第52話 グリシャーロット脱出
荷馬車がヤードに到着したとき、空はすでに茜色に染まりはじめていた。高く伸びたオウガの影が地面に長く落ち、錆びた鉄の匂いと土埃が微かに風に乗って鼻をくすぐる。夕陽は沈みかけながらも最後の力で空を照らし、コンテナの外壁を赤く染めていた。
その静かな空間に、少女たちのかすれた吐息と、薄く鳴る鉄扉の音だけがこだまする。
弾九郎は、コンテナに彼女たちを運び終えると、すぐに食事の支度に取りかかった。まず火を熾し、豆のスープを煮立て、干し魚を炙る。手際は落ち着いていたが、その瞳の奥には、深い慎重さと記憶の影がちらついていた。
──無理をさせてはいけない。
その思いが、指先に、呼吸に、調理の手つきに染みついていた。
弾九郎の脳裏には、かつての地獄が蘇っていた。前世、羽柴秀吉の軍に身を置いていた時代。三木城、鳥取城、飢えと死の匂いが渦巻く籠城戦。降伏後に訪れた悲劇──飢えに苛まれた者たちが、ようやく口にできた食事に歓喜し、その直後、ひとり、またひとりと倒れていった光景が、今もまぶたに焼き付いて離れない。
あのとき足軽たちは、「縮んでいた胃袋が、急に膨らんで破れたらしい」などと噂していた。しかし、弾九郎は真実を知っていた。飢えた者に普通の食事を与えたことで急死する──そんな話を何度も耳にしていたのだ。現代であれば、リフィーディング症候群と呼ばれる代謝異常による死と診断されるだろう。命をつなぐはずの食事が、かえって命を奪うという皮肉な現実。
だが、それを防ぐ術はある。干し魚に含まれるリン、豆類の穏やかな栄養分──それらを少しずつ与え、慎重に代謝の回復を待つのだ。それは単なる知識ではない。過去の惨劇の中から掴み取った、痛みと後悔の結晶だった。
幸いだったのは、今回、飢餓状態が極限というほどではなかったこと。一番酷い者で絶食期間は十日間。生存の限界を越えるには至っていない。ラエナを含む五人は、まだ自力で立ち、視線にも確かな意志が宿っていた。彼女たちの眼差しは、恐怖と不安の底にかすかな希望を灯しており、弾九郎の中に僅かな安堵を芽生えさせた。
──今度は助けられる。
そう信じて、彼はスープの香りを少女たちのそばへ運んだ。
*
少女たちが静かにスープを飲み終え、人心地ついたころには、空はすっかり夜の帳に包まれていた。コンテナの天井から覗く小さな明かり取りの窓には、星がまばたくように瞬いている。空気は澄み渡り、昼の埃っぽさとは打って変わって、肌を撫でる夜風がどこか清められたような感触をもたらしていた。
ようやく取り戻したぬくもりの中で、少女たちは肩を寄せ合い、互いの体温を確かめるようにしていた。その中で、ラエナが小さく口を開いた。
「……あ、あの……弾九郎さん」
声は震えていたが、そこには確かな感情の重みがあった。闇の中から差し出された救いの手に、ようやく届いたという安堵。震えるまぶたの奥には、涙の残滓がかすかに光っている。
「どうした、ラエナ?」
弾九郎の返事は素っ気ないが、どこか優しさが滲む。
「ありがとうございます。何から何まで……」
「気にするな。礼を言うならラエラとラエルに言うんだな。あの二人の其方を思う心が、俺を動かしたのだ」
ラエナは小さく、しかし確かにうなずいた。胸の奥で熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、それでも涙はこぼさないように歯を食いしばる。
「……はい。はやく、二人に会いたいです」
「ああ、もうじき来る。みんな揃ったら、ちゃんと家まで送り届けてやるから安心しろ。行き先はグリクトモアでいいんだな?」
少女たちは、ぽつぽつと、しかし確かな声でうなずいた。声の出せる子は、震える息の中で口を開く。
