第68話 新たなる刃
正午を三十分ほど過ぎた頃。夏日というにはほど遠いが、春の陽射しはテントの天幕を柔らかく照らし、その光が内側で揺らめいている。城門のすぐ内側、臨時に設営された作業指揮所のテントの奥。そこに設けられた治療スペースの一角で、ツェットは簡素な寝台に横たわっていた。
「…………ッ……カハッ!!」
突如として身を起こし、肺の奥から押し出された咳が静寂を破る。寝汗に濡れた額から雫が頬を伝い落ちた。
「お、起きたか。どうだ、大丈夫かツェット?」
視界に入ってきたヴァロッタの顔が陽を背負って逆光に霞む。ツェットは眩しさを遮るように腕を額に乗せ、重く沈む意識を無理やり手繰り寄せた。
「……私はどれくらい気絶していた?」
「ん……五分くらいかな?」
「…………そうか」
たった五分。それだけの時間で、戦場なら命は尽きていた。戦技に長けていたはずの自分が、こうも無様に地に伏すとは。過去に味わったどの敗北よりも、心に深く刺さった。
「それにしてもすげぇなお前、やっぱ誘ってよかったぜ!」
「よかった? 私はたった今負けたんだぞ」
ツェットが睨みつけるように言い返すが、ヴァロッタはまるで意に介さないように笑った。
「いやいや、弾九郎が一撃食らったとこなんて初めて見たぜ。ホント大した奴だよ。なあ、弾九郎」
ツェットが上体を起こし、視線を横にやると、弾九郎が上半身を晒して薬を塗っていた。左肩には明確な打撃痕──ツェットが放った一撃の名残が、青黒く変色して浮かんでいる。
「ああ。確かにな。互いに真剣であれば、相打ちだった」
平然とそう言ってのける弾九郎。その声には悔しさも誇りもなく、ただ事実を受け入れる静けさがあった。
「オマエ……何者だ?」
問いかけたツェットの声に、弾九郎ではなく、隣のヴァロッタが答えた。
「弾九郎は異界人さ。中身は四十四だってよ。俺らとじゃ、潜ってきた修羅場の数が違うってことだ。ま、そんなに落ち込むような相手じゃねえ」
「異界人……そうか……」
ツェットの心に苦々しさが広がる。男に、少年に、そんな外見の先入観で技量を侮った。その結果がこれだ。自分が「女」であるがゆえに何度も見下され、悔しさを飲み込んできた過去。それと同じ過ちを、今の自分が犯した。
拳を握る。冷たい汗が掌に滲む。
「ツェット、なぜお前が敗れたのか知りたいか?」
「えっ!?」
問いかけられた瞬間、胸の奥がざわついた。敗因を語られる。それは時に、敗北そのものよりも屈辱的だ。だが弾九郎の声には、嘲りも高慢もなかった。ただ静かで、まっすぐだった。だからこそ、耳を塞ぐこともできず、目を逸らすこともできない。そしてなにより、自分自身が最もそれを知りたかった。
「俺に奥義でかかってこいと言われて、素直に奥義を出したからさ」
「は?」
「女ゆえに力の劣るお前ならば、出しうる奥義は刃に重みを乗せた全力の一太刀。それならば太刀筋が読めるからな。もっとも、思った以上に早かったから一撃もらってしまったが……俺もまだまだだ」
その言葉に、ツェットは言葉を失った。自身の戦い方、考え方、動き方、すべて見抜かれている。戦う前から、既に勝負は決していたのだ。
「私の……負けだ……」
「まあ、それでも紙一重さ。実際、お前がひねくれ者で、再び連撃を繰り出してきたら、俺も防ぎ切れたかわからなかった」
笑いながら言う弾九郎の顔は、まるで陽光のように明るく、憎めない。
その瞬間、ツェットの胸に得体の知れぬ感情が渦巻いた。敗北の悔しさではない。どこか、心の底から湧き上がる爽快感──認めざるを得ない敗北の潔さが、逆に心地よかった。
「そうか……だが、お前とは二度と戦いたくないな」
「それは俺も同感だ。で、どうする?」
「どうするって……」
「俺に命を預けるかどうかさ」
「あ、ああ、もちろんだ。私を好きに使ってくれ」
躊躇う間もなく返ってきた自分の言葉に、ツェットは内心で少し驚いた。だが、それが嘘偽りのない本心であることも、すぐに自覚する。
「そうか。それでは頼む。──で、ヴァロッタに聞いたんだが、妹の仇を探しているそうだな」
「ああ。大陸十三剣の誰かだ」
「クルーデの配下に十三剣が二人いるらしい。本来なら二人ともお前に討たせてやりたいが、合戦の場合はそう都合よく行かんことも多い」
その通りだった。大陸十三剣ともなれば、各軍の中核を担う将。戦場で一騎打ちなど、そう簡単に叶うものではない。
「……確かに」
「俺達の陣営で十三剣を討てそうな者は俺とメシュードラ、ヴァロッタ、そしてお前くらいだ。だが、俺達は既に命を預け合う仲間だ。だから、俺達の内、誰がお前の妹の仇を取ったとしても、それはお前が討ったことと同じ──そう考えてくれないか?」
ツェットは、不意に笑みを漏らした。自分の口元がゆるんでいるのに気づき、少し戸惑いながらも、そのままにしておいた。
