第59話 名軍師の孫
弾九郎たちは、グリクトモア城内には拠点を構えず、城門近くに停めたままのコンテナの中で起居することを選んだ。金属の壁は冷たく質素だが、外敵の気配にはすぐに反応でき、何よりコンテナのすぐ隣には、彼らの頼れる戦力であるオウガも待機している。戦の気配がぬぐえぬ今、何よりも即応性が求められていた。
薄曇りの空の下、コンテナの隙間から差し込む柔らかな陽が、弾九郎の顔を斜めに照らしている。その眉間には深い皺が刻まれていた。
「うーん……」
彼の低い唸り声に、ミリアが紅茶を運びながら振り返った。ティーポットから湯気が立ちのぼり、コンテナの冷えた空気をわずかに和らげる。
「どうしたの、ダン君? そんな難しい顔して」
ミリアの声は明るく、しかしどこか心配を含んでいた。カップから立ち上る紅茶の香りが、わずかに空気をやさしく撫でる。
「うん……人を探さないといけないんだが、どうも上手く行かなくてな」
弾九郎は苦笑混じりにカップを受け取り、少しだけ口に含んだ。
「へぇー、どんな人?」
「ベネディクト・フォーセインというお方なのだが……街の者に聞くと、名は知っていても誰も所在を知らなくてな」
腕を組み、また静かに沈思する。思考の迷路に踏み込もうとしたその時、リビングの隅で遊んでいたラエルが、突如として声を上げた。
「ボク知ってるよ!」
「なに!?」
弾九郎が椅子をきしませて立ち上がると同時に、ミリアも目を見張る。まるで封じられていた記憶が、不意に鍵を開けられたようだった。
ラエルとその姉、ラエナ、ラエラの三姉弟は、野盗によって家も両親も失い、今はこのコンテナを仮住まいとしていた。小さな身体に過酷な記憶を抱えながらも、ラエルはあどけなさの中に確かな意志を宿していた。
「お爺ちゃんがどこにいるか、ラエナ姉ちゃんなら知ってるんだ」
「本当か、ラエル!?」
「うん、ホントだよ!」
弾九郎はその言葉を聞くが早いか、コンテナの扉を開けて外へ飛び出した。白い雲が流れる空の下、ラエナとラエラが洗濯物を干している。風に揺れる布と共に、ラエナの長い髪がふわりと舞った。
「どうしたんですか、弾九郎さん? そんなに慌てて……」
ラエナの声は静かだったが、その瞳は小さな緊張に揺れていた。
「ラ、ラエナ、ラエルから聞いたんだが……ベネディクト・フォーセイン殿の居場所を知っていると言うのは、本当か?」
「えっ……!?」
彼女は目を丸くして、逆に問い返してきた。
「弾九郎さん、どうして私たちのお爺さんのことを?」
「お爺さん……?」
「はい。私の名前はラエナ・フォーセイン。ベネディクトお爺ちゃんは、私たちの曾祖父です」
その言葉に、弾九郎は目を見開いた。風が一瞬止んだように、時が静止した錯覚を覚える。偶然助けた姉弟が、まさか名軍師の血を引く者だったとは……。
「い、今どこにお住まいなのか知っているか?」
「もちろん。街が襲われる前は月に一度、お手紙と新聞を届けていましたから」
静かに、しかし確かに語られるその言葉に、弾九郎は胸の奥に込み上げるものを感じた。これはただの偶然ではない──巡り合わせという名の導きだ。
「ベネディクト殿に会いたい。どうか案内してくれないか?」
「もちろん、いいですよ。ただ……」
「何か、心配事でも?」
「いえ……お爺ちゃんはもう、かなり弱っていて。今はベッドから起き上がることもできません。だから……弾九郎さんとお話しできるかどうか、それが心配で……」
「……構わない。俺はただ会って、道を示してもらえればいい。たとえ軍配を取っていただくのが難しくとも、心に火を灯してもらえるだけで、十分なのだ」
ラエナは、静かに頷いた。その瞳には迷いと、確かな決意が同居していた。
「わかりました。お爺ちゃんの家はここから一日。……私、すぐに出かける用意をします」
そう言うと彼女は干したばかりの洗濯物を取り込み始める。空にはまだ白い雲が浮かび、しかし確かに、風の向きが変わったように思えた。
*
グリクトモアの城下に広がる喧騒から離れ、仲間たちはそれぞれの役目を果たしていた。メシュードラはグリシャーロットで傭兵を募り、目利きの力を生かしての兵を選定している。ヴァロッタは煙と笑い声の満ちる酒場を転々とし、目当ての強者を探していた。
そんな中、弾九郎は警備を街の兵に託し、静かな決意と共に、ラエナを伴ってグリクトモアを離れた。彼女の体調を慮り、移動手段にはオウガを選ぶ。鋼鉄の巨躯が足元の大地を震わせながらも、道を乱すことなく軽やかに進んでいく。
行き先は四十キロメートル先。森と山に包まれた静寂の地。徒歩であれば一日を要するが、オウガならばわずか二時間の道程である。
「お爺ちゃんのお家は、あの山の中にあります」
ラエナの指先が向いた先、街道から見えるその山は、一見するとただの岩と木々が織りなす風景にすぎなかった。だがその稜線は不自然に折れ重なり、奥に何かを隠すかのように入り組んでいる。
