第60話 受け継がれる志
昼下がりの柔らかな陽射しが、カーテン越しにリビングを淡く照らしていた。光は家具の縁に丸い影を落とし、空気の中には、ほんのりと温かな埃の匂いが混じっている。
「まず、私とラエナが先に祖父と話します。現状を知らせておきたいので。お呼びするまでこちらでお待ちください」
マリーは静かな声でそう言うと、ラエナと並んでゆっくりと奥の廊下へと姿を消した。戸が閉まる微かな音のあと、リビングには静寂が戻った。
室内には、掛け時計の針が時間を刻む音だけが、薄く響いている。
小一時間が過ぎた頃だった。ラエルは椅子に座ったまま、退屈そうに足をぶらぶらと揺らしている。靴の先がかすかに椅子の足を打つたびに、小さな音が室内に広がった。対してラエラはテーブルに肘をつき、手の甲を枕にして、眠気に抗いきれずうたた寝を始めていた。夢と現の間を行き来するような、その顔はどこか幼く穏やかだった。
そんな中、ようやく静かに扉が開き、ラエナが現れた。
「弾九郎さん。お爺ちゃんが会いたいそうです。こちらの部屋へどうぞ」
弾九郎はすっと立ち上がった。呼吸を整え、気持ちを引き締める。重たい扉を押し開け、静まり返った廊下を進んでいく。廊下の奥、陽の届かないその部屋は、どこか空気がひんやりとしていた。
そこにあったのは、壁際に据えられた一台のベッド。そして、その上に痩せ細った老人が静かに横たわっていた。毛髪はほとんど抜け落ちていたが、顎から胸元にかけて立派な白い髭をたくわえており、その姿はまるで長き知恵を湛えた賢者のようだった。
「お爺さま。来栖弾九郎様がいらっしゃいました」
マリーが隣の椅子に腰を下ろしながら、丁寧に告げる。老人はゆっくりと、時間をかけて弾九郎の方に顔を向けた。
白く濁った瞳。まるで霧に包まれた湖面のように、何も映さず、ただそこに在る目。それが深い白内障によるものだと、弾九郎は直感で悟った。──この人は、もうほとんど何も見えていない。
だが同時に、彼は気づく。マリーがここにいる理由。老人の傍らに控え、目となり声となって、彼の世界を保つ者。それが、彼女の役割なのだ。
弾九郎は一歩前に進み、静かに頭を下げた。
「よく……来てくださった。私がベネディクト・フォーセイン。ご覧の通り、もはや死を待つだけの老人です」
その声は掠れ、か細いながらも芯があった。喉の奥で絡むような咳がひとつ漏れ、老いた肉体がそれに小さく震える。
「私は来栖弾九郎と申します。先生のお目にかかれて嬉しく思います」
弾九郎の声は低く、穏やかだった。敬意を込めて語るその姿に、マリーが目を伏せる。
「弾九郎殿。私の大切なひ孫たちを救ってくださったと聞きました。本当に、ありがとうございます」
「いえ……人として当然のことをしたまで。礼には及びません」
ベネディクトはうっすらと笑みを浮かべ、まるで何か懐かしいものを思い出すかのように目を細めた。
「しかし、あなたがいなければあの子たちは今ごろどうなっていたか……」
「グリクトモアではこれから、同じ惨劇が繰り返されようとしています。しかし、私は微力ながらあの国を守りたい。そのために必要な教えを賜りたく参上いたしました」
弾九郎はその言葉と共に深々と頭を下げた。ベネディクトにはその姿は見えない。しかし、空気の揺れと、沈黙の重みによって、その誠意は痛いほどに伝わった。
「……ご覧のように私の盲いた目では何も見えず、床から起き上がることもままならない有様。とてもお役には立てないでしょう」
「しかし、なにか策をお授けいただければ……」
弾九郎の声に焦燥が混じる。彼には時間がなかった。力も、仲間も、圧倒的に足りない。だがそれでも、戦うと決めたのだ。
「ラエナの話では、寡兵で大軍を相手にされるとか。そんな無謀をしようというのに、教えただけで使える策などありません。戦場を見、兵を知り、敵を知らなければ、そもそも策など立てようがないのです」
現実の重みが言葉に滲む。否定ではなく、真実。それが弾九郎の胸に突き刺さる。
「……ですが……」
口を開きかけたが、何も言えなかった。言葉がない。ベネディクトの言葉に、理の隙はないからだ。
「弾九郎殿のお役に立てるのは、共に戦場を知り、兵を知り、敵を知り、策を立てる、戦う軍師。私のような死にかけの老人ではありません」
弾九郎はただ黙ってその言葉を受け止めるしかなかった。
「ラエナから聞きました。弾九郎殿は異界人であると。それは誠ですか?」
不意に変わった話題に、弾九郎は眉をひそめた。しかし、何か意図があると察し、素直に答える。
「ガントのアウラダ・コーラリウムなるものの話だと、私は『地球』からやって来た異界人だそうです」
「……『地球』……どの国の人なのですか?」
「私の生まれた国は、日の本──日本と申します」
