第48話 魔賤窟へ
「助けてくださいって……どうしたの?」
ミリアの声には、まだ戸惑いの色が残っていた。けれどその瞳は、今やしっかりと姉弟に向けられている。迷子の子供たちにかけるそれではなく、傷つきながらも懸命に何かを訴える者に向ける、まっすぐなまなざしだ。
「詳しい話は出来るか?」
弾九郎の言葉は静かだが、揺るぎがない。声の底に、深い重みと覚悟が滲んでいた。それを受け止めるように、姉のラエラはためらいがちに口を開いた。
「わたしたち……お隣のグリクトモアから来たんです……」
話すうち、ラエラの肩は少しずつ震えはじめた。けれど、途中で止まることはなかった。言葉にすることで、何かが救われるとでも思うかのように。
「お父さんとお母さんは……悪い人たちに殺されちゃって……わたしたち三人は隠れていたんです。でも……ラエナ姉ちゃんだけ見つかって……」
言葉が途切れ、ラエラは歯を食いしばった。目を伏せたまま、それでも話を続ける。
「悪い人たちは、ラエナ姉ちゃんを……グリシャーロットの『ませんくつ』に連れていくって……」
魔賤窟──その名を聞いた瞬間、弾九郎の目がわずかに細められた。先程チンピラ達が口にした場所。奴らはそこでミリアを売り飛ばすと吠えていた。それだけでもう、十分いかがわしい場所であることは察しがついた。実際、魔賤窟は表向きは娼館街。だが裏では、薬物、盗品の密売、拉致と売買、ありとあらゆる非道が通貨のように飛び交う地獄の市場だ。
「それで……ラエナ姉ちゃんを助けたくて、あいつらのコンテナに隠れて……」
ラエルがぽつりと続けた。声はか細く、けれどその小さな拳には悔しさがこもっていた。
弾九郎は静かに頷きながら聞いていたが、顔には次第に険しさが浮かぶ。眉間には深く皺が寄り、目は伏せられたまま、それでも確かに怒りを帯びていく。
「……姉上を助けることは出来なかったんだな」
「はい……ラエナ姉ちゃんたちは牢屋に閉じこめられていて……」
ラエラの声はか細く震え、まるで自分の無力さを責めているかのようだった。
捕えられた者を奴隷として扱う際に、よく使われる手口がある──牢に閉じこめ、水だけを与え、飢餓と恐怖で心を折る。
飢えた人間は、いずれ自ら服従を選ぶ。
ラエナが捕えられてから、すでに三日が経過しているという。おそらく、あと十日もすれば、口にする言葉も感情も削がれ、ただ命令に従うだけの「商品」に変えられてしまうだろう。
「牢の場所は……魔賤窟に行けばすぐわかるのか?」
「はい……場所はすぐにわかります……崖に掘られた牢屋で、外からも見えるから……」
「そうか……」
弾九郎は、しばらく黙った。短い沈黙。その間に、何かを確かめるように自分の中で思考が巡っていた。
「……ところで、なんで俺に声をかけたんだ?」
その問いに、ラエラは目を伏せたまま答える。
「……さっきお兄ちゃんが……悪い人たちをやっつけてるのを見て……それで……」
「おねがいですっ、ラエナ姉ちゃんを助けてください!」
ラエルが叫んだ。幼い身体を前のめりにし、小さな両手を弾九郎に差し出す。泥にまみれた手のひらには、つやを失った硬貨、丸い小石、片腕の取れたオウガの人形──どれも、子供にとっての「宝物」。大切なものを全部差し出すほど、彼の思いは切実だった。
「お願いです……お金は八十ギルしかないけど、足りない分は、私とラエルが働いて返します……だから……」
涙をこらえていたラエラの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。頬を伝い、テーブルの上に落ちる。光を浴びたその滴は、まるでガラス玉のようにきらめいていた。
やがて、弾九郎は無言でラエルの掌に手を伸ばし、丸い小石を一つ、摘み上げた。
「……これは丸くて、いい石だな」
彼はそう言って、小さく笑った。
「報酬としてこれをもらおう」
