第70話 グリシャーロットの若獅子
グリシャーロット漁業組合総本部──組合長ライオス・ライコネンの屋敷は、潮風の吹きすさぶ海沿いの高台に、威圧的な存在感をもってそびえ立っている。見渡す限りの敷地に点在する石造りの棟は十を超え、その姿はまるで堅牢な要塞を思わせた。外壁には塩気と風に磨かれた苔がこびりつき、長い歴史と風雪に耐え抜いてきた重みが刻まれている。屋敷には、最大二万人を収容することが可能で、災害や戦火に備えた緊急避難拠点としての顔も持つ。
この屋敷は、漁師たちにとって聖地でもある。グリシャーロットで漁師を志す者は、例外なくこの場所から人生を始めるのだ。朝は海に祈り、昼は網の結び方を学び、夜は保存法や資金管理に至るまで、厳しく叩き込まれる。操船技術もまた容赦なく教えられ、失敗すれば海に叩き込まれるという話さえある。在籍期間はおよそ十年。それは海と向き合い、人と向き合い、自らと向き合うための時間だ。
一人前と認められた者にだけ、漁業組合の正規組合員としての証と、ライコネン家から漁業権が与えられる。その証はまるで叙勲のように扱われ、誇りとともに語られる。船も、網も、保存庫も、そして家族を養うための資金も──すべてがこの屋敷から融資される。つまりこの街の漁師たちは、皆がライコネン家の恩を受け、その繁栄に連なって生きているのだ。誰もがそれを自覚していたし、だからこそ背筋を伸ばして海に出た。
この仕組みを築いたのは、今から九百年前、この地に最初の港を築いたライコネン家の初代当主である。その理念と制度は世代を超えて受け継がれ、やがてグリシャーロットは一漁村の枠を越えて発展を遂げた。宗主国からの独立と自治の獲得。それは一つの奇跡であり、同時に民の努力と忠誠がもたらした果実だった。しかし、ライコネン家は王の座を欲さなかった。統治の重責を避け、評議委員十名による合議制を選んだのだ。誇り高くも慎ましく、それゆえに民は彼らを信じ、組合は守られてきた。
だが──嵐は静かに、そして確実に忍び寄っていた。
八年前、ヤドックラディ王国にて新たな王、バート・ゴーレイが即位すると、空気が変わった。彼はまず言葉で脅しをかけ、その後は行動で圧力を強めていった。税率の引き上げ、漁場の制限、商隊への襲撃。しかもそれは傭兵を野盗に偽装させるという、狡猾で悪意に満ちたやり方だった。近隣の港湾に外交的圧力をかけ、軽微な違反を盾にグリシャーロットに属する漁船を次々と拿捕し、財産を没収する。王は明白に、この街の破滅を望んでいるわけではない。ただ、その心を折ること──それこそが彼の目的だった。
傭兵クルーデの軍団を使ったグリクトモアの殲滅計画は、ただの暴挙ではない。明らかに計算された「見せしめ」だった。徹底的に、残酷に、そして無慈悲に実行されるはずの惨状は、組合の心臓に深く爪を立てる。そこに込められていたのは、王の冷ややかな意思だった。「お前たちはいつまで耐えるのか?」という、無言の問いかけ。
評議会では、八年もの間、同じ議論が繰り返されてきた。自治を守るべきか、屈するべきか。だが、答えは出ない。誰よりもよく分かっているのだ。ライコネン家が自治を手放せば、組合は王のものとなり、漁師たちはもはや自由ではいられない。ただ魚を捕るだけの、使い捨ての道具になる。その未来の光景を、誰もが心の奥で想像している。そして、その想像に、恐怖と怒りが入り混じる。
だが恐怖に押し潰されるだけではない。この屋敷に集う者たちの胸には、かすかだが確かな「誇りの火」が残っている。かつてこの地を切り開いた先人たちの魂が、それを支えている。嵐の中、彼らはまだ、舵を手放していない。
*
ライコネン家の屋敷──その内部には、まるでひとつの街を内包したかのように無数の施設が整備されている。図書室、訓練場、貯蔵庫、療養院に至るまで。どれもが精緻で実用的でありながら、美術品のような気品すら宿していた。その一角に、冷気が染み込んだように静かな道場がある。
外はまだ夜の気配を残し、空の端にわずかに朱が差す頃、道場には剣の風を切る音だけが響いていた。青年が一人、黙々と剣を振るっている。黄金の髪と燃えるような瞳、ライガ・ライコネン。グリシャーロット漁業組合長、ライオス・ライコネンの一人息子にして、この街の未来を背負う者。
広い道場に灯りはない。ただ仄かに射し込む朝の光が、石畳に映る彼の影を長く引き伸ばしていた。汗は既に何度も流れ、肌に張りつく衣が彼の鍛え抜かれた肉体の輪郭を浮かび上がらせる。呼吸は深く、目は澄んでいた。剣筋は一分の狂いもなく、静謐の中にひたすら力強さを秘めていた。
ライガは幼い頃から武芸の才に恵まれ、その素質は早くから見出されていた。彼の元には、各地から名のある剣士や達人たちが呼ばれ、師として鍛錬にあたった。教えを受けた者の中には、かつて戦場を駆けた伝説の傭兵や、王国の剣術指南役さえもいたという。