人目を避けるには最適な立地。軍略家の隠れ家としては、あまりに出来過ぎている。弾九郎は心の奥で、敬意に似た感嘆を覚えていた。
「ここの山道をこう曲がって……」
ラエナの指示を頼りに、ほとんど獣道と呼ぶにふさわしい細道を進む。空気は次第にひんやりとし、木々の隙間から射し込む陽光が、まるで森の精霊が導く道標のように揺れている。
足元の小石を踏む音と、風に揺れる葉擦れの音だけが周囲を満たしていた。やがて分岐点にたどり着くが、そこは目を凝らさなければただの道の途切れにしか見えない。
弾九郎はラエルを肩車し、ミリアはラエラの小さな手をしっかりと握りしめている。静かな緊張と穏やかな歩みが、山中の空気を優しく揺らした。
「着きました。ここがお爺ちゃんの家です」
目の前に現れたのは、石造りの静謐な建物だった。枝と葉に覆われており、遠目には森の一部と見紛うほどに自然と同化している。だが、裏手には手入れの行き届いた畑が広がり、その律された耕地が、住む者の知性と矜持を物語っていた。
「ベネディクト殿は、お一人で住んでおられるのか?」
「いいえ。一緒に住んでいるのは──」
ラエナが言いかけたその時、家の扉が音を立てて開いた。
「マリー姉ちゃん!」
「マリー姉ちゃんだ!」
ラエラとラエルが声を弾ませて駆け出す。玄関に現れた女性の目が大きく見開かれ、次の瞬間、驚きと喜びが混じった叫びがこぼれた。
「ラエル! ラエラ! それにラエナも……! みんなどうしたの?」
突然の訪問に驚きながらも、「マリー」と呼ばれた女性は、自分の胸に飛び込んできた三人をぎゅっと抱きしめた。
彼女は、まだ何も知らない。グリクトモアで起きた惨劇のことを。
ただ、月に一度訪ねてくるラエナが、予定よりも数日早く、しかも妹と弟を連れて現れたことで──彼女は、何かがあったのだと悟っていた。
「マリーお姉ちゃん……私たちのパパとママが……野盗に殺されて……」
「ライアン兄さんとお義姉さんが!?」
「私は捕まって、魔賤窟に売られたの……」
言葉が次第に途切れ途切れになる。子どもたちの口から語られる過酷な過去に、マリーの顔が凍りつく。
「魔賤窟……ですって?」
「それを、あそこにいる弾九郎さんが……助けてくれたの」
「まぁ……」
「弾九郎兄ちゃんってね、すっごく強いんだよ!」
「グリシャーロットで悪いオウガがいっぱい暴れてたけど、みんな倒しちゃったの!」
目を輝かせて話す子どもたち。その姿を見つめながら、マリーはゆっくりと視線を弾九郎に向けた。
その瞳と交差した瞬間、弾九郎の呼吸が浅くなった。
マリーは、まるで夜の静寂をそのまま形にしたような女性だった。深い漆黒の髪は胸元で流れ落ち、ワンピースの刺繍は静かに光を受けて揺れていた。均整の取れた顔立ちには、あまりの整い方に逆に現実感を欠いている。雪解けの水のように澄んだ肌、そして、その黒い瞳に見つめられた瞬間、弾九郎は自身の心がまるで透かし見られているかのような錯覚に陥った。
まるで、あの瞳は未来までも見通しているかのように──。
「別に……たいしたことではない。──それよりも、水を差すようで悪いが、俺はベネディクト・フォーセイン殿に会いに来た。面会を願えないだろうか」
その名が口にされた瞬間、マリーの表情にぴんと張りつめた緊張が走った。だが、それを受け止めるようにラエナが静かに言葉を添える。
「弾九郎さんは、グリクトモアを守りたいって言ってくれたの。だから、お爺ちゃんとお話がしたいんです。お願い、マリーお姉ちゃん……」
マリーは数秒の沈黙の後、ふっと息を吐き、視線を弾九郎に戻す。そこには迷いの影が残りつつも、決意の光がわずかに宿っていた。
「……わかりました。貴方は私の大切な姪たちの恩人ということですね。だとしたらお引き合わせしないわけには参りません。ただ、祖父はもう高齢です。長いお話は、お控えくださいね」
「承知した。ベネディクト殿のお身体に障らぬよう心がける」
「それでは──こちらへどうぞ」
マリーが振り返り、家の扉を開けて一歩踏み出した。その足取りは、慎重でありながらもどこか気高く、導く者の矜持が漂っていた。
弾九郎の胸は静かに波立った。いままさに、自分の運命の一節が、大きく動こうとしている。
お読みくださり、ありがとうございました。
ベネディクト・フォーセインには一人息子がいましたが、その人物はすでに亡くなっています。
息子にはライアンとマリーという二人の子どもがいます。
ライアンとマリーは十五歳も年が離れているため、甥や姪にあたるラエナたちは、マリーのことを叔母というより姉のように慕っています。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




