第61話 智の巣立ちと刃の再会
「それじゃあラエナ、お爺さまをお願いね」
「はい。マリーお姉ちゃん。お爺ちゃんのことは心配しないで」
「わたしもお世話します!」
「ボクもちゃんとお手伝いするよ!」
「ラエラ、ラエル。二人にもお願いするわね」
茜色に染まる空の下、マルフレアは小さく微笑んだ。頬を撫でる風に、山間の冷たさが少しだけ混じっていて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
見送る三人の小さな手が、まだ真新しい希望を握っているようで、彼女はその光景をしっかりと目に焼き付けた。暮れなずむ空に浮かぶ雲が、まるで別れを惜しむようにゆっくりと形を変えていく。
生活の引き継ぎを終え、マルフレアは旅装に着替えた。緊張と期待が胸を巡る。これからの道がどんな困難を伴うのか、正直なところ、彼女自身にも分からなかった。ただ、祖父の志を継ぐと決めたその決意だけが、心の中に揺るぎなく灯っている。
「それでは行きましょう。弾九郎様、ミリアさん」
手を振るラエナたち三姉弟の姿を背に、弾九郎たちは山を下りた。夕陽が西の稜線に沈みかけ、長く伸びた影が足元を這っていく。空の朱が、旅の始まりにふさわしい劇的な幕引きを演出していた。
やがて、山の麓に辿り着くと、ダンクルスとコンテナが視界に入った。その時、マルフレアは足を止め、静かに口を開く。
「私は持って行きたい荷物があるので、しばらくお待ち下さい」
そのまま彼女は、岩山の奥へと姿を消した。重なり合う巨岩の間を抜けるその背には、静かな決意が滲んでいる。そこはまるで大地の口のような場所で、影に包まれた岩場の中は外の光も届かない薄闇だった。
やがて地を震わせるような重低音が響き、マルフレアが戻ってきた。巨大な台車と、それを引く一体のオウガ。
「お待たせしました。それではグリクトモアへ」
オウガは淡いサンドカラーにブルーのラインが走る美しい体躯で、まるで気品ある騎士のようだった。ケープ状の装甲と膝まであるスカートシールドが風をはらみ、その姿はまるで戦場に赴く貴婦人──否、知の守護者のようですらあった。
「マリー!? そのオウガはマリーのものか?」
「はい。これは祖父から受け継ぎ、私用にバーラエナで改装していただいたオウガ。フォーダンと申します」
弾九郎はその名を聞いて、目を丸くした。
祖父ベネディクトがオウガに乗っていたのは当然としても、まさかその孫娘までが操るとは、彼の中のマルフレアのイメージを大きく覆した。
「しかし……そのオウガで戦うのか?」
「あ、私に戦闘力は期待しないでください。祖父と違って格闘を学んだことがありませんから。ただ、指揮や偵察、物資運搬には使えますので、そのお積もりで」
「……そうか。わかった。しかし、ずいぶん荷物が多いな。コンテナ六つ分とは」
「この中には祖父が集めた書物が入っています。今まで世界で起こった戦いの記録や地図に新聞……これらの資料は私にとって必要なものなのです」
その言葉には、深い敬意と知への情熱が込められていた。彼女にとって、それらはただの資料ではなく、世界を理解し、未来を紡ぐための礎だった。
「ほぉ……それは頼もしい。まるで移動する書庫のようだ」
コンテナの内部は図書館そのものだった。整然と並ぶ資料棚と、中央に据えられた円卓。ひとつは作戦室として機能し、ひとつは彼女自身の生活空間。そして残る四つは、祖父から託された知の宝庫。
こうして、ダンクルスとフォーダンがそれぞれのコンテナを引き、彼らはグリクトモアへと向かう。
その頃には、空はすっかり夜の帳に包まれていた。
星々がひとつまたひとつと瞬き始め、遥かな道を淡く照らす。
マルフレアはふと足を止め、そっと空を見上げる。
──この星々の下で、祖父もまた歩んでいたのだろうか。
胸に浮かんだそんな想いを、誰にも告げることなく、彼女は再び歩き出す。静かな夜風が、フォーダンの装甲を優しく撫でた。
*
夜のグリシャーロットは、昼間の喧騒が嘘のように沈んでいた。だが、その静けさの裏には、どこか息を潜める獣のような気配がある。湿った石畳には灯りの残滓が揺れ、風が吹けばどこからか喧嘩の残り香や血の匂いすら混じる。
そんな街の一角、古びた酒場の木戸が軋む音と共に開いた。夜気を押しのけて入ってきたのは、ヴァロッタ。フードの下で目を細め、薄暗い酒場の中を見回す。ランタンの橙色に照らされたカウンター、その隅で酒を傾ける背中に、彼はようやく足を止めた。