「……ありがとう。ほんとに……助かった……」
「帰れるんだよね……? もう、大丈夫なんだよね……?」
その言葉に他の少女たちも次第に頷き、涙をこらえきれずに目元をぬぐった。言葉を失った少女は、かすかに震える手で胸元に触れ、弾九郎に向かって深く頭を下げる。
その仕草ひとつひとつが、何より雄弁に語っていた──命を繋がれたことへの、心からの感謝と安堵を。
「ラエナ、動ける者だけでいい。奥にシャワーがある。身体を洗ってこい。難しい者は身体を拭いてやってくれ。俺は外でラエラたちを待つ」
「はい……本当に、ありがとうございます」
ラエナの声に、仲間を思う静かな覚悟が宿っていた。
弾九郎がコンテナの外に出ると、夜風が静かに吹き抜けた。辺りは闇に包まれながらも、松明の光がいくつも揺れているのが遠くに見えた。焔の輪郭がゆらめきながら近づいてくる。その中央には、馴染み深い影たちがあった。
「おう、弾九郎! 街はエライ騒ぎになってるぜ。魔賤窟に殴り込みがあって、女たちが奪われたってよぉ」
ヴァロッタが笑い混じりに言うが、目には鋭さが宿っている。
「ダン君、ラエナさんたちを助けることが出来たのね!」
ミリアの声は、ほっと緩んだ安堵と、抑えきれない嬉しさで震えていた。
「ああ。皆コンテナで休んでいる」
そのとき、ギギ……と重い音を立ててコンテナの扉が開き、ラエナが姿を現した。
「ラエナ姉ちゃん!!」
小さな足音が闇を切り裂くように響き、ラエラとラエルが駆け出していく。ふたりは迷いもためらいもなく、姉の胸に飛び込んだ。
「ありがとう、ラエラ、ラエル……ごめんね、心配かけて。怖かったでしょ」
「ううん。弾九郎兄ちゃんが助けてくれるって言ったから、ボクは怖くなかったよ」
「弾九郎兄ちゃんってすっごく強いんだよ。ケンカしてるとこ、私、ラエルと見てたんだから!」
月明かりの下で抱き合う三人の姿は、夜の静寂の中でひときわ美しく、温かかった。ミリアがその光景に思わず目を潤ませたのも、無理はなかった。
「本当に……よかったね……」
だが、感動の余韻に浸る時間は、あまりにも短かった。
「弾九郎殿」
メシュードラの声が夜気を裂くように響いた。
「魔賤窟のヤクザ共が街の出入口をオウガで固めているようです。数は不明ですが、傭兵もいるようで、おそらく三十機はいるかと思われます」
弾九郎はフン、と鼻を鳴らした。感情の読めない無表情のまま、頭の中ではすでに戦場の地形が描かれている。
「俺が手でコンテナを曳く。早くは走れん。二人は道を作れ。囲んできたら皆殺しだ」
「はっ!」
「おうよ! 任せとけ!」
戦術と呼べるかは怪しい。だが、それが弾九郎たちのやり方だった。圧倒的な力と確信。必要なのは数ではない、質と意志、そして「覚悟」だ。
弾九郎はダンクルスに、メシュードラはザンジェラに、ヴァロッタはツイハークロフトに、それぞれ静かに乗り込む。その姿に、少女たちはただ黙って目を見開いていた。頼もしさと不安、そして新たな希望が入り混じったまま──。
星明かりの下、鋼鉄の巨体が地を震わせながら動き出す。コンテナを守るその足取りは、夜を割り、迫る戦火をも踏み越えていくように、重く、揺るぎなかった。
お読みくださり、ありがとうございました。
鳥取城の戦いの後に起きた集団死は、日本史に記録された中で最も古いリフィーディング症候群の事例とされています。
しかし、同じような現象は、さらに昔から繰り返されてきました。
弾九郎は、鳥取城の飢餓者たちを、古参の足軽たちが丁寧に看護している様子を見て、その方法を学びました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




