第57話 立ち向かう男
夜が白み始めた空の下、赤く滲む朝日がグリクトモアの城塞都市を照らし出す。その姿を目前にした瞬間、弾九郎は思わず息を呑んだ。
昨晩、星明かりの下で朧げに見えた姿から想像していた以上に、その荒廃ぶりは凄まじかった。
風雨にさらされ、無惨な襲撃を受けた痕跡が、街の隅々にまで刻み込まれている。かつては堅牢を誇ったであろう防壁も、今や見る影もなく、崩れ落ちた石塊が瓦礫として積み重なるばかり。
これではとても、市民を外敵から守るなど望むべくもない。
胸の奥で、鈍い痛みが湧き上がる。弾九郎はその場に立ち尽くし、唇を引き結んだ。
──この街で生きるというのは、きっと恐ろしく困難なことだ。破られた城壁の中で、誰にも守ってもらえず、それでも今日を生きるしかない。住民の多くは、ただ他に行き場がないというだけで、この崩れかけた街に留まっているのだろう。勇気も、覚悟も、既に削られ尽くして。それでも彼らは、生きている。日々襲い来る脅威に怯えながら、それでも尚、踏みとどまっている。
それが、どれほどのことか。
一方で、少女たちの様子は少しだけ明るかった。コンテナでの適切な食事と、久方ぶりの安眠が効いたのか、十六人のうち十人は自力で立ち、歩けるまでに回復していた。未だ動けぬ六人は台車に乗せ、弾九郎たちはゆっくりと街へと歩を進める。
その姿を、街の人々は既に見つけていた。
城門の前に静かに佇む三体のオウガに、初めは誰もが身を震わせ、再び野盗かと戦々恐々とした。だが、連れてこられたのが紛れもなく自分たちの娘たちだと気づいた瞬間、恐怖は歓喜へと反転した。
「マリア!」
「リサ!生きてたのか……!」
叫び声が飛び交い、涙混じりの声で名前を呼ぶ人々が少女たちのもとに駆け寄る。ひとり、またひとりと抱きしめられ、涙を流す姿に、周囲は歓喜の渦に包まれていった。
娘たちは酷く疲れ、傷つき、痩せ細っていた。それでも、彼女たちは生きて帰ってきたのだ。それだけで、十分だった。
人々は弾九郎たちの存在に気づくと、次々と彼らを囲み、感謝と賞賛の声を上げる。弾九郎は戸惑いながらもその輪の中に立ち、ふと、胸の奥に少しだけ温かなものを感じた。
──守るべきものが、確かにここにある。
荒れ果てたこの街にも、まだ希望が残されているのかもしれない。
*
娘たちが無事に帰還したという知らせは、瞬く間に城塞都市グリクトモアの隅々まで広がっていた。人々は感涙に咽び、街には久しく聞こえなかった笑い声が戻ってくる。だが、歓喜の波がひと段落ついた頃、迎えに現れた街の顔役が、重々しい面持ちで弾九郎に歩み寄ってきた。
齢七十を超えようかというその老人は、背筋こそ曲がっていたが、瞳には深い誠意と、拭いきれぬ自責の念が宿っていた。
「このたびは……私たちの大切な子供達を救っていただき、誠にありがとうございます……」
言葉の最後はわずかに震えていた。顔役の頭が深々と垂れられる。その姿に、弾九郎は一拍の間を置いて、ゆっくりと首を振った。
「……悪党共から子供を守れなかったのは、さぞ無念だったろう。……いや、今回だけじゃないな。これまでに、何度もこういうことがあったんじゃないか? この街を守るべき兵は、一体どこに行った」
当然の疑問だった。しかし、老人の顔には言い淀むような影が差す。
「……街には、元々三十二機のオウガしかおりません。そのうち二十機は、ヤドックラディ王国に徴用されまして……残った十二機で、なんとか街を守っておりました」
「ふむ……たとえ城塞があっても、それだけでは野盗どもに敵わなかった、というわけか」
老人は小さく頷く。
「はい……その十二機のうち、戦闘で倒された八機は現在、回復して再び動かせる状態にあります。しかし……残る四機は、乗り手を失い、今ではただの人形と化してしまいました」
弾九郎はその言葉に、軽く眉をひそめた。
──なるほどな。肝心の乗り手が死んでしまえば、オウガは動かない。あの鋼鉄の巨人は、誰でも動かせるというわけではないのだ。
オウガ。それはこの世界において遺された技術、すなわちオーバーテクノロジーの結晶だった。人はその構造や仕組みを解明できず、ただ使うことしかできない。完全自己完結型の機械生命体とも呼べるそれは、腹部に格納されたコアから無尽蔵のエネルギーを供給し、常時稼働し続ける。
破壊されようと、腕をもがれようと、たとえ首が落ちようと──全身を巡るナノマシンの働きによって、時間をかけて自己修復を遂げる。欠損が激しい場合は鉄屑などの資材を下に敷いて寝かせれば、やがて体が再構築される。ただし、それには時間がかかるため、最も確実で早い手段はバーラエナの中にある工房ユニットに持ち込むことだ。そこなら、どれほどバラバラの状態でも一日あれば完璧に復元される。
──だが、バーラエナに出会える機会など、そう都合よく転がってはいない。
そして何よりも重大なのは、オウガには登録された人間しか乗れないという制約だ。
「俺のダンクルスもそうだが、オウガには他の奴が乗っても、ピクリとも動かん」