その成果は確かに実を結び、十九歳となった今では、街に住む剣士は誰ひとりとして彼の相手が務まらない。技も力も、もはや常人の域を越えている。
性格は明るく快活で、義侠心に篤く、誰に対しても分け隔てなく接する。その人柄から、年若き者には慕われ、年長者には目を細められる存在となっていた。まさに、次期当主として非の打ち所のない器量を備えている。これもすべて、ライコネン家の厳格な教育と、武と徳を重んじる家風の中で育まれた賜物だった。
ただし──その力ゆえに、自らの腕前を過信するところがあるのも事実である。若さゆえの自負と、他を寄せつけぬ実力が相まって、大人たちの眉をひそめさせる場面も少なくない。だが、それをたしなめられるだけの存在が周囲にいない以上、その傲りは、半ば黙認される形で放置されていた。
とはいえ、彼自身がその力に安住することは決してなかった。剣の修行にかける情熱は本物であり、毎日の鍛錬は一日たりとも欠かすことはない。自らの刃を、ただの強さではなく、守るための力に昇華しようとするその姿勢に、周囲の者たちは心から一目を置いていた。
「今日もご精が出ますな、若」
背後から響いた声に、ライガは剣を止め、ゆっくりと振り返った。そこには、年老いた使用人──通称「じい」が、微笑みを浮かべて立っていた。
「おう、じい。もう飯の時間か?」
「はい。台所は煮炊きの湯気で、まるで霧が出たようですよ」
剣を振り始めて三時間が経っていた。肩で息をしながらも、ライガの目にはまだ闘志の残光があった。だが、それもじいの柔らかな声に溶けてゆく。ふと肩の力を抜き、剣を納めた。これが、彼の一日の始まりだった。
朝食の席。湯気の立つ木の椀、焼き魚の香ばしさ、飯に落とされた卵の色が美しい。ライガは箸を手に、がつがつと飯をかき込む。その姿は年相応の若者らしさに溢れていたが、眼差しの奥にある鋼のような意志が、やはり只者ではないことを感じさせる。
「今日のご予定は?」
じいの問いかけに、ライガは箸を止め、少し考えるそぶりを見せる。咀嚼しながら、頭の中で幾つかの選択肢を思い浮かべ、その中から一つを選び取る。
「ガオウで街道に出る。この前、ウチの隊商が襲われた場所を見てこようと思う」
「それは危ないですよ若。もしまた野盗が現れたらどうするんですか!」
「その時は蹴散らしてやるさ」
即答だった。自信、いや──それは若さゆえの衝動でもあった。だがそれを責めることは、彼のような存在には容易にはできない。周囲の誰よりも強く、誇り高く育てられ、守るべきものの多さを知る男に、無謀さと勇気の境界は曖昧だった。
「いやいや、それは危ういですよ、一対一ならともかく、多勢に無勢ではとてもとても……」
「なら、護衛隊から五人ほど連れて行くよ。それならいいだろ?」
「はあ……仕方ないですね。でも、若、危ないと思ったらすぐに引き返すんですよ。いいですね?」
「わかってる。あんまり俺を子供扱いするなよ、じい。ちゃんと引き際は心得ているさ」
そう言って笑うライガの表情には、誇りと余裕が混ざっていた。だがその裏に、誰にも見せぬ焦りがあった。街が崩れつつある今、自分にできることを探していた。武の象徴であるオウガ「ガオウ」に乗るのは、その意味を再び刻みたいからでもあった。
紅茶の湯気が立ち昇る中、重たい足音と共に報せが届いた。
「若、グリクトモアから特使が来て、組合長と評議会に面談を申し入れています」
「グリクトモアから? もう何回目だ? いくら来たって話は変わらないのに」
「それが、今度の使者はいつもと違うようで……。とにかく、組合長が若も同席するようにと言ってます」
「親父が?」
ライガの眉がわずかに動いた。父──ライオス・ライコネンが、評議会の場で自分を呼ぶなど、年に一度あるかどうか。そんな場面が、いま、突然に。
椅子を蹴って立ち上がる。胸中には、朝の剣よりも鋭い緊張が走る。何かが起きている。何かが、動き始めている。
そしてその「何か」は、彼の人生を大きく変える引き金かもしれない──ライガは、そう直感していた。
お読みくださり、ありがとうございました。
グリシャーロットの漁船は、その多くが帆船で構成され、漁師たちはチームを組んで海へと繰り出します。
また、オウガを利用した地引き網漁も行われていますが、これは生態系への悪影響が懸念されるため、漁期や漁獲量については厳格な規制が設けられています。
宗主国ヤドックラディの王、バート・ゴーレイは王子時代からこの地引き網漁を推奨し、漁獲枠の拡大を繰り返し求めてきました。
しかし、グリシャーロット漁業組合はこれに強く反発し、要求を一貫して拒否しています。
こうした経緯から、一部の識者は、バート王によるグリシャーロットへの圧力の背景に、この漁業政策を巡る対立があるのではないかと見ています。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




