第62話 氷剣の誓い
夜の酒場には、ひとけの少ない裏通りのような静けさが満ちていた。外の風が木の扉を軽く揺らし、窓辺のランプがかすかに揺れるたび、薄明かりに照らされた埃が舞い上がる。蝋燭の燃える匂いと古い酒の染み込んだ木の香り。その空間の中で、ツェットはぽつりと語り始めた。
「私には妹がいた……名前はティート──」
彼女の声は驚くほど淡々としていた。けれどその抑揚のなさが、かえって言葉にこもる痛みを際立たせていた。
ヴァロッタは黙って彼女の横顔を見つめる。影のように落ちる長い睫毛の奥、その眼差しの奥底には、決して癒えることのない傷跡が浮かんでいるようだった。
ツェットは、妹と二人で戦災を生き延びた。盗みと逃走ばかりの毎日。背中合わせで眠る夜も、音に敏感に反応しながら生き延びてきた。
転機が訪れたのは彼女が十二歳になった年。街に現れたバーラエナの募集に応じ、オウガを与えられた。
「やったぞティート! これで惨めな生活とはおさらばだ! このオウガでガンガン稼いでやる!」
その日の夕陽が赤かった記憶を、ツェットは今でも鮮明に覚えていた。妹の瞳が希望に輝いていたことも。
傭兵として、彼女は戦場を渡り歩いた。もともとの天性に加え、死線を潜るたびにその刃は鋭さを増していく。気づけば傭兵としてその名は広まり、同時に、妹も成人し、穏やかな幸せを手に入れようとしていた。
「私が傭兵になって十年。ティートは美しい娘に成長し、レンガ職人のアルスと結婚するはずだった……」
ツェットの指が、グラスの縁をなぞる。彼女の語る「幸せ」の輪郭は、すでに形を失っていた。
「だった?」
ヴァロッタが静かに訊ねる。
「ある村で修繕の仕事を頼まれたアルスは、ティートと一緒に出かけたんだ」
「そこで……何があった?」
ツェットは一呼吸、間を空けた。夜の空気が冷たく染み渡るように感じられた。
「野盗稼ぎをしていた傭兵団に村が襲撃されて、アルスは殺されティートは攫われた」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァロッタは自然と目を伏せていた。唇を噛む。
この世界では、誰もが誰かを喪っている。だからこそ誰も、他人の悲しみに干渉しない。それでも、彼はこの話だけは、決して「よくあること」と割り切ることができなかった。
「三日後にティートは見つかったよ。村の近くの川縁で、散々もてあそばれて最後は腹を割かれていた」
その場の空気が沈黙という名の鉛に変わった。
ヴァロッタは何も言えなかった。怒りすらも、静まり返った絶望の前では無力だった。
「生き残った者の話によると、野盗を率いていたのは十三剣の一人。名前はわからない」
静かな言葉だったが、その中には怒りも悲しみも全て焼き尽くした後の「決意」があった。
「……そうか、じゃあお前は十三剣を片っ端から当たっているってワケか。それにしても、犯人かどうかもわからないのに、殺すってのはどうなんだ?」
ヴァロッタはあえて口を挟んだ。ツェットの中にある黒い炎が、燃え尽きる前に少しでも引き戻したいという気持ちがあった。
「ティートが殺されたのが十ヶ月前。私はその間に二人の十三剣をやった。二人とも死んで当然のクソ野郎さ。十三剣になる傭兵なんて、どいつもこいつもそんな奴らだ」
ツェットは何気なく言ったが、ヴァロッタは思わず舌を巻いた。十三剣を二人も倒したという事実──それは、尋常な実力では到底なし得ない芸当だ。
自分とて腕に覚えはある。たとえ十三剣の名を持たずとも、戦場で遅れを取った覚えはない。だがそれでも、ツェットの強さは別格だった。
ヴァロッタはよく知っている。十三剣と呼ばれる傭兵たちは、名誉や地位ではなく、純然たる「力」によって選ばれる。そこに立つ者たちは皆、ただ強いだけではない。狂気と紙一重の刃を持ち、戦場に生きる怪物だ。
その中で二人を討ったツェット──そして、今その女が隣に座っているという事実に、背筋が僅かに粟立った。
「それじゃ、妹の仇を取るまで、十三剣を狩り続けるつもりか……」
「そうだな。残りはあと十人。殺し続ければ妹の仇にも会えるさ」
その目には、血に染まった道すら躊躇わない覚悟があった。ヴァロッタは思わず冗談めかして問い返す。
「無茶するなぁ……て、あれ? 計算おかしくねえか? 十三剣のウチ二人やったんだろ? だったら残りは十一人じゃ……」
「計算はあってる。その内の一人は私だからな」
しばらくして、その意味が脳に届いた瞬間、ヴァロッタの顔から血の気が引いた。
「あっ、ああっ、あああっ!? 思い出した! ツェット・リーン! 氷剣のツェット! 大陸十三剣の一人!」