これまでの戦場では、「仲間」と呼べる者などひとりもいなかった。背中を預けることもなければ、預けられることもない。信じることも、信じられることも知らずに生きてきた。
けれど今──心のどこかで思える。この連中なら、信じてもいいかもしれない、と。
「…………わかった。私は使命を全うすることだけを考えよう」
「うむ」
その時、静かだったテントの空気が、突然の気配に揺れた。
布の入口が無造作にめくれ、外光とともに一人の男が足を踏み入れる。足取りは軽く、どこか気だるげで、だがその目だけは鋭く周囲を見据えていた。
「ひでぇな旦那。その中に俺の名前は入らないのかい?」
陽気な声とともに現れたその男に、ヴァロッタが目を見開いた。
「クラット!? なんでオマエがここに?」
声がわずかに裏返る。それも無理はない。この男──クラットとはつい先日、魔賤窟の一件で刃を交えたばかりだった。あれは途中から狂言に変わったが、だからと言って油断できる相手ではない。
「なんでって……そこの旦那に脅されたんだよ。加勢に来ないなら五百ギラ払えって」
「はぁ?」
困惑と警戒が入り混じった表情でヴァロッタが弾九郎を振り返る。だが、当の本人は肩を揺らして笑っているばかりだ。
「いや、スマンな。もう一人忘れていた。クラット・ランティスだ。こいつもなかなか腕が立つ」
弾九郎は楽しげに紹介するが、その声には確かな信頼の色があった。
「そうか。私はツェット。よろしくな」
ツェットが淡々と応じると、クラットは目を丸くし、思わず声を上げた。
「ツェット!? ツェットってあの氷剣のツェットか?」
「なんだ、お前も知っているのか?」
ヴァロッタがわざとらしく肩をすくめて言う。どこか拗ねたような表情をしているのは、先日までその名前をまったく思い出せなかったことが、よほど悔しいらしい。
「そりゃもう、ツェットでピンとこない傭兵なんてモグリさ」
「モグリで悪かったな!」
ヴァロッタが腕を組んでふてくされる。そんなやりとりに、テント内の空気がやや和んだ。
だが、その軽口の中にも、ほんの一瞬、ピリリとした緊張が走る。
「いやー、こっちにはあともう一人、大陸十三剣がいるんだろ? こりゃ本当にクルーデを倒せるかもな」
クラットの言葉に、ツェットの目が鋭く光った。
「お前は戦場でクルーデを見たことがあるのか?」
その声音には冷たく研がれた刃のようなものがあった。一歩でも間違えば、斬りつけられそうなほどの気迫だ。クラットはわずかにたじろぐが、すぐに調子を取り戻して答えた。
「ギルカランがメセル・ヴェニーを落とした戦いでね。あの時は味方だったから良かったけど、そりゃもうどえらい強さだったよ」
ツェットの表情が曇る。遠い記憶が、痛みとともに胸に去来する。
「私はその時、敵側にいた……」
静かに語られるその言葉には、悔しさと、無念と、そして決して消えない屈辱が滲んでいた。
ギルカラン王国がハマル・リス大陸の覇権をかけて牙を剥いたあの戦役。ツェットはメセル・ヴェニー王国の傭兵として最前線に立っていた。だが、クルーデの圧倒的な力の前に軍は総崩れとなり、国は瓦解した。彼女の目に焼き付いたのは、戦場を薙ぎ払う嵐のような男──まさに破滅をもたらす存在そのものだった。
「あの時は崩れかけた戦列をどうにか立て直すのに必死で、直接刃を交えるには至らなかった。だが、あの凄まじい殺気……あれは確かに破壊の化身だった。お前も見たならわかるはずだ。クルーデに勝つなど、そう簡単に言えることではない」
「そりゃまあね。けどよ……」
クラットは、静かに視線を移す。弾九郎の方を見て、わずかに口角を上げた。
「弾九郎の旦那なら勝てんじゃねえかって思っているよ。俺の勘は当たるんだ」
それを聞いた弾九郎が、豪快に笑いながら言った。
「博打で借金を作った男の勘なぞアテに出来んな」
その瞬間、テント内に笑いが広がった。緊張がほぐれ、陽射しのような温もりが場を包む。
語り合ったところで、敵の強さは変わらない。弾九郎とクルーデ、どちらが強いのか──それは、戦場が教えてくれる。だが、今この時点で確かなのは、ここに集まった者たちはすでに「選んだ」ということだ。
この男に賭ける、と。
ならば、あとは信じるしかない。
お読みくださり、ありがとうございました。
ギルカラン王国はかつて、軍師ベネディクト・フォーセインを擁し、大陸の半分を勢力下に収めました。
その後、内紛や周辺諸国の包囲網に苦しみ、国力は衰えましたが、それでもなお大国としての地位を保っています。
そして今、王国はかつての栄光を取り戻すべく、領土拡大に力を注いでいます。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




