第72話 漆黒の希望
マルフレアの声はまるで魔術のようだった。
言葉が紡がれるたび、議場を満たす絶望の霧が吹き払われる。
そして──父の護衛として立つライガの心に、熱い奔流が渦巻いていた。
義を為すため異界から現れた武人。強き者が、弱き者のために剣を振るう。その崇高な姿に、血がたぎる。拳が震える。
──議場の窓越しに、かすかな風がカーテンを揺らした。
今すぐにでも全てを投げ捨て、弾九郎のもとへ駆けつけたかった。だが、必死に己を押し留める。ここで感情に任せ動くことは、グリシャーロットの守護者たる自分には許されない。と、理性が叫んでいた。
「しかし……」
息子、ライガの熱い思いなど知る由もないライオスは、議長としての威厳を保つように、重みをもって口を開いた。
それは皆の胸の内に渦巻く、冷徹な懸念を代弁するものだった。
「いくら弾九郎なる者が達人であっても、相手はクルーデ。しかも二百を超える傭兵を率い、中には大陸十三剣が二人も居るというではないか。そのような相手に、果たして勝てるのか……」
静まりかえった空気に、マルフレアの声が重なる。
「弾九郎には、クルーデに劣らぬ猛者たちがついております」
マルフレアは高々と手を上げ、指を一本ずつ折りながらひとり、またひとりと、まるで伝説の武人を読み上げるかのように、名を告げた。
「クラット・ランティス──魔賤窟の用心棒の中でも飛び抜けた腕を持つ傭兵」
「ヴァロッタ・ボーグ──大陸西方に名を轟かせた鉄鎖団の首領」
「ツェット・リーン──大陸十三剣のひとり、氷剣の名を持つ女剣士」
「そして──」
マルフレアが言葉を切った瞬間、メシュードラが一歩、前に出た。
金属の擦れる音。硬い革靴が石床を打つ音が、妙に大きく響いた。
「彼の名は、メシュードラ・レーヴェン。元アヴ・ドベック騎士団団長にして、光剣の名を持つ、大陸十三剣のひとり」
静かに、だが確信を込めて頭を垂れるメシュードラ。
議場を包むのは、尊敬と羨望のため息。
本物の、大陸十三剣。ライガにとって羨望だった存在が、今ここに居る。
「私はメシュードラ・レーヴェン。大陸十三剣の称号を持つ者ではありますが、その剣技は、我が主──来栖弾九郎の足元にも及びません」
その言葉に、誰もが息を呑んだ。
これほどの剣士が、自らを「足元にも及ばぬ」と評する武人。
そんな者が、グリクトモアの味方についている。
「クルーデがいかに強かろうと──我が主ならば、必ずや討ち果たすでしょう」
議場の空気が、確かに変わった。
後ろ向きだった顔が、少しずつ、未来を向く。
希望──失いかけたはずの光が、胸の奥に灯りはじめていた。
しかしライオスは、ただ一人、熱に浮かされることなく問うた。
「グリクトモアに強力な味方がついたという話はわかった。だが──それがどうして、グリシャーロットを救う話になるのだ?」
冷徹な現実が、場を一瞬で引き締める。
議員たちの熱っぽい顔から、徐々に理性が戻ってくる。
マルフレアは微笑み、まるで待っていたかのように言った。
「では、そのお話をする前に──グリシャーロットの未来について、まず語りましょうか」
その声は清冽でありながら、どこか妖しく、運命すらも手繰り寄せるようだった。
「グリクトモアが滅びたとすれば、グリシャーロットにどの様な未来が待っていると皆様お考えですか?」
その問いに、議員たちは一様に口を噤んだ。
重たく沈む空気の中、誰もが目を伏せ、言葉を探す素振りすら見せなかった。
ヤドックラディのバート王が突きつけた要求──それは、あまりに過酷なものだった。
グリシャーロットの自治権剥奪、そして漁業組合の直轄化。
誇り高き彼らにとって、それは自らの歴史と誇りを根こそぎ奪われるに等しかった。
だが、要求を拒絶した次に待っていたのは、過酷な条件だった。
バート王は冷酷に、次なる取引を持ちかけてきた。
──グリクトモアが野盗に襲われ滅亡する可能性があるが、決して援助はするな。
──それさえ守れば、従来通りの自治権は認めよう。
誰の目にも明らかだった。
野盗の背後にバート王自身がいることなど、子供でも気づくほどに。
それでも議員たちは、己の国を守るために、グリクトモアを見捨てる決断を下した。
それは魂を裂くような苦渋の選択だった。
決断の日、議場には押し殺した嗚咽が満ちていた。
握りしめた拳が、膝の上で震えていた。
だが、バート王の約束に何の保証もないことなど、最初から分かっていたのだ。
──それでも、わずかな希望に縋るしかなかった。
今、誰一人として顔を上げる者はいない。
心の奥底に突き刺さった後悔と恐怖が、議員たちの舌を重く縛り付けていた。
「およそ三百年に及ぶヤドックラディとグリクトモアの盟約を、平然と反故にする王ですよ」
マルフレアが淡々と言葉を重ねる。
議員たちは、うつむき、唇をかみしめた。指先をわずかに震わせながら、否応なしに心にこびりついていた恐怖を直視する。見たくなかった現実を、無理やり目の前に突きつけられて。
「私どもの放った密偵によると、バート王の指示により、既にクルーデはグリシャーロットを滅ぼす計画を立てているそうです」
議場に爆ぜるようなどよめきが広がる。クルーデのグリシャーロット攻撃などまったくの虚偽だが、その情報が事実か否かを吟味する余裕はなかった。ただ、心のどこかで「あり得る」と思ってしまった瞬間、人々の理性は押し流される。
