第65話 夜更けの盟約
夜も更けたが、眠らぬ街、魔賤窟の喧噪は終わらない。
店の最奥にある待合室。窓のないその空間には、仄かに燻った香の匂いが漂い、壁にかけられた安物のランタンが、頼りない光をゆらゆらと揺らしている。深夜の空気は重く、喉の奥に埃のような渋みを残す。ここは、遊び終えた客が一服したり、これから遊ぶ客が店の準備が整うまで待機する場所だ。クラットが弾九郎を連れて部屋に入ったとき、数人の男たちが疲れた顔で座っていたが、彼がボーイに指示を出すと、全員黙って別の部屋へと移動していった。
「ここが貴様の城か……」
「店主に貸しがあってね。ねぐらにさせてもらってる」
「女郎屋の用心棒とは、ずいぶん自分を安く売っているんだな」
「よしてくれよ……俺なんてこの程度がお似合いなのさ」
その自嘲気味な言葉は、決して冗談ではなかった。だが、それを口にする声には、どこかで誰かに肯定してほしいという、小さな痛みのようなものが滲んでいた。
「謙虚もいいが、自虐も過ぎるとみっともないぞ」
「勘弁してくれよ……アンタ、こんな所まで説教しに来たのかい?」
「いや、貴様に頼み事があってきた」
「それが人に物を頼む態度かねぇ……」
クラットは半ば呆れながら、ぼやくように独り言をつぶやいた。
「クルーデとやり合う。だから手伝え」
「ぶっ!! ……ア、アンタ、正気かい?」
酔い覚ましの薄茶が、思わず口から吹き出た。思わず、だ。言葉の意味はすぐに理解できても、その無謀さが、感情の処理を追いつかせてくれない。
「俺は説教しに来たわけでも、冗談を言いに来たわけでもない。加勢を頼みに来たんだ」
なんなんだコイツ……といった目つきで、クラットは弾九郎を見た。
異界人で、中身は自分より年長だとはいえ、その顔立ちはまだどこかあどけなさを残しており、頬はほんのりと紅潮している。普通、この年頃の男といえば、どうすれば仲間内で一目置かれるか、どうやって女の子の気を引くか──そんな他愛のないことで頭がいっぱいなはずだ。
だが、この男の瞳には、そういった未成熟な人間特有の緩みが一切ない。冷え切った深淵のような光が宿るその目は、まさに命のやり取りを日常とする獣のそれだった。
「そんな……なんで俺が……」
「貴様は腕が立つ。俺の身内にも二人の強者がいるが、決して引けは取らん。だから頼みに来たんだ」
二人の強者──それがヴァロッタとメシュードラを指しているのは明らかだった。
先日、魔賤窟で直接刃を交えた二人だ。あのとき、彼らに対して「一対一でも敵わない」と口にしたが、それはあくまで韜晦、つまり本音を隠すための方便にすぎない。
実際に真剣勝負になれば、互いに無傷では済まないだろう。だから、あえて自分を低く見せる──それがこの男の処世術だった。
だが、弾九郎の前では、そんなまやかしは一切通用しない。この男の目は、すべてを見抜いているのだ。
「そこまで俺のことを買ってくれてんのはありがたいけどさ、それで俺に良いことあんのかい? なんか、どう考えても損しかない話だと思うんだけど……」
「それは貴様次第だ。クルーデの目的は知っているか?」
「そりゃ、グリクトモアを滅ぼすって話だよな」
「その惨状を見せつけて、グリシャーロットを屈服させるのが真の目的だ。そうなったらここも奴の支配下だな」
弾九郎は室内を見渡した。その視線の先には、壁に掛けられた古びた時計。針はすでに二時を回っていた。
「マジかよ……」
「貴様は一度クルーデに背を向けた。もうここにはいられなくなるな」
「……そう来たか」
「クルーデはヤドックラディの王と結託して、大陸の支配を狙うそうだ。そうなったら貴様の身の置き所は無くなるな。だったらその前に奴を片付けた方が手っ取り早いだろ?」
無茶な理屈。それでも否定できない。不条理な世界では、理屈よりも力が真実になる。
「クルーデを片付けるって……アンタ本気で……言ってるんだよなぁ……多分」
「俺では奴に勝てんと思うか?」
クラットは口を噤んだ。弾九郎の強さも、クルーデの暴力性も知っている。どちらが勝つかなど、とてもじゃないが想像できない。
