第69話 募る戦い
この世界における通貨単位はギルとギラ。ギルは、手に取ればざらつきのある銀の輝きを放ち、ギラはそれよりも重く、金に似た硬質な光を返す。一ギルは日本円で約十円、そして一万ギルで一ギラ。十万円相当の価値を持つそれらの通貨は、ただの金銭ではなく、命のやりとりを可能にする契約の証でもある。
傭兵の雇用においては、十ギラから百ギラが相場。そこには、剣の技量だけでなく、経験や名声、そして信頼性も含まれている。例えば「大陸十三剣」のひとり、氷剣のツェットの名が契約書に記されることになれば、その額は一千ギラを下ることはない。その報酬には、戦局をひとりで覆すほどの影響力が含まれている。
グリシャーロットの街角にある古びた宿。その一角を借り、メシュードラは傭兵募集の拠点としている。風に混じる潮の匂い、軒先で軋む看板の音、夜ごと響く喧騒と笑い声──この街は今、クルーデという名を聞きつけた戦士たちで活気づいている。にもかかわらず、メシュードラの元に集まる者の質は芳しくない。
敵がクルーデと知った時点で、ほとんどの傭兵は姿を消す。脅えるように、あるいは何かを悟ったように。ただし、メシュードラはそれに動じなかった。むしろ、それは当然の反応だと理解していた。命を預かる者として、相手の力量を見極めるのは本能だ。無謀に挑むより、賢明に退く──その選択を責める理由はない。
それでもなお残るのは、十ギラ、三十ギラで雇える若く未熟な者たちか、あるいは過去に何らかの問題を抱えた者たちだった。履歴書には現れない「空白」が彼らにはあり、メシュードラはそれを見逃さない。ただし、拒絶もせず、必要以上に期待もしない。ただ、公平に接し、機会だけは与える。
一方、クルーデはムースらブローカーを通じて、腕利きの傭兵たちを着実に集めていた。応募できるのは最低でも三百ギラの値が付く者のみ。質を最優先とした採用方針。その結果、彼の軍団は洗練された戦力を持つ一団となりつつある。
メシュードラは冷静に状況を見極めていた。彼の心にあるのは、焦燥や怒りではない。あるのは、継続的な情報の整理と判断、そしてその都度最善を尽くそうとする意志。数では劣る。質でも及ばない。だが、それでも進めねばならない。
それが、彼の仕事であり、役割だった。
これまでに、メシュードラは二十八名の傭兵を雇い上げ、既に彼らをグリクトモアの地へ送り出していた。任された任務は主に城壁の補修、補給路の確保といった後方支援。剣を振るうより、道具を持つことのほうが求められる内容だった。とはいえ、オウガの操縦が可能な者ならば、それだけで貴重な戦力となる。激しい前線ではなくとも、戦の土台を支えるのはこうした「地を踏む者たち」なのだ。
*
昼下がりの陽が傾き始め、宿の部屋に射し込む光が斜めに伸びていた。埃を帯びた空気が、静かにきらめいている。古びた木机に向かい、メシュードラは静かに筆を走らせていた。目の前にあるのは、面接を終えた傭兵たちの身上書。文字の列の奥にある彼らの人生を読み取ろうと、彼は一語一語を丁寧に追っていく。
その静寂を破るように、部屋の扉が軽く開かれた。
「どうも。ずいぶんと忙しそうだねぇ」
声と共に姿を見せたのはクラット。彼の後ろに、やや控えめな立ち姿で続く女性──マルフレア。まだ、彼女はメシュードラと面識がなかった。
「なんだ貴様、何の用で来た? まさか傭兵の応募ではないよな?」
言葉こそ刺々しく聞こえるかもしれないが、メシュードラの声色には敵意よりも警戒の色が濃い。彼は常に状況を掌握するために言葉を選び、相手の反応を冷静に観察している。
「そんなつっけんどんな言い方よしてくれよ。俺はあんたらの味方になったんだからさ。仲良くしようぜ」
軽薄とも取れるクラットの口ぶりに、メシュードラの表情は微動だにしない。警戒は解かぬまま、言葉を続けた。
「売春宿の用心棒が味方だと? 一体どういうことだ?」
「弾九郎のダンナに誘われたんだよ。ホラ、あんたがデュバルとやり合ってたとき、あん時にダンナに見初められてね。魔賤窟までスカウトに来たから仕方なく……へへ」
あの時の記憶が脳裏をよぎる。確かに、クラットはその場にいた。デュバルを見限り、あっさりと寝返ったその様子を、メシュードラは目の前で見ていた。
それでも、弾九郎が誘ったというのなら拒む理由はない。信頼は保留のまま、ただ規律を示す。
「弾九郎殿が貴様を呼んだというならそれでいい。だが、妙なマネをしたら──」
メシュードラはそう言うと剣の柄に手をかけた。その動作にこめられた意味は明確だった。──裏切りは許さぬ。
「へいへい。承知してますよ。どっちにしろ俺はクルーデの半目に回っちまったんだ。もう後には引けねぇってわけさ」
クラットはそう言って、軽く笑いながら肩をすくめた。
メシュードラは目を細め、無言のままクラットを見つめる。
ほんの一瞬の静寂が、互いの立場を確認するかのように場に流れた。
「──そうか。ならばいい。で、後ろにおられるご婦人は──」
メシュードラの問いに、マルフレアは一歩前へ進んだ。
ゆるやかに膝を折り、丁寧に頭を下げる。
その所作には、凛とした美しさと訓練された礼節が滲んでいた。
「私はマルフレア・フォーセインと申します。このたび弾九郎様にお仕えすることとなりました。メシュードラ将軍にお目にかかることができ、大変光栄に存じます」
「おお、フォーセイント言うことは……」
そしてマルフレアは顔を上げ、胸元にそっと手を添える。
宣誓のような響きを帯びた声で、静かに言葉を紡いだ。
