第75話 虐殺の序曲
「なんだ、オマエは?」
鋭く冷えた声が、部屋の空気を一変させた。無遠慮に入ってきた男をクルーデが一瞥する。彼の瞳は、まるで戦場の敵を測るように、無慈悲に観察していた。
「なんだってのは、そりゃ随分な言い草じゃねぇか。せっかく助っ人に来てやったってのによ」
男は怯まなかった。いや、それどころか楽しげに笑っていた。その笑みは底知れず、まるで狂気の匂いすら漂わせていた。部屋にいた傭兵たちは、互いに小さく息を飲む。誰もが肌で感じ取っていた──この男、只者ではない。
「そんな奴は毎日来る。だが……オマエほど無礼な奴は、初めて見るな」
「へっ、そりゃどうも。なにせ育ちが悪いもんでよ」
男は無遠慮に名乗った。
「俺の名前はバルボ・アルベル。ま、狼剣って通り名の方が知られてるかもしれねぇ」
「……ほぉ」
クルーデの瞳が細められる。獣を前にした時と同じ、狩人の目だ。
「オマエが……狼剣のバルボ。噂通りの男だな。確かに獣じみている」
逆立った灰髪、鋭く吊り上がった目尻、口元に絶えず浮かぶ不敵な笑み。牙こそないが、その風貌はまさしく狼。クルーデがそう感じるのも無理はない。
「ムースがどうしてもって泣きついてきてよ。しぶしぶ来てやったんだ。少しは歓迎してくれてもいいんじゃねえか?」
挑発を込めた軽口が飛ぶ。クルーデの表情に、わずかな変化が走る。無表情の奥に、微かな笑みが滲んだ。次の瞬間、鞘鳴りとともに鋭い銀の軌跡が空気を裂いた。
それは、真横一閃──バルボの首筋を狙った一撃だった。
「──っぶねぇ! 殺す気かよ!」
バルボはほんの刹那で身を屈め、剣は空を切った。しかし、そこに寸分の余裕もなかった。避け損なえば、確実に首が飛んでいた。
「殺すつもりで斬ったんだがな……なるほど。やはり大陸十三剣だけのことはある」
「これが入団試験か? ったく無茶苦茶だな。そんな真似してりゃ死体の山が積み上がるぞ」
「これは俺なりの『歓迎』だ。よく来たな、狼剣のバルボ」
再び微笑を浮かべるクルーデ。手を差し出す。バルボも笑ってそれを掴むが──次の瞬間、その腕は蛇のように変貌し、バルボの首へと巻き付いた。
「──ぐっ……!? おいっ……!」
凄まじい力で喉元を絞め上げられ、バルボの顔が苦悶に歪む。
「いいか、バルボ。ここで何をしようが構わん。だが──俺に対する口の利き方だけは、慎重にな」
「……わ、わかった……クルーデさんには、……礼儀を……な……」
喉を押さえてうずくまり、咳き込むバルボ。背中を揺らしながら苦しげに息を吸い込む。
「ゲホッ、ゲホッ……クソッ、やり方が極端なんだよ……!」
クルーデはそれを見下ろしながら、飽きたように言葉を続けた。
「ところで、オマエ。ツェットと『やらせろ』と言っていたが……知り合いなのか、あの女と」
「……いや、面識はねぇ。でも、追われている」
「……何をした?」
クルーデの声が少しだけ低くなった。空気が重く沈む。
「──ちょっと、ヤンチャがすぎちまっただけだ。あいつの妹と、な」
バルボは唇の端を吊り上げる。
「女が一人、消えただけの話さ。でもな……ツェットの奴、犯人が俺だって知らねぇ。手がかりが『大陸十三剣』ってだけだからよ、片っ端から十三剣を狩ってやがる。だから──やられる前に、やってやろうと思ってよ」
部屋の温度が下がったような錯覚を覚えた。沈黙の中、ただバルボの吐き出す嗜虐の言葉が響く。
「俺の趣味ってのはな、泣き喚く女の絶望を、腹の奥から引きずり出すことだ。魂ごと引き裂ける瞬間ってのは、そりゃあ格別さ」
