第77話 駆け出すミリア
「ミリアちゃーん! こっちのお洗濯、終わったよー!」
「はーいっ!」
青空の下、澄んだ声が風に乗って飛んできた。ミリアは弾む足取りで石畳を駆け、陽光に揺れる髪をなびかせながら、両腕にカゴいっぱいの洗濯物を抱えて戻ってきた。その頬はほんのり紅潮し、汗が額に光っている。
「ルティアちゃん、カイサちゃん。このシーツ、そっちの方に干してくれる?」
「わかったー!」
声をかけられた二人の少女が、元気よく手を挙げて駆け出していく。物干し場は城壁の内側に広がる平地で、風通しのよい場所に大きな竿が並び、白い布が陽を受けてきらきらと輝いていた。
まだ十四、五歳の少女たち。あどけなさの残る顔には、それでもしっかりとした意志が宿っている。彼女たちの多くは、あの忌まわしい魔賤窟から弾九郎に救われた子たちだった。
そして──その中でひときわ目立つ存在となったのが、ミリア。
あの血と鉄に染まったグリシャーロットの戦い。恐怖に打ち震える仲間たちの前で、ミリアは誰よりも高く声を上げ、励まし、立ち続けた。命の火が消えそうになるたびに、彼女の存在が、それを繋ぎとめてくれた。
だからこそ、少女たちはミリアを自然と慕い、彼女の一言に従って動いていた。今や彼女は、まるで小さな共同体の柱のように、当たり前のように「リーダー」と呼ばれている。
グリクトモアは、目前に迫る戦いに備えて大わらわだ。男たちはマルフレアの号令のもと、街の構造を戦闘仕様に作り変えている。汗と油にまみれながら、誰もが黙々と手を動かしていた。
力仕事に自信のある女たちはその中に混ざり、肩を並べて働いている。そうでない者たちは、食事の準備に、洗濯に、病人や怪我人の世話にと、できる限りのことで貢献していた。
──私にも、できることがある。
ミリアは何度も自分にそう言い聞かせる。弾九郎のために。皆のために。怖くないといえば嘘になる。でも、立ち止まれば、誰かが倒れるかもしれない。だから笑顔で、前を向く。指示を出す声に、少女たちの背中がまっすぐ伸びるたびに、ほんの少しだけ、胸の中の不安が薄らいでいくのだった。
*
「ねぇ~、リーダーは弾九郎様のお嫁さんになるの?」
「ええっ!?」
思わず手にしていたパンを落としそうになりながら、ミリアは声を上げた。昼下がりの穏やかな陽射しの中、木陰に広げた布の上に少女たちが車座になっていた。洗濯もひと段落し、湯気の立つスープと温かいパンを囲みながらのささやかな昼食。そんなくつろいだ空気の中で、最年少のルティアが突然放った一言だった。
ミリアの頬に、じわりと朱がさす。少し遅れて、他の少女たちが「きゃー」と声を上げて笑い出した。誰もがこの話題を待っていたかのように。
「ちょ、ちょっと、ルティアちゃん。な、なに言ってるのよ……っ」
困惑を隠そうと笑顔を作るミリアだったが、声がわずかに裏返ってしまう。それを聞いたカイサが、にやにやしながら囁いた。
「ほら見て、図星だったって顔してる~!」
「リーダーって、弾九郎様のことになるとすーぐ赤くなるよね! かわいい~!」
「ねぇねぇ、キスとか、もうしたの?」
「ばっ、バカなこと言わないでっ!」
ミリアの叫びに、少女たちが一斉に笑い転げる。木漏れ日が、ゆらゆら揺れるその笑顔を一層輝かせていた。
「でもさー、キスするなら夜がいいよね。星の下とか、絶対ロマンチックだもん」
「それか、戦いが終わったあと! 『無事でよかった…』って抱きしめられるとか!」
「きゃー! それ最高!」
思い思いに夢を語る少女たち。中には自分がドレス姿で弾九郎と舞踏会にいる想像を語り出す子もいて、まるで恋の話という名の小さな舞台劇が始まったかのようだった。
ミリアは苦笑いを浮かべつつも、頬の熱がなかなか引いてくれない。どこかくすぐったいような、照れくさいような──けれど、嫌じゃない。
言葉のひとつひとつに、胸の奥がくすぐったくなっていく。木々の隙間から降り注ぐ木漏れ日が、少女たちの笑顔をきらきらと照らしていた。
──違う。そんなこと、ない。私はただ……。
言いかけて、ミリアは喉の奥で言葉を飲み込んだ。確かに、弾九郎のことを特別に思っていないと言えば嘘になる。祖父のトルグラスが無惨に殺され、突然叩き落とされた絶望の底で、彼の声に救われた。強くて、優しくて、真っ直ぐな人。誰だって、心を惹かれないわけがない。
けれど、それを言葉にしてしまったら、何かが変わってしまいそうで。だから、ミリアはただ笑って、誤魔化すことしかできない。
「……バカなことばっかり言ってないで、ちゃんと食べて! 午後は配達と野菜の仕分けがあるんだからね!」
言いながらも、胸の奥がざわざわと揺れていた。少女たちの瞳には、夢見るような光が浮かんでいる。彼女たちにとって、弾九郎は文字通りの「王子様」だった。絶望の檻から解き放ってくれた、唯一無二の存在。
そしてその隣にいる自分もまた、憧れの一部になっているのだと気づかされる。だからこそ、誰も踏み込んでこない。まるで、弾九郎とミリアは、最初から物語の中で結ばれる運命にあるとでも思っているかのように。
──でも、そんなふうに簡単に割り切れるものじゃない。私はまだ……自分の気持ちさえ、はっきりわかってないのに。
スプーンでスープをすくいながら、ミリアはそっと空を見上げた。雲の向こうにいる弾九郎の姿を、つい想像してしまう。胸が熱くなる。少女たちの笑い声が響く中で、ミリアだけが少しだけ、遠いところを見つめていた。
*
午後の作業が始まると、広場にまた活気が戻った。野菜の仕分け班と配達班に分かれ、ミリアは配達班として、昼食を抱えて城壁へと向かう。風は軽やかで、空は雲ひとつない青。その空の下を、大人も子どもも、懸命に身体を動かしている。
──こんなに穏やかなのに、本当に戦いが来るの?