椅子を引く音が静かに響く。弾九郎は立ち上がり、胸元を軽く叩いた。戦士の仕草──決意の証だ。
「この来栖弾九郎が、しかと引き受けた。二人とも──姉上の帰りを、大人しく待っていろ」
その言葉に、ラエルとラエラの顔が上がった。まるで暗闇の中に一筋の光が射し込んだように、二人の表情がぱっと明るくなる。その笑顔は、痛々しいほどに純粋だった。辛い記憶の積み重ねの中で、ようやく得た「希望」という名の灯だった。
「あとは報酬に釣りを出さねばいかんな。ミリア、この二人を宿に連れて行き、風呂に入れ、飯をたらふく食わせるんだ。それと服も買おう。俺が戻るまで、ラエラとラエルを守ってやって欲しい」
「……わかった。この子たちのことは任せて。でも……ダン君、まさか『魔賤窟』に一人で?」
「いや、その手の場所に詳しそうな奴を連れて行く」
そう言って、弾九郎は背を向けた。その足取りは、迷いなく、まっすぐに──闇の中へと向かっていた。陽光に照らされたベランダの明るさが、まるで幻想だったかのように、彼の影はすっと地面に伸びていった。
*
「おい、ヴァロッタ。もう飲んでるのか?」
「いいや、まだエール一杯だけだ。こんなの、飲んだうちに入んねぇよ」
酒場の片隅にある丸太のテーブル。そこに片肘をついたヴァロッタは、ヒビの入ったジョッキを軽く掲げて笑った。がらんとした昼の店内には、酔客の喧騒もなく、埃っぽい静けさが漂っている。
彼はここ数日、こうして暇を持て余し、この店で昼間から飲んでいる。まるで、誰かを待っているかのように──。
「せっかくいい気分になったところ悪いんだが、『魔賤窟』に行きたいんだ。場所を知っているか?」
「はぁ!? そんなとこ行ってどうすんだよ。……嬢ちゃんにバレたら、マジで殺されちまうぞ」
一気に顔をしかめるヴァロッタ。だが、その口調には恐れだけでなく、わずかに興味もにじんでいた。
「大丈夫だ。ミリアも知っている。それに、遊びに行くわけじゃない」
「は? じゃあ何しに……」
その時、不意に開かれた扉が、乾いた軋み音を響かせた。
入り口に立っていたのは、長身の男──メシュードラだった。黒い外套には風の砂がうっすらと積もり、彼が急ぎ足でここまで来たことを物語っている。
「捕らわれた少女を救いに行くと聞きました。さすが弾九郎殿、義に厚い」
「……なんだ、よくここがわかったな、メシュードラ」
弾九郎が肩をすくめて言うと、メシュードラはわずかに微笑んだ。
「宿でミリアさんに伺いました。弾九郎殿なら、きっとヴァロッタを連れていくだろうと。──ただ、彼ひとりでは心許ないと思われたのでしょう。私に、同行を頼まれたのです」
「なんだとテメェ!」
ヴァロッタが立ち上がり、椅子が床を引きずるような音を立てる。
だが、弾九郎の低い声がすぐに空気を押しつぶした。
「やめろ、ヴァロッタ。仲間割れしている場合か」
その一言に、ヴァロッタはしぶしぶ座り直した。
冗談のような言い合いも、いざという時には無意味になる──弾九郎の拳が飛んでくる前に、彼はよく知っている。痛みも、恐ろしさも。
「……まあいい。では行くぞ」
空気が一変した。
それは遊びや気まぐれではない。人の尊厳が踏みにじられる場所へ、今まさに踏み込もうとしているのだ。
三人の視線が交差し、どれもが黙して語る決意を宿していた。
こうして彼らは、この旅が始まって以来、初めての本格的な戦いへと、静かに足を踏み出した。
お読みくださり、ありがとうございました。
姉弟はグリクトモア城都市の城壁内で暮らしていましたが、ある日、複数のオウガによって城壁が破られ、街は襲撃を受けました。
家を荒らす野盗から妹と弟を守るため、ラエナは自ら囮となり、捕らわれる道を選んだのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