詳細を語ることはなかったが、クルーデはその「ヤンチャ」の意味を察していた。線を越えてはならないとされる何か──人の中に残る最後の一線を、バルボはためらいなく踏み潰す。クルーデ自身も必要とあれば平然と一線を越えるが、常ではない。
だが──そういう壊れた男のほうが、戦場では使える。殺しが日常となる戦では、常人より常軌を逸した者が、役に立つ。
「……よくわかった。ツェットとやり合えるかはわからんが、もし生き残っていたら、真っ先に回してやる」
「ありがてぇ……あの女の腹を裂くのが、今から楽しみで仕方ねぇぜ」
狂った笑みを浮かべるバルボに、クルーデは冷たく告げた。
「オマエの趣味に口を出す気はない。ただし──俺の戦場で勝手は許さん。それだけは忘れるな」
「へへっ、任せてくれよクルーデさん。期待以上に働いてみせるぜ!」
その笑みは、忠誠か偽りか、それともただの快楽か。クルーデは男の背を見送りながら、ふと小さく吐息を漏らした。
──この戦が、血と狂気の宴と化すのは、もはや時間の問題だった。
*
クルーデの砦には、今や百三十名を超える傭兵たちが集っていた。粗野で獰猛な獣たちの群れ。その一人ひとりが、血を求める鋼の牙を持つ。広場ではオウガの駆動音が響き、空気には機油と鉄錆と血のような臭いがこびりついている。
グリクトモアへの侵攻まで、残り三週間を切っていた。クルーデは未だ集結途上の残り百二十名を待ちながらも、すでにその手を動かし始めようとしていた。
地図を睨みながら、ふと低くつぶやく。
「……奴らの……弾九郎とやらの力量を一度測ってみるか」
その言葉に真っ先に反応したのは、乱剣のデュバルだった。椅子を蹴って立ち上がる。
「だったら俺に行かせてくださいよ、クルーデさん! この前のヘマ、取り返させてください!」
声には焦燥と興奮が混じっていた。失敗を抱えた男特有の、己を証明したいという欲。だがその隣、狼剣のバルボが獣のように噛みついた。
「ちょっと待てや、デュバル! ここは俺の出番だろ。挨拶代わりにひと暴れってのが筋ってもんだ。な、クルーデさん、俺にやらせてくれよ?」
二人の視線がクルーデへと向けられる。だが、彼はしばし沈黙したのち、まるで最初から決めていたように別の名を告げた。
「……テミゲン。オマエが行ってこい」
沈黙。そして空気が変わる。
その名を聞いた瞬間、部屋の温度が下がったように思えた。バルボですら、口の端をわずかに引きつらせる。デュバルは椅子に沈み、誰とも目を合わせようとしなかった。
立ち上がったのは、長身痩躯の男──テミゲン・コナハン。無機質な笑みを浮かべながら一礼する。
「私が、ですか。どの程度まで『遊ばせて』いただけます?」
その言い回しにぞっとする者もいた。「遊ぶ」という語が、テミゲンにかかると、殺戮を意味するのを誰もが知っている。
かつて幾つもの戦場を血に染めたその男は、大陸十三剣の一角として知られる傭兵であり、別名「虐剣」と恐れられている。クルーデとは旧知の仲で、今回の仕事でも真っ先に声がかかった。信頼──それは制御可能な殺戮装置としての信頼。人としてではなく、戦の道具として最も頼れる器だった。
彼は、長身痩躯の体に赤黒いコートをまとい、まるで血まみれの影が立ち上がったような印象を周囲に与える。
そして彼が操るオウガ──トトイカの名は、戦場ではそれ自体が恐怖の予兆だった。
テミゲンの恐れられる所以は、ただの強さではない。
あまりに冷酷で、あまりに機械的に命を扱うその姿に、人は畏れと嫌悪を抱かずにいられないのだ。
彼の「趣味」は、人の手足を切り落とすこと。敵兵であろうが、ただそこに居合わせただけの非戦闘員であろうが、関係ない。彼の目に映るのは、肉と骨の構造物にすぎない。情けも容赦も、そこにはなかった。