その名を聞いた途端、ベネディクトの白濁した目がわずかに見開かれ、顔に懐かしさと驚きが混ざり合った表情が浮かぶ。
「ああ……ニホン……ジャパン……懐かしい……」
静かに、涙が零れ落ちた。それは記憶の底から溢れ出した想いの雫。
「私は日本に多くの友人がいた……ナカモト……ヤマサキ……ああ……」
「先生……?」
その瞬間、ベネディクトは静かに、だがはっきりと語った。
「私も『地球』から来た異界人なのです」
「なんと……!」
まるで天地が逆転するような衝撃。弾九郎は言葉を失い、ただ息を呑んだ。
だが、すべてが繋がった。彼がなぜこの地で名軍師として知られているのか。その才と知識の源は、地球での記憶と経験だったのだ。
「私はかつてアメリカという国の軍隊で、作戦参謀の職に就いていました。しかしある日、心臓発作でこの世を去り……気がつけば十五の身体で、この世界に生まれ変わっていたのです」
その言葉は、過去から未来へと繋がる架け橋だった。
「私はあなたの故郷、日本を知っています。かつて我が国と戦い、その後盟友となったサムライの国。そこで出会った友人達は皆立派な軍人であり、サムライでした。あなたも、きっとサムライなのでしょう」
その言葉に、弾九郎の胸に熱が走った。自分はひとりではなかったのだ。この世界に、同じ「地球」の意志を持った者がいた──その事実が、ただ嬉しかった。
「私は、この世界で戦い続けてきました。豊かで、平和で、そして強い国を築くために。だが……私は国を興す器ではなかった。よき主君にも、ついに巡り会えなかった。それでも──私は夢を、捨てることができなかったのです」
そこまで言うとベネディクトは、思い出を追うように遠くを見つめた。そして、ふと現実に戻り、その見えない瞳でまっすぐ弾九郎を見据えた。
「弾九郎殿。マリーをあなたの旗下に加えてください。この子には、私の経験、知識、思考法をすべて伝えてあります。きっとあなたの役に立つ」
「お、お爺さま!?」
その場の空気が揺れた。マリーが思わず立ち上がり、声を上げる。弾九郎も驚き、視線をマリーに向けた。
「お前は弾九郎殿に従い世に出るのだ。マリー……いや、マルフレア・フォーセイン。軍師は其方の運命だ。どうか私の志を受け継いでくれ」
「ですが……私がここを去ったら、誰がお爺さまを……」
その時だった。扉を背に佇んでいたラエナが、静かに口を開く。
「私たちがここに残ります。だから、マリーお姉ちゃんは弾九郎さんの力になってください。お願いします」
その瞳は決意に満ちていた。かつては寄る辺なき子どもだった彼女が、今や他者の未来を支えようとしている。
マルフレアの胸に、なにかが込み上げた。
家も家族も失い、生きる術さえ持たぬラエナたち姉弟にとって、この屋敷はまさに理想郷だった。
彼女たちの事情を知ったとき、マルフレアは迷うことなく、ここに住まわせるつもりでいた。
──まさか、自分が出て行くことになるとは、夢にも思わずに。
自分にとってかけがえのない姪と甥。それがこんなにも早く、こんなにも強く成長している。その姿が、誇らしくて、少しだけ寂しい。
「マルフレア殿。頼む! 俺に力を貸してくれ!」
弾九郎の声が響く。その声音に、迷いもためらいもなかった。
マルフレアは、祖父の下で十九年過ごしてきた。知を学び、志を聞き、その背を見て育った。その教えを抱いて生きると誓った日々。それが、今、形になる。
彼女は弾九郎の瞳を見つめ、静かに頭を垂れた。
「祖父、ベネディクトには到底及ばぬ不詳の弟子ですが、全霊をもってお仕えいたしましょう。どうか、以後よろしくお願い申し上げます」
陽が傾き、部屋の影が少しずつ伸びてゆく中、弾九郎は静かに頷いた。
思いがけぬ巡り合わせが、ここにまたひとつ、力を結びつけた。
──これが、彼の戦いにおける第一歩となる。静かなる誓いの午後だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
ベネディクト・フォーセインは一九五一年、アメリカに生まれました。
彼はその後、ベトナム戦争、グレナダ侵攻、湾岸戦争といった数々の戦場に身を投じます。
しかし、一九九九年、コソボ紛争の最中に心臓発作に見舞われ、そのまま帰らぬ人となりました。
孫のマルフレアは、そんなベネディクトの家に生まれ、両親と共に穏やかな日々を過ごしていました。
ですが、十歳のときに父を、十五歳のときに母を相次いで亡くし、それ以降は祖父と二人きりの生活が続くことになります。
祖父の深い薫陶を受けながら、マルフレアは静かに成長していったのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




