即座に状況を察知し、突撃を止めてコンテナの陰に身を潜めた。熟練の傭兵らしい判断だった。
(七機しかいない……それなら、数を揃えて一気に押し潰せばいい)
敵はそう判断した。慌てる様子はなく、冷静に機をうかがっている。数の優位さえ保てば、遅かれ早かれ道は開ける──そう信じて疑っていなかった。実際、それは戦術として正しかった。少なくとも、彼らの目には。
そして──障害物の死角に身を潜めていた十七機のオウガが、ついに動いた。先陣を切る一機が弾けるように飛び出す。それを号砲とでもするように、残る十六機が一斉に襲いかかってきた。轟音と共に地を揺らしながら、鋼の獣たちが城門前に雪崩れ込む。
「くそっ、もう少し削りたかったぜ……!」
ヴァロッタが低く唸り、怒りを槍に込めて薙ぐ。──もっと多くの敵を、ここで仕留めるはずだった。
だが相手も百戦錬磨の傭兵。マルフレアの計算が、すべて綺麗に決まるとは限らない。
その狂いを正すのが、ヴァロッタの剛腕だ。
お読みくださり、ありがとうございました。
街道はボタニ渓谷を抜けた先で二手に分かれ、一方はグリクトモア城へ、もう一方はアデム山脈を越える道へと続いています。
クルーデには、城と砦の中間地点に布陣する選択肢もありましたが、その一帯は開けた地形であり、動きをすぐに察知されるおそれがありました。
そのため、彼はボタニ渓谷を拠点とする判断を下したのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