メシュードラは脇に立ちながら、マルフレアの老練な語り口に内心舌を巻いた。事実と虚構を巧妙に編み上げ、相手の心を支配する──まるで、老獪な戦術家そのものだった。
「もし、クルーデの刃がグリシャーロットに届けば、いかに精強を誇る護衛団がいたとしても、国を守りきることは不可能でしょう」
ライオス・ライコネンは重く、苦しげにテーブルに肘をついた。硬直した背筋が、重圧に耐えかねるかのように揺れる。
指先に滲む冷たい汗。思考を締め付ける絶望感。
自国の未来を託される重責が、今ほど鉛のように重く感じたことはない。
「しかし……かと言って我々がグリクトモアと共に立ち上がったとして、果たして勝てるのか……」
ライオスのかすれた声は、議場の空気をさらに沈ませた。しかし、それを待ち構えていたかのように、マルフレアはにっこりと微笑んだ。
「皆様はベネディクト・フォーセインの名をご存じでしょうか?」
議場に微かなざわめきが走る。
その名を知らぬ者などいなかった。三十年以上も前に引退しながらも、伝説の軍師として語り継がれる存在──ベネディクト・フォーセイン。
「──ベネディクト・フォーセイン。彼はこたびのバート王の愚挙に、深く心を痛めておりました。けれども……齢九十。すでに寝たきりの身で、ただ悔しさに唇を噛みしめることしかできなかったのです。無力な自分をただ嘆いていた。そんなある日──彼のもとに、来たのです。あの男が。そう、来栖弾九郎が」
まるで舞台の語り部のように、マルフレアは絶妙な間をとって言葉を紡ぐ。その語りに、議員たちの顔に驚きと期待の色が浮かぶ。
「──そして、ベネディクトは決意しました。己にできる最後のことを、なすべきだと。彼は、来栖弾九郎に『必勝の策』を授けました。それだけではありません。
己の孫にして──最後の弟子であるこの私、マルフレア・フォーセインを旗下に加えるよう、来栖弾九郎に進言したのです。」
雷鳴のようなどよめきが議場を揺るがした。
驚愕、感動、そして湧き上がる希望──。
それらが幾重にも折り重なり、議員たちの顔を鮮やかに染め上げていく。
固く閉ざされていた心の扉が、わずかに軋みながら開き始めていた。
もちろん、ベネディクトの策などどこにも存在しない。
だが、「ある」と言い切ることで、迷いに沈む者たちの心を引き寄せることができる。
マルフレアはそれを知っていた。
祖父の轟く名声──三十年を経てもなお色褪せぬ伝説を、今この場で徹底的に利用し尽くす。
それこそが彼女の選んだ道、彼女自身の策だった。
マルフレアの目は鋭く、議員たち一人一人の顔色を見逃さない。
膨れ上がる期待、膨らむ未来への幻想──。
その空気が確かに場を満たしていく様を、彼女は冷静に、しかし胸の奥で密かに笑みを浮かべながら見つめていた。
──すべては、この瞬間のため。
この一瞬のために、マルフレアはすべてを仕組み、すべてを整えてきたのだ。
「来栖弾九郎の武と、ベネディクト・フォーセインの策。これにあと一つ──あと一つが加われば、我らの勝利は疑いようのないものとなるでしょう」
息を呑むような静寂。
重苦しかった空気が、徐々に希望に塗り替えられていく。その中で、議長ライオスは立ち上がり、深く呼吸を整えて問うた。
「それは……グリシャーロットの加勢……だな」
「はい。現在、クルーデの配下は二百五十機のオウガ。一方、グリクトモアの戦力は四十八機。すでにヤドックラディに徴発されていた二十機に帰還命令を出しました。さらに加勢のアテもあり、最終的には百機を超える戦力を目指しています。そこにグリシャーロットの五十機が加われば、祖父の策も十分に機能するでしょう」
ライオスの胸に、鈍い痛みと共に小さな灯火がともる。
──まだ、道はある。
その小さな希望を、どうしても無下にはできなかった。
グリシャーロットの未来は、三つの道に分かれていた。
一つは、グリクトモアと共に滅びること。
二つ目は、ヤドックラディに全面降伏し、屈辱に生きること。
そして三つ目は──戦うこと。
議員たちの表情に、徐々に熱が宿っていく。
だが、ライオスは一国を預かる者として、安易に決断を下すわけにはいかなかった。
選ぶ道の先に、多くの血が流れることを彼は知っている。重い、あまりに重い決断だった。
そのときだった。
議長席の背後に立つ、ライガが一歩前に出た。
若き日の熱と、純粋な激情に突き動かされるままに。
「特使殿の話はわかった。しかし、全てを信じるには足りん。命を預けるのなら、その来栖弾九郎の武を──皆の前に示してみよ!」
その声は、若さゆえの無鉄砲さを超えた、真剣な魂の叫びだった。
場内を揺らしたその一喝に、議員たちの視線がライガに集まる。
──この若者の叫びは、誰も否定できなかった。
お読みくださり、ありがとうございました。
ヤドックラディに徴発され、辺境の地で戦わされていたグリクトモアの戦士たち。
彼らは、自らの故郷が危機に瀕していることすら知らされていませんでした。
そこへ、密かに使者が送り込まれ、帰還の命が下されます。
戦士たちはその命を受けて集結し、ヤドックラディを脱走、祖国グリクトモアへと向かったのでした。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