「おっ、ついに見つけたぜ~」
その声に、背中の人物がわずかに肩を動かす。ツェット。数日前、他の酒場で肩を並べて暴れた女傭兵。背中越しでも、その雰囲気は間違えようがなかった。
「よっ、久しぶりだな」
ツェットはグラスを傾けながら、ゆっくりと振り返った。
「……なんだ、お前か」
その目は鋭く、冷たい。まるで酒の苦味をそのまま視線にしたようだった。
「なんだよ~、久しぶりの再会なのにずいぶん素っ気ないな」
「別に。お前と会いたいと思っていなかったからな」
「ひでぇ……」
ヴァロッタは苦笑いを浮かべながら、その隣に腰を下ろした。ツェットの視線を気にしていないようで、実は指先はグラスの縁を軽くなぞっている。彼女の一挙一動が、いつ飛びかかってくるか分からない野生動物のような緊張を孕んでいることを、彼はよく知っていた。
「マスター! コイツと同じヤツを。あと、今日コイツが飲んだ分は俺にツケてくれ!」
「なんだ、一体どういうつもりだ?」
「いや、今日こそは驕らせてくれよ。俺は借りっぱなしってのは嫌いなんだ」
「そうか。だったら好きにしろ」
ツェットは愛想一つ返さない。だが、それが彼女らしさだった。必要以上の言葉も感情も、剥き出しの殺気にしかならないこの世界で、彼女はそれを武器にして生きている。
「いやー、ずいぶん探したんだぜお前のこと。もうグリシャーロットにいねえんじゃねえかって思ったりもしたけどよ」
「私に何か用でもあるのか? まさか、酒を驕りたいからって訳じゃないだろ?」
「まあな……実はお前を口説きたいと思ってさ」
「まだそんな寝言を言ってるのか? どうやら一度、痛い目に合わせる必要があるみたいだな」
金属音が夜気を裂く。彼女はナイフを抜き、無造作にグラスの横へ置いた。それは威嚇というよりも、「本当にやる気ならすぐにでも」といった、彼女なりの返答だ。
「待て待て! 勘違いすんなよ。俺は別にそういう意味で言ったんじゃねぇ。口説きたいのはお前の腕っ節だ」
「私の腕?」
「お前、傭兵なんだろ。ちょっと俺達、これからでけぇケンカをするから、その助っ人を探してんだ」
「ケンカか……私と寝たいってよりはマシな誘いだな……だが、断る」
「どうして? 金の問題か?」
「そうじゃない。前にも言ったが、私にはやることがあるんだ」
「たしか人捜しだったな。で、そいつは見つかりそうか?」
「いや。ただ、この辺りにいることだけは間違いない」
「そうか。で、そいつを見つけ出したらどうするんだ? まさか元カレって訳じゃないよな」
「……殺す」
短い言葉だった。だがその声音には、凍てつくような決意が宿っていた。周囲の喧噪が、ふと一瞬だけ遠のいた気がした。
「ですよねー。で、お前に命狙われてる可哀想なヤツってのはどこのどいつなんだ? もしかしたら俺の知り合いかも?」
「名前は知らん。だが、大陸十三剣の誰かだ」
その名を口にした瞬間、ヴァロッタの目が細まった。
「大陸十三剣……もし良かったら詳しく話を聞かせてくれないか? 俺達もつい最近、十三剣の一人とやり合ったから」
ツェットの手が止まる。視線が鋭くヴァロッタを貫いた。今度は、冗談ではない目だ。
「本当か!? 十三剣の誰とやり合ったんだ!」
「俺が直で戦ったわけじゃねえけどよ、相手は乱剣のデュバル。名前くらい聞いたことあんだろ?」
「……そうか。で、ヤツはどこにいる?」
「さあな……けどよ、これ以上話を聞きたいなら、お前の事情ってヤツも教えてくれよ。目的が十三剣ってんなら、俺の情報は役に立つはずだぜ」
酒場の中では酔客の笑い声が続いている。だが、カウンターのこの一角だけは、夜の底に沈むような静けさに包まれていた。ヴァロッタとツェット。夜の狭間で交差する、ふたつの目的。火がつくのは、もはや時間の問題だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
ベネディクトは引退後も資料を集め続けていました。
いつか戦術書をまとめて、後世に残そうと考えていたのです。
ところが、引退して間もなく目の病を患い、その願いは叶いませんでした。
その代わりに、自分の持つ知識を孫娘のマルフレアに伝えることにしました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