弾九郎は低く呟いた。それはまるで、意思を持つ機械のようでもあった。
つまり、乗り手が生きていればオウガは鋼の守護者であり続けるが、乗り手が死ねばただの塊と成り果てる。再起動するには、ガントの手でコアをリセットし、新たな所有者を登録し直さねばならない。だが、それができる者もまた限られている。
過去の戦争──バラン高原でのアヴ・ドベック軍とナハーブン軍の戦いを、弾九郎は思い出す。あのとき、ナハーブンの兵士たちは倒れたオウガから乗り手を引きずり出し、わざわざ殺して回っていた。戦力を一時的にではなく、永続的に削ぎ落とすためだ。
オウガは、戦争の勝敗を左右する魂の兵器なのだ。
街の顔役は、すべてを語り終えると、再び頭を下げた。
「どうか……どうか、この国の領主、テルヌ・オロロソ様にお会いいただけませんか?」
彼の懇願には、かすかに差し込んだ希望の光にすがろうとする、切実で強い思いが込められていた。
弾九郎は黙って、その光の乏しい瞳を見つめる。
「会おう」
*
城塞都市──その響きから連想されるような、重厚で堅牢な城の姿は、グリクトモアには存在しなかった。都市の中心に建つのは、領主の館と呼ばれる建物。ただ小高い丘の上に立つだけのそれは、城と呼ぶにはあまりにも簡素で、守りのための意匠すら見られない。かつて唯一の高所だったはずの尖塔も、すでに半ばから崩れ落ち、剥き出しの石材が空に向かって痛ましく突き出している。その姿は、まるで希望を喪った都市の象徴のようだった。
そんな朽ちた館の広間で、ひとりの老婦人が弾九郎たちを出迎えた。
「このたびは街の娘たちを救ってくださいまして……ありがとうございます。あの娘たちは、グリクトモアの未来、希望なのです。それが……帰ってきたのですから、これ以上の喜びはありません……」
頭を深く下げたその姿は、貴族の誇りよりも市井の母の哀しみを背負ったような佇まいだった。グリクトモアの領主、テルヌ・オロロソ。年の頃は六十を過ぎているだろうか。立ち姿には芯の強さが感じられる一方で、その身体は確実に蝕まれていた。肺の奥からせり上がるような咳が、断続的に彼女を苦しめる。病魔の影は、彼女の体だけでなく、この街そのものにまで差し掛かっているように思えた。
弾九郎は無表情のまま、彼女の言葉に応える。
「助けたのは俺たちが勝手にやったこと。非道を……ただ、見過ごせなかっただけだ」
その一言に、テルヌの瞳が揺れた。潤んだままの目元に、歳月の皺がやさしく寄っている。
「こんな世に……そのような方が、まだおられるとは……」
か細い声でそう言うと、彼女はそっと涙を拭った。
しばしの沈黙ののち、弾九郎は彼女を見据えたまま問いかける。
「……この国が凋落した理由は、だいたい聞いた。だが……どうにかする手は、本当に無かったのか?」
その問いに、テルヌは目を伏せ、かすかに頭を振る。
「バート王の目的は……グリシャーロットを手中に収めること。そのために、グリクトモアは生贄にされたのです。……たとえ降伏して、街の全てを差し出したとしても……あの王は、満足などなさらないでしょう」
その言葉には、諦念と、果てしない絶望の色が滲んでいた。弾九郎は言葉を失う。テルヌのやせ細った顔に宿る影が、その重さをすべて物語っていた。
そして、彼女はさらに続ける。
「……二日前、クルーデという男の使者が現れ、こう告げました……『一月後にグリクトモアを攻撃する。それを避けたければ、この街の資産をすべて差し出せ』と。しかし、私にはわかります。たとえすべてを差し出しても、彼らは攻撃を止めはしない。……彼らの真の目的は、グリクトモアの絶滅なのです。行き場のない私たちを……街ごと消し去ろうとしている。二百機のオウガをもって……」
その瞬間、広間の空気が凍りついた。
弾九郎だけでなく、ヴァロッタもメシュードラも息を呑む。ミリアに至っては、沈黙の中でこぼれ落ちた涙が頬を伝っていた。
これが、国家の策略。人を捨てるという決断。絶望を突きつけられた都市の、今の現実。
「……そうか。わかった」
静かに、だが確かにそう呟くと、弾九郎は天井を見上げ、そして決意を込めてテルヌを見据えた。
「戦おう。俺が戦って、クルーデを倒す。そして──バート王の首を刎ねてやる」
その言葉は、大地を震わせる雷鳴のように、静かに、だが確かに部屋中に響いた。
誰も声を上げなかった。ただ、皆がその場に立ち尽くし、弾九郎の背に、確かな光が灯ったような気がしていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
オウガは完全自己完結型のマシンであり、メンテナンス用のハッチすら存在しません。
本体のみならず、装甲や武器に至るまでナノマシンが常時稼働しており、軽度の損傷なら即座に修復されます。
そのため、ダンクルスの刃は常に新品同様の鋭さを保ち続けているのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




