第64話 埋もれた栄華
グリクトモア──かつてアイハルツの黄金時代を象徴した城塞都市は、いまや見る影もなかった。オロロソ家が築き上げた巨万の富を礎に、グリクトモアは「国が経営する金融都市」としてその名を轟かせていた。石造りの街並みは整然と広がり、大理石の階段を行き交う商人たちの足音が、昼夜を問わず響いていた。書類に朱印を押す音、通貨の擦れる音、そして何よりも人々の未来を預かる確かな自負が、この街を満たしていたのだ。
その栄光の中心にあったのが、膨大な金融ネットワーク。大陸の隅々にまで及ぶ信用の網は、王侯貴族から名もなき市民に至るまで、その手の中にあった。なかでも、ヤドックラディ王国との取引は別格であった。王国が支払う莫大な利息は、グリクトモアの国家財政そのものを賄って余りあるほどだったという。
だが、その繁栄は、八年前に唐突に断ち切られた。
新王バート・ゴーレイの即位と共に、ヤドックラディ王国は一方的にすべての債務返済を停止。利息はおろか、元金さえも支払われることなく、挙げ句の果てに「国家防衛の代償」と称して、グリクトモアが保有する債権は全て没収され、資産の半分を強制徴収されたのである。
バート王の主張は、表面上こそ理屈が通っていた。「三百年にわたり、王国がグリクトモアを外敵から守ってきた。その恩恵によって繁栄してきたのだから、今こそ報いるべき時である」と。確かに、グリクトモアは国境から遠く、戦火とは無縁だった。防衛に割かれるはずの資源を経済活動に集中できたのも事実であろう。
だが、だからといって、すべてを奪ってよい理由にはならない。
八年。たったそれだけの歳月で、ヤドックラディは利息の海に浮かぶ巨艦のごとく軍事力を増強し、領土拡大の狼煙を上げ始めた。その一方で、グリクトモアはまるで魂を抜かれたかのように、ゆっくりと、しかし確実に朽ちていった。
農業の再建など、本来なら笑い話だった。何もかもを金で解決してきた都市に、土に触れる文化は根付いていなかったのだ。石畳を剥がし、かつての広場に畑を拓いたその光景は、栄華を象徴していた白亜の街を、まるで罰でも与えるかのように土と埃で覆い尽くしていった。収穫は年々増えてはいるものの、それは「飢え死にしない」ための最低限でしかなかった。
オロロソ家の当主、テルヌ・オロロソはかつて金で王をも動かした血筋の誇りを胸に、わずかに残された財産を切り崩しながら民を支え続けた。だがその顔には、日に日に深い影が落ちていく。希望を語ることが、もはや空疎な慰めにすらならない日が続いていた。
そして、追い打ちをかけるように現れたのが、クルーデの傭兵団である。規律なき暴徒と化したその集団は、グリクトモアに残された最後の財産すらも奪い尽くし、血と火を撒き散らしていった。人々の悲鳴が、焼け崩れた家々の隙間を彷徨い、夜を切り裂いて消えていく。
かつて栄華の象徴だった街が、いまや命を繋ぐのが精一杯の荒野へと変わり果てた。地平に立つテルヌは、夕陽に焼かれる廃墟を見つめ、奥歯を噛み締めた。怒りでも、悲しみでもない。ただ、屈辱と無力感が、静かに胸を蝕んでいた。
*
マルフレア・フォーセインがグリクトモアの城塞都市を訪れるのは、実に七年ぶりのことだった。あの頃はまだバート王の布告が発せられたばかりで、街にはまだ希望という名の灯がかろうじて残っていた。金色の夕陽に照らされた尖塔、華やかに賑わう市民の声、金融都市ならではの活気──それらは、過去の記憶の中に確かに存在していた。
だが、今。彼女の目の前に広がるのは、見るも無残な「かつての栄光」の骸だった。
崩れ落ちた城壁が風に晒され、草の芽がひび割れた石畳の隙間から顔を覗かせている。かつて通貨が飛び交った広場には、今や瓦礫が山をなし、汚れた鍋を手にした民が炊き出しに列を成していた。その顔には疲労と空腹、そして出口のない恐怖が刻まれている。
ここはもはや街ではない。人がかろうじて生きているだけの、灰色の廃墟だ。
行く先を絶たれた者たちは、もはや逃げることすら許されていない。国境に配備されたヤドックラディの警備隊は、無慈悲に市民を追い返し、亡命も避難も認めない。グリクトモアの民は、この閉ざされた檻の中で、一月後に迫る「死の雨」を震えながら待つしかないのだ。
「……酷い有様ですね」
マルフレアは、唇の端にかすかな震えを感じながら、独りごちた。かつて自分が知っていた街は、もうどこにも存在しない。冷たい風が彼女の髪を乱し、瓦礫の隙間を抜けて、失われた記憶までも引き裂いていくようだった。
それでも──この絶望の中でなお、剣を取り立ち上がろうとする男がいる。
来栖弾九郎。無骨な男。その背に義を背負い、滅びかけた都市と、希望を捨てかけた人々のために、たったひとりでも抗おうとする姿は、常軌を逸しているとすら思えた。だが同時に、彼の狂気めいた真っ直ぐさが、なによりも尊く感じられるのだった。