そんな不安が胸の奥をかすめる。けれど今は、皆の昼ごはんが最優先だ。鍋をしっかりと抱え直し、ミリアは城壁の螺旋階段を慎重に上った。
「いい天気!」
視界が開けた瞬間、ミリアは思わず息を呑んだ。眼下には、城の外で作業に勤しむ人々の姿が小さく見える。遠くに広がる草原が金色に揺れ、どこまでも澄み切った空がその上に広がっている。まるで、世界が平和であるかのように錯覚しそうになる。
「おっ、ようやく昼メシか~!」
背後から聞こえた陽気な声に、ミリアは我に返った。スープの匂いに誘われて、城壁上の見張りたちがぞろぞろと集まってくる。彼らの顔に若さはない。年老いた元兵士たち、そしてその隣には、まだ声変わりもしていない少年の姿すらあった。彼らもまた、この町のために「戦う」覚悟を決めた者たちだ。
「はーい、お疲れさまです! 今日のスープは、なんとお魚入りですよ~!」
ミリアの明るい声に、兵たちの顔がぱっと華やぐ。
「おおっ、マジか!」
「魚なんて久しぶりだ!」
小さな歓声が上がる。グリシャーロットとの盟約により運び込まれた魚。それは単なる食材ではない。希望の証だ。長らく不足していた動物性タンパクが、ようやくこの城に届いたというだけで、町に生きる者すべての心を温めた。
「おかわりはたくさんありますからね~。足りなかったら、下からまた持って来ますから~」
ミリアは笑って言うが、実際は誰よりも知っている。城壁の高さ──約五十メートル。それは十五階建ての建物に等しい。鍋や食器を抱えての上り下りがどれほど過酷かを。だから兵たちは、決して「おかわり」など口にしない。代わりに、ミリアたちが少しでも軽く帰れるよう、残さずに食べてくれる。それが彼らなりの感謝の形なのだ。
「あれっ? なんだろ~?」
配膳を終えたルティアが、手で額にひさしを作り、遠くをじっと見つめていた。ミリアも反射的にそちらへ顔を向ける。
「煙……?」
森の向こうに、確かに一本の黒い筋が空に伸びている。最初は雲かと見間違えた。しかし、それはゆらゆらと揺れながら、明らかに地上から立ち上っていた。
──あれは……火事?
白の北西、距離は二十キロ近く。だが、ここからはっきり見えるほどの煙となれば、現地では尋常ではない炎が上がっているのだろう。ミリアの脳裏に地図が浮かぶ。あの方角──あれは、シエリス村だ。
「ゴメンみんな! 片付けお願いするね!」
急に真剣な声に変わったミリアに、少女たちがきょとんとする。
「どうしたの、リーダー?」
「森の向こうがおかしいって、ダン君に伝えなきゃ!」
ミリアは言い終わるより早く、城壁の階段を駆け下りていた。足は自然と、弾九郎のもとへと向かっている。
「ダンくーん!!」
外堀の向こう、土を掘り返すオウガの列。その先に、ひときわ大きな声で指示を飛ばしながら土を運ぶオウガの姿。風に乗って、ミリアの叫びが届く。
──何かが始まろうとしている。
心臓が早鐘のように脈打つ中、ミリアは風を切って走った。その瞳には、もう迷いはなかった。
お読みくださり、ありがとうございました。
グリクトモア城の前には街道へと続く道があり、その周囲は深い森に囲まれています。
そのため、たとえ身長十八メートルのオウガであっても、遠くを見渡すのは難しいのです。
そんな中、地上五十メートルの城壁から異変に気づいたミリアは、弾九郎のもとへ駆け出しました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