けれど、テミゲンはただの残虐者ではない。むしろ冷静で几帳面だった。切断の前には必ず四肢の根元を縄で縛り、血が吹き出さないように処置を施す。見事な手際で血流を止め、患部を固定する。神経の一部が麻痺するのか、切断された者の多くはその場で死なず、意識を保ったまま手足を失っていく。
地面にうずくまる者の目が、恐怖から呆然としたものに変わり、やがて何もかもを失った人間に特有の空虚に満ちるまで、テミゲンはじっと見つめる。その瞳に宿るのは、恍惚にも似た光だった。
手足を失えば、もはや自力で立つことも、歩くこともできない。ただ生きながらにして他人にすがるしかない存在となる。未来などという言葉は、遠い昔の幻のようだ。しかも、この世界にまともな医療などない。切り口は次第に黒ずみ、腐臭を放ち、やがて壊死する。一月、生き延びられればまだ幸運な方。結末は変わらない。
それは、緩慢な死刑だった。しかも、他者の手によってではない。自分の肉体が、自分を裏切りながら、ゆっくりと滅びていく。その恐怖と絶望に打ちのめされた人々が見せる表情──それこそが、テミゲンの心を満たす至高の報酬だった。
敵も味方も、その異常性を知っている。
いや、戦争とは関係ない田舎の民草にさえ、トトイカの赤い影は伝説の怪物のように語られている。
そのため、トトイカの特徴的なフォルムが丘の向こうにでも見えようものなら、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
皆が知っているのは、「テミゲンが来たら終わり」ということだけだ。
だからこそクルーデは、今回のような役目を迷いなくテミゲンに任せる。
恐怖をばらまくには、恐怖そのものを使うのが最も効果的だ。
クルーデは地図を掴み、無造作に投げてよこした。
「グリクトモア国境近くに、シエリスって村がある。三百人ばかりの小さい村だ……そこを潰してこい。皆殺しにでもすれば、何かしら反応があるだろう」
地図を受け取ったテミゲンが、少しだけ眉を上げる。
「……ここは、ヤドックラディの領内ですね。バート王の許可は?」
「気にするな。俺たちは表向き『野盗』だ。気遣えば逆に怪しまれる」
「なるほど。では、心置きなく遊ばせてもらいますよ」
テミゲンの目が細くなる。そこに宿るのは、何かを想像して楽しむ子供のような光──だが、その内容は、筆舌に尽くしがたい。
「好きにしろ。十機ばかり連れていけ」
「ありがとうございます。では、存分に遊んで参ります」
その背が扉の向こうに消えるとき、部屋に残された者たちは、まるで瘴気が去ったかのように息をついた。
シエリス──穏やかな大地に暮らす、名もなき人々の村。彼らの営みは、戦とは無縁であり、明日も変わらぬ日常が続くものと信じて疑わなかった。だが、その空に立ち昇る煙と血の匂いは、すでに運命として定まっていた。
虐剣の名を冠する男が、今、地獄を連れてやってくる。
お読みくださり、ありがとうございました。
ツェットによる「十三剣狩り」の噂は傭兵たちの間で広まり、次に誰が標的になるのか、賭けの対象にまでなっていました。
その話を耳にしたバルボは、出し抜こうと先手を打ち、ツェットを探すべくグリシャーロットへと向かいます。
そこで、彼はムースにスカウトされました。
ツェットに出会えるかもしれないという期待から、バルボはクルーデの傘下に加わる決意を固め、その思惑は見事に的中します。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




