第46話 戦場の誘い
石畳の通りには、露店の布が風にはためき、潮の香りに混ざって焼き菓子や香辛料の匂いが流れていた。まだ午前中だというのに、街の繁華街はすでに活気づき、商人たちの呼び声や、客引きの喧騒が響いていた。
その一角、人通りのやや少ない道端で、二人の男が立ち止まっていた。一人は胡散臭い紳士風のムース。そしてもう一人──黒い外套の男、メシュードラは、背筋を伸ばし、冷えた瞳でムースを見据えていた。
「まあまあ、そう邪険になさらずに」
ムースは両手を広げるような仕草で、通行人に聞こえぬよう声を低めて話しかける。その唇には愛想笑い、だが目は油断なく相手を値踏みしている。
「アヴ・ドベックの一件は聞きましたよ。まさか、あの忠誠厚きメシュードラ様が国を捨てられるとは──キルダホの者は王の死よりもそちらに驚いたようで、中にはよからぬ噂をささやく者もいましてね」
喧騒の中にいても、メシュードラはその言葉を聞き逃さなかった。通りすがりの行商の声が耳をかすめる中、彼の眉がわずかに動いた。
「よからぬ噂?」
その声音には鋼のような冷たさがあった。かつて忠誠を誓い、そして自らの意思で去った国。たった十日しか経っていないというのに、もはやその名のもとに自分の悪評が語られているのか──心に微かな苛立ちが灯る。
「いえね、グンダ王が亡くなられたのは、実はメシュードラ様がお手をかけたと……そんな物騒な話が一部で囁かれているんですよ」
「そうか。くだらぬ戯れ言だ」
メシュードラは吐き捨てるように言い、わずかに首を振った。だが、その手は知らず剣の柄に触れていた。ムースの目がそこに動きを捉え、わずかに喉を鳴らす。
「もちろん私は信じておりません。ただ、アヴ・ドベックの宰相が、貴方を捜索するよう命じるのではという噂も……」
「そうか……では、その口が余計なことをさえずる前に、首を落としておくか」
メシュードラの言葉は低く、しかし鋭かった。通りの騒がしさに紛れて、しかし聞いた者は皆、空気が一瞬だけ凍りついたように感じただろう。ムースは慌てて手を振り、大袈裟に笑って見せた。
「お待ちください、メシュードラ様! 私は貴方様の敵ではありません、むしろ……お力になりたいと思っているのですよ」
「貴様の助けなぞ必要ない。どうせまた、ろくでもないことを企んでいるのだろう」
「まあ、そうおっしゃらずに。話というのは、クルーデ様のことです」
その名が口にされた瞬間、メシュードラの目が僅かに細くなる。ハマル・リス大陸だけでなく、世界各地の戦場で名を轟かせた伝説の傭兵──その名が、この賑やかな港町の喧騒の中で出てくること自体、胡散臭さの極みだった。
「クルーデ様は今、とある王国の依頼である城を落とすため、兵を集めているのです。なんと、私のような者にまで声がかかったほどでして」
「それが私に、どんな関係があるというのだ」
「メシュードラ様も浪人となられた今、クルーデ様の旗下に加わるのはいかがかと。これほどの後ろ盾を得れば、アヴ・ドベックのような小国など、口も出せません。どうです? お得な話でしょう?」
メシュードラの目がすっと鋭くなった。街の騒がしさが嘘のように遠のいていく。
「クルーデはどこを攻めようとしている?」
「それは……申し上げられません。旗下に加わると仰るなら、話は別ですが」
「興味はないな」
「そんな~。メシュードラ様は大陸十三剣のお一人、クルーデ様もきっと貴方様を重用なさいますよ」
「私にはすでに、忠誠を誓った方がいる。クルーデなぞの下にはつけぬ」
「クルーデ様の旗下には、同じく大陸十三剣のお二方が参加しております。二人とも一軍を任され──」
「お前と話すことは、もう無い。これ以上口を開くなら……本当に首を落とすぞ」
メシュードラの手が、ゆっくりと剣の柄にかかる。そのわずかな動きに、ムースは背筋を凍らせた。
「し、失礼!」
最後まで言い切ることなく、ムースはきびすを返し、人混みに紛れて逃げ去っていった。朝の陽光の下、人々の声が再び流れ込む中、メシュードラはその背を無言で見送り、静かに息を吐いた。
陽はすでに街の屋根を越え、白い石畳を眩しく照らしていた。朝の喧噪が最高潮に達する中、物売りの声や馬車の車輪が軋む音が通りを賑やかに埋め尽くす。けれどそんな騒々しい日常の喧騒の背後に、静かに脈打つ「戦」の匂いを、メシュードラは嗅ぎ取っていた。
──大陸十三剣。
その言葉は、まるで呪いのように胸の奥底にこびりついていた。
それはどこかの王が与える勲章ではない。学術機関が査定する名誉称号でもない。むしろ正規の認定とは対極にある。混沌と欲望が渦巻く戦場、その中で目覚ましい戦果を上げた者たちに、いつからか貼られるようになった「肩書き」──ただの新聞が作り出した、民衆と傭兵のための英雄譚。
この世界の新聞は、毎日配られるような代物ではない。週に一度、十日に一度、時には月をまたいでようやく届くことすらある。だが、限られたその一部に載る「勝敗」や「被害」、そして「戦士の名」は、戦地から遠く離れた者たちにとっては唯一の現実であり、指針となる。
その紙面に、まるで競馬の騎手や闘技場の猛者のようにランク付けされた戦士たちがいる。その筆頭たる十三名──それが大陸十三剣だ。
名を連ねれば一流の証。民衆の耳目を集め、報酬は跳ね上がる。兵士たちは畏敬を込めてその名をささやき、指揮官たちは彼らを味方につけようと血眼になる。だが、同時にそれは「剣の怪物」としての証でもあった。
ほとんどの大陸十三剣は傭兵であり、己の腕一本で地位を得た者たちだ。メシュードラのように王に忠誠を誓い、正規軍に身を置きながらその称号を得た者は極めて稀だった。彼にとってそれは誉れというよりも、むしろ「枷」に近かった。自由に振るうことを良しとされる剣の称号を、忠義と誇りに縛られた己が背負っているという矛盾。
──剣は、誰のために振るうべきか。
それを考えたとき、彼の中には常に「王」がいた。しかし、今やその王はこの世にいない。そして……巷には、自分がその王を手にかけたという噂すら流れている。
そんな中で耳にした、クルーデの名。さらに、その配下に大陸十三剣が二人も従っているという事実──。
彼らは決して守るための剣ではない。欲と力を武器に、敵味方の区別なく斬り伏せることを当然とするような連中だ。暴威を振るい、街を焼き、名を轟かせるためだけに剣を抜く。剣技の冴えを鼻にかけ、命の価値を勘定にすら入れない。庶民が彼らを恐れ、忌むのも無理はなかった。
──クルーデの下には、そんな獣が二頭もいる。
その軍がどれほどの暴力と破壊を孕んでいるかなど、想像するまでもない。
メシュードラは小さく鼻を鳴らした。風が通り、どこか遠くで屋台の器が倒れる音がした。彼の手は自然と剣の柄に触れていた。触れるたびに思い出す。己が剣は、何のために、誰のために抜くべきか。
──それだけは、まだ、忘れてはならない。
お読みくださり、ありがとうございました。
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次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