「そうだ。だから計算通りだろ」
ランプの炎が、ツェットの瞳に妖しく揺れていた。それはかつて戦場で、何千という命を凍らせてきた眼だった。
すべてが繋がった。妹の無念、復讐の理由、そしてツェットの異様な強さ。
氷剣のツェット──大陸にその名を轟かす、生ける伝説。
ヴァロッタは改めて悟る。この女と並び立つには、相応の覚悟がいる。そして今、目の前にいるのは、過去でも未来でもなく、「怒りで凍てついた現在」そのものだった。
*
夜の帳が酒場の窓をすっかり覆い、街の喧騒もどこか遠く、ひとときの静けさがカウンターに滲んでいた。ランタンの灯が揺れるたび、ツェットの鋭い眼差しに陰が差し、ヴァロッタの口元に浮かぶ笑みはどこか冗談とも本気ともつかない。
「……そうか……お前が氷剣のツェットか……だったらそうだな……やっぱり俺たちの加勢に来てくれ」
ヴァロッタの声が低く、落ち着いた調子で響いた。まるで長い話の結びにようやく本題が現れたかのように。
「だから、それはさっき──」
ツェットが言いかけたその瞬間、ヴァロッタはグラスの脇に、一言だけ置いた。
「クルーデ」
「……は?」
「傭兵クルーデだ。お前も名前くらい知ってるだろ?」
「あ、ああ……もちろん知っている」
ツェットの眉がわずかに動いた。クルーデ──その名は、大陸を震わせる影のような存在。冷酷無比、実力絶対。傭兵の頂点に立つとまで言われる男。
「そいつが傭兵団を組織して、グリクトモアを焼け野原にしようとしてる。俺たちはそいつと戦う」
「……は? お前ら正気か?」
ツェットの言葉に色が乗った。驚き。疑念。少しの苛立ち。そして、何よりも理解が追いつかない。無謀だ。相手がクルーデなら尚更だ。なぜそこまでして戦う?
「俺もそう思うけどな。でも、うちの大将がやるって決めちまった以上、俺も腹括るしかねぇだろ」
「お前の大将……?」
ツェットの瞳が揺れる。想像していたタイプと違う。ヴァロッタのような男が、誰かの下について命を預けるなど……それだけで相手の器量が窺える。いや、それ以上に、ツェットの中に奇妙な興味が芽生えた。この男が命を懸けてまで従う大将とは、一体どんな人間なのか。
「そうさ。そんでよ、クルーデの下には十三剣が二人ついてる。そのうちの一人が、乱剣のデュバルだ」
ツェットの表情が凍りつく。
「お前が加勢してくれるなら、そいつらと戦う場を作ってやる。悪い話じゃないだろ?」
しばしの沈黙。油灯の揺れる音が二人の間に微かに響く。ツェットはその場で目を伏せ、口を結ぶと、ゆっくりとグラスを傾けた。琥珀色の酒が喉を伝い、胸の奥に沈む。
「……わかった、ヴァロッタ。その話、乗ってやる。ただし、十三剣は必ず私にやらせろ。それが条件だ」
ヴァロッタはにやりと笑い、グラスを掲げた。
「決まりだな。そんじゃ、乾杯といこうぜ」
小さく、鋭く、グラスがぶつかり合う音が夜の酒場に響く。その音はまるで、血の契約にも似た重みを帯びていた。
ヴァロッタは、ついに最強の助っ人を手に入れた──氷剣のツェット。戦場の伝説が、弾九郎達の側につく。
だが、そこでヴァロッタは思い出したように言葉を継いだ。
「……それでよ、俺たちの味方にも一人、十三剣がいるんだよな」
「……なんだと?」
ツェットの目が鋭く光る。
「まあ、そいつは傭兵じゃないし、たぶん野盗はやってねえけど……いけ好かない奴だから、お前がやりたいって言うなら、俺は大賛成だぜ。ただし……この戦いが終わった後な」
「はあ? お前たち、一体どんな仲間なんだよ……」
ツェットは思わず眉をひそめた。だが、その表情の奥にあったのは苛立ちよりも、戸惑いとも言えぬ妙な安心だった。
この奇妙で、理解しがたくて、しかしどこか信じたくなる連中とならば──妹の仇討ちすら、運命の筋書きが変わる気がしていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
この世界では、大規模な戦争が終結すると、その余波で周辺地域に傭兵たちが散り、やがて多くが野盗と化して略奪に走ります。
城塞に近い村の住民は、一時的に避難できる余地がありますが、辺境の村々はほとんど無防備のままです。
そもそも、そうした僻地では戦争が起きたことすら知らされないことも珍しくありません。
とはいえ、そうした村が実際に襲撃されるのは数十年に一度あるかないかという頻度であり、多くの村では特に対策も講じられていません。
国の軍も手が回らず、実際にはほとんど見捨てられた状態にあります。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