「はい。私はベネディクト・フォーセインの孫にして最後の弟子。祖父の遺志を継ぎ、最善を尽くします」
「それは心強い。これからよろしく頼みます、軍師殿」
礼を尽くす両者の間に流れるのは、静かな信頼の萌芽だった。だがその空気を壊すように、クラットが言葉を挟んだ。
「俺らがここに来たのはアンタの手伝いなんだよ。なかなか苦戦しているみたいだからな。人集めが」
「確かに状況は芳しくない。だが、それでも応募に来る者はいる」
「どいつもパッとしない奴ばっかだけどな」
その言葉を遮るように、マルフレアが静かに口を開いた。
「兵の強弱はさほど問題ではありません。重要なのは用兵です。私たちはなにもクルーデ全軍と正面からぶつかり合うわけではないので」
その言葉には確信があった。戦力差は歴然。現状、グリクトモア軍の保有するオウガはわずか四十八機に対し、クルーデ側は二百五十機以上。五倍を超える戦力差。それでも、マルフレアの声音は揺るがなかった。
「しかし、寡兵が過ぎると勝負は厳しいのでは」
メシュードラは、現実を否定することはしない。数字の重みを知る者の言葉だった。
マルフレアは、しばし黙って外の光を見つめた。
「はい。なのでグリシャーロットに加勢をお願いしましょう」
「グリシャーロットに!? しかし……」
思わず口をついて出た驚き。しかしすぐに、メシュードラは言葉を止めた。グリシャーロットが中立を掲げているのは、宗主国ヤドックラディの強い圧力によるものだ。その構造を壊すことが、いかに困難かは承知している。
だが、マルフレアは静かに前を向いたまま言った。
「そのために弾九郎様は私をこちらへ送り込んだのです。メシュードラ将軍、どうか私と共に、グリシャーロット領主ライコネン様の元へ行っていただけますか?」
その言葉に、メシュードラは深く、静かに頷いた。
「そんじゃ、そっちの話はまとまったってことで、ここから俺は別に動くぜ」
クラットは立ち上がると、腰に手を当てながらふっと気軽に笑った。まるで茶飲み話のついでのような、軽やかな口調。
「貴様は何をするつもりだ?」
メシュードラの視線が静かにクラットを射る。問いに込められているのは警戒ではない。今や同じ陣営にある者として、行動の意図を知ろうとする純粋な探求心。彼の中で、クラットという男は未だに「観察対象」のままだ。
「魔賤窟に行って、あそこの組合に話を付けるんだ」
その言葉に、メシュードラの眉がわずかに動いた。感情を露わにはしないが、理解できぬ話でもなかった。
「話? 魔賤窟はもともとクルーデ側ではないのか?」
メシュードラの問いは、むしろ当然だった。魔賤窟──その名が示す通り、法の外にある者たちの楽園。売春、賭博、密輸といった闇の経済で回るその場所は、クルーデのような無法者の傭兵団とは、共鳴する土壌があった。利害が一致する限り、両者は緩やかな同盟関係を保ち続けている。
以前、弾九郎たちがグリクトモアの少女を救出した際、五機の傭兵がデュバルの指揮下で動いた。あれは、まさにその「緩やかな協力関係」の延長線にあった。そして、その場にクラットもいた。だが、彼は一度クルーデに与し、その日のうちに寝返った裏切り者──。
その経歴を思えば、彼と魔賤窟の関係は切れているようで、完全には絶たれていない。どこかでまだ、根のような繋がりが残っている。
そんな複雑な背景を背負いながら、クラットはあっけらかんと言った。
「このおね……軍師様がさ、何日か前からグリクトモアの若い衆を魔賤窟に送り込んで、噂を流したんだよ」
メシュードラの目が静かにマルフレアへ向けられる。彼女は軽く頷き、何も言わずにそれを肯定した。
──その噂とは、クルーデがグリクトモアを壊滅させた後、次なる標的として魔賤窟を支配する、というものだ。
それは、虚構。だが、嘘と断じるには、あまりに「あり得そう」だった。利権を奪い、売春窟・賭場・密輸業者たちの互助会組織である組合を壊滅させ、魔賤窟の全てを傘下に収めるという筋書きは、クルーデの傲慢さと強欲さを知る者なら、即座に信じるだけの説得力を持っていた。
ムースたちは現在、その噂を消そうと躍起になっている。だが、一度ついた火は、風に乗って広がっていく。そして皮肉にも、その火を燃やす材料をクルーデの過去が大量に積んできたのだ。
「俺は魔賤窟に顔が利くからな。用心棒やってるオウガを三十機でも借り出せれば御の字って話よ」
クラットはそう言って笑った。どこまでも軽く、どこまでも陽気に。しかし、その笑みの奥には、腹をくくった者の覚悟がちらりと覗く。
彼は自分に課された役割を理解していた。自分がまだ「信頼されていない」ことも、痛いほど分かっている。今のところ、クラットを保証しているのは弾九郎ただ一人──それだけだ。仲間と呼べる者たちの信頼を得るには、言葉ではなく、確かな結果が必要だと彼自身がよく知っている。
そして今回の任務は──。
彼にとって、信頼を勝ち取るための絶好の機会だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
マルフレアは弾九郎の配下たちについて調べ、その実力やこれまでの実績をある程度把握していました。
中でもメシュードラの戦績は際立っており、かつてアヴ・ドベック軍を率いた経験から、「将軍」という敬称を用いています。
もし弾九郎に何かあった場合、彼に代わって軍を率いることができるのはメシュードラだと、マルフレアは考えています。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