「今は仲間達が加勢を探している。どれほど集まるかはわからんが……ともかく、戦までに数を揃えたい」
彼の声は、荒れた風にも消されず、まっすぐ彼女の胸に届いた。現状ではメシュードラとヴァロッタがそれぞれグリシャーロットで募兵を行っているが、その成果は芳しくない。名を聞くだけで人々が逃げ出す、傭兵クルーデ。その恐怖は、すでに伝説となって人の心を凍らせている。
「ともかく、戦をどう作るかはマリーに任せる」
名指しされたマルフレアは、深く息を吐いた。重すぎる責務だ。だが、だからこそ──応えなければならない。
「……わかりました。まず、現状を調査した上で、戦場を設定したいと思います」
「うん。では俺はこれから出かける」
「どちらへ?」
「俺も一人、助っ人のアテがあるんだ」
それだけを言い残すと、弾九郎は闇の中へと歩み去っていった。月光も届かぬ夜道、彼の背はすぐに黒い帳に飲み込まれ、姿を消した。
マルフレアはしばらくその場に佇み、砕けた街と、なおも燃える心の狭間に立ち尽くしていた。かすかに聞こえる風の音が、まるで祈りのように耳元を通り過ぎていった。
*
魔賤窟。その名のとおり、欲望と退廃が蠢くこの私娼窟から、つい数日前──弾九郎は十六人の少女たちを救い出した。あのときの乱戦では、ヴァロッタとメシュードラが暴風のように暴れ回ったが、弾九郎自身は救出に専従し、目立つマネはしていない。だが、フードで顔を隠していたとはいえ、彼の内に燻る闘気は隠しきれず、ただ通りを歩くだけで人々は本能的に道を開けた。
まるで野を歩く虎が、無垢の皮をかぶって町に現れたかのようだった。
「……この店か」
弾九郎が足を止めたのは、朱色の外壁と金の装飾が下品に輝く、いかにも男の欲を刺激する造りの一軒だった。品性よりも淫靡さを誇るような建て付けに、彼は無言で鼻を鳴らした。
店内に足を踏み入れた瞬間、濃密な香水の匂いと厚化粧の女たちの嬌声が弾九郎を包み込んだ。
「いらっしゃ~い♡」
女たちは猫のようにしなだれかかり、彼を取り囲む。化粧の奥に見える眼差しには、空腹な獣のような鋭さが宿っていた。彼女たちもまた、生きるためにこの場で笑い、媚び、演じているのだろう。
「すまんが、俺は遊びに来たんじゃないんだ」
言葉こそ落ち着いていたが、少年の声色には不釣り合いな重みがあった。女たちは一瞬驚き、そして──逆に色めき立つ。
「どうしたの、ボク?」
「こんなとこ来たらダメだよぉ?」
「お姉さんがいいこと、教えてあげよっか?」
その甘くねっとりとした声に、弾九郎は内心うんざりしながらも、冷静に要件を口にした。
「ここに、クラット・ランティスがいると聞いて来た。会わせてもらえないか?」
途端に、空気が変わった。女たちの笑顔がひきつり、互いに顔を見合わせる。
「えっ……キミ、クラット先生とどういう関係?」
「先生の息子さん……? にしてはちょっと、デカすぎるか……」
「生き別れのお兄さん……とか?」
「奴に金を貸している。その取り立てに来た」
静かな一言が、冗談混じりだった空気を一変させた。すると、店の奥から一人の男が現れる。酒気を帯びた顔に苦笑を浮かべ、腕には愛想の良い女を抱いたまま。
「一体、何の騒ぎだ?」
「せ、先生……この子が……」
「なんだこの坊主は……」
その視線が弾九郎と交わった瞬間、男の顔色が変わった。
「久しぶりだな、クラット。貴様に話がある」
「……あ、アンタか……っ!? アンタ……ずいぶん若い……ってか、ガキじゃねえか!?」
「俺は異界人だからな。この姿になって、まだひと月ほどしか経っていない。だが中身は、お前よりずっと年上だよ」
クラットは、かつて完膚なきまでに打ちのめされた男の名を、ようやくその小さな身体と結びつけた。その事実に、ぞくりと背筋が凍る。
──異界人。ならば、あの圧倒的な強さも納得がいく。見た目に惑わされてはならない。この少年の中には、刃のような男が眠っている。
「……なるほどな。そりゃ、納得だわ……」
観念したようにクラットは女の肩を離し、少しばかり背筋を伸ばした。
「どこか、落ち着いて話ができる場所はないか? なければ、ここで立ち話でも構わないが」
「いや……奥に、待合用の部屋がある。……こっちだ、ついて来てくれ」
娼館の奥へと続く薄暗い廊下に、足音が二つ、静かに吸い込まれていった。光と影の狭間に、思惑と決着の予感が、じわじわと膨らんでいく。
お読みくださり、ありがとうございました。
マルフレアは、グリクトモアの惨状について、そこまで深刻には受け止めていませんでした。
祖父の世話で外出ができず、情報は月に一度訪れるラエナから聞くくらいだったからです。
しかし、そのラエナも、マルフレアを心配させまいと、実情をありのまま伝えることは控えていました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