その問いに、クラットは言葉を詰まらせた。
弾九郎とクルーデ──この二人が戦えばどうなるのか、即答できる自信はなかった。
クラットはかつて戦場で、クルーデの暴虐を目の当たりにしている。圧倒的な暴力、凶暴さ、そして戦場を蹂躙する力。百戦錬磨の強者たちが束になってかかっても、一瞬で薙ぎ倒されるほどだった。その恐ろしさは、もはや神話の怪物の類だ。
おそらく、弾九郎が見せた五人の強者を瞬殺する技量も、クルーデであればいともたやすく成し遂げるだろう。ただし、より残酷なやり方で。あのときの五人はオウガを破壊されたにとどまり、命までは奪われなかった。だが、クルーデならば容赦なく殺していただろう。そして、おそらくクラット自身も生き残れなかったはずだ。
とはいえ──弾九郎がクルーデに敗れる姿も、まったく想像できない。
クラットの印象としては、弾九郎と戦ったというより「遊ばれた」という感覚の方が強い。あの飄々とした態度の裏に隠された本物の強さに、密かに抱いていたプライドは跡形もなく粉砕された。だが、なぜか憎しみは湧かなかった。むしろ、その強さに対する畏れにも似た感情が芽生えた。
この男の強さの底が見えない──それが正直なところだ。
だからこそ、弾九郎とクルーデがぶつかったとき、どちらに軍配が上がるのか、クラットには見当もつかなかった。
「さあね。そんなことがわかるくらいなら、俺はあの時アンタに勝ってたよ」
「つまり、俺が奴に負けるとは限らんということだ」
「そりゃ、希望的観測ってやつさ……」
「ならば戦う価値はある。クルーデを敵に回した以上、貴様は俺に賭けるほかない」
「……逃げて……別の大陸に行くって選択肢もあるぜ」
「ならば今度は俺にも追われることになる。その覚悟があるなら好きにしろ」
「な、何でだよ、そりゃ逆恨みってもんじゃねえのか?」
「忘れたのか? 貴様は俺に五百ギラの借りがある。今回加勢すれば全額チャラにしてやるが、踏み倒すなら……」
その言葉と共に、弾九郎は腰の剣を抜いた。深夜のランタンの光が、鈍く、じわりと刀身を照らす。部屋の空気が凍る。
「今すぐ取り立てようか?」
「…………はぁあぁぁぁ……」
深いため息。それは諦めでも敗北でもない。ただ、現実の重さに心が軋んだ音。
「アンタ、ヤクザよりあこぎなマネするねぇ……」
「腕利きが一人でも多く要る。こっちも必死なのさ」
感情はもう、グチャグチャだった。誉められ、脅され、過去を暴かれ、未来を見せられ──そして、必要とされた。
その最後の一点が、クラットの誇りに触れた。
弾九郎ほどの達人が、自分を必要として、わざわざ足を運んできた。その事実だけは、砕け散ったはずのプライドをくすぐるには十分だった。
これまでクラットは、誰とも深く関わらず、風のように気ままに生きてきた。そういう生き方しかできなかったし、それが自分には似合っていると思っていた。だが──そろそろ潮時かもしれない。
もし、できることなら──弾九郎が抱く夢を、自分も見てみたい。
そんな思いが胸の奥からふっと浮かび上がってきた瞬間、自分でも驚くような笑いがこみ上げた。それは諦めなのか、滑稽さなのか、それとも……わずかな希望だったのか、自分でもよくわからなかった。
「わかったよ……アンタの下に付くよ。クルーデとアンタ、どっちかを選べって言うなら、アンタの方が断然いいや」
「よし。ではよろしくな。頼りにしているぞ」
二人は、ほの暗い待合室で、白湯のように澄んだ薄茶を静かに掲げ、カチリと静かに杯を合わせた。
お読みくださり、ありがとうございました。
クラットは魔賤窟を拠点にして、この地の組合とは深い関係を築いてきました。
博打で借金を抱えはしたものの、取り立てを受けることもなく、自由気ままな暮らしを送っていました。
そんな彼に目をつけたのがムースです。
クラットはスカウトを受け、借金五百ギラを肩代わりしてもらい、報酬一千ギラと引き換えにクルーデの傘下に入りました。
その程度の関係性なので、クルーデをあっさり裏切ったのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




