第44話 乱闘の夜
ヴァロッタの背には古びた木のカウンター。左手には半分飲みかけのエールジョッキ。だが、彼の視線は一寸たりとも逸れなかった。獣のように吠えるヤクザたちが、椅子を蹴飛ばし、刃物をちらつかせながら一斉に距離を詰めてくる。
最初に動いたのは、細身の男だった。ギラついた目を爛々と光らせ、刃物を抜いてヴァロッタへと飛びかかる。その勢いは確かに速かった。だが──。
「遅ぇな」
乾いた声とともに、ヴァロッタの体がひらりと旋回する。グラスを持ったままの左手で男の手首をはたき、右肘で鳩尾を一突き。ごふっと音を漏らして男が崩れ落ちるのと、彼の酒が空中で弧を描くのは、ほとんど同時だった。
「ったく、せっかくのエールが……」
嘆息しつつも、もう一人の男が背後から椅子を振り下ろすのを、ヴァロッタは身を沈めてかわす。そのまま床に転がった椅子の脚を蹴り上げて男の膝に叩き込み、派手な悲鳴とともにもう一人が崩れた。
酒場中が阿鼻叫喚と化す中、客たちは蜘蛛の子を散らすように身を引き、テーブルの下に隠れ、バーテンダーですらカウンターの奥へと身を隠した。だが、その混沌の中心で、二つの影だけがひたすら静かに、正確に、無駄なく動いていた。
ヴァロッタが三人目の襲撃者をカウンターに叩きつけた瞬間、視界の端で閃光のような動きがあった。
彼女──名も知らぬ青髪の女が、立ち上がる気配すら見せずに男の顔面を掌底で吹き飛ばしたのだ。たった一撃。それだけで巨漢の男が後ろのテーブルをなぎ倒し、ガラスを割って突っ込む。
「……マジかよ」
思わず息を漏らすヴァロッタの視線の先で、彼女は髪を一振りし、まるで戦場で舞う蝶のように身を翻す。その手には、どこから取り出したのか短剣が一対。しかもそれを使うまでもなく、膝蹴り、肘打ち、背負い投げと、身体ひとつで荒くれ者たちを薙ぎ払っていく。
それはもう、圧倒的だった。
どこか無慈悲で、機械じみてすらいる。だがその無表情の中には、微かに──ほんの微かに、楽しんでいるような気配さえ漂っていた。
(おいおい……こっちは精一杯なのに、何だその余裕は)
ヴァロッタは唇の端をわずかに吊り上げた。
オウガの適性には、男も女も関係ない。ゆえに、この世界には女性のオウガ乗りも多く存在し、傭兵としてその腕を振るう者も珍しくはなかった。ヴァロッタも仕事柄、そうした女傭兵を何人も見てきた。どの女も、下手な男より気が荒く、腕っ節も強い。だが──今、目の前で舞うように戦う彼女は、それらとは次元が違った。
踏み込み、躱し、斬り払う。その一連の動きはまるで訓練された舞踏のようで、無駄が一切ない。鋼のしなやかさと、氷の冷たさを併せ持った動き。感情を殺したその横顔には、一切の動揺も迷いもなく、ただ静かな殺意だけが宿っていた。
ヴァロッタは、気がつけば彼女の一挙手一投足から目を離せなくなっていた。しかし、まだケンカは終わっていない。
「ま、こっちも負けてらんねぇな」
気合いを入れ直し、ヴァロッタもまた拳を固めた。
やがて、店内に転がるのは荒くれ者たちのうめき声と、割れた家具の残骸だけになっていた。息も絶え絶えで床に這いつくばる男たち。そこに、まだ力を込めようとする者は、もう一人もいなかった。
「……ふぅ」
ヴァロッタはカウンターにもたれかかるようにして、ゼエゼエと息をつく。髪は乱れ、シャツの襟元には破れた跡も見える。拳には血がにじみ、肩には何かしらの打撲の痛みがずしりと残っていた。
それでも、笑っていた。満足げな、充実の笑みだ。
その隣に、彼女が何事もなかったかのような顔で腰を下ろす。髪の一房を耳にかけ、淡々とグラスを持ち上げる。
「や……やるじゃねぇか、アンタ」
ようやく落ち着いた呼吸の中で、ヴァロッタは彼女を横目に見ながら言った。
彼女は一瞬だけ、こちらに目を向けた。
その瞳は、確かに笑っていた。
けれど、口元は微動だにしない。ただ一言、ぽつりと漏らす。
「マスター、おかわり」
バーテンダーが、無言で頷く。どこか呆れたような、感服したような目つきで。
ヴァロッタは、ぐしゃぐしゃになった自分のシャツを見下ろしながら、ふっと苦笑する。
「なあ、そいつは俺に驕らせてくれ。もうアンタを口説こうなんて気は失せたからさ。おっかなくってしょうがねぇ」
ヴァロッタは乾いた笑みを浮かべた。もはや相手を女性として見る余裕すらない。眼前の存在は、ただ一人の戦士──それも、自分が知る中でも指折りの強者だった。
「そうか。お前をぶちのめす手間が省けて助かるよ」
彼女はグラスをカウンターに戻しながら、涼しげに言い放つ。その瞳は一切の甘さを含まない。まるで鋼のような意志が宿っていた。
「言うねぇ……」
ヴァロッタは肩をすくめた。敗北感と、どこか晴れやかな感情が同居している。不思議なことに悔しさはなかった。ただ、純粋に──「すげぇな」と思った。それだけだった。
「俺はヴァロッタ・ボーグって言うんだ。アンタ、せめて名前くらい教えてくれよ」
「私はツェット」
名乗った瞬間、空気がわずかに引き締まったように感じた。名とその持ち主が完全に一致する瞬間──その名には、確かな重みがあった。
「へぇ~、良い名前だ。……でもあれ? どっかで聞いたことがあるような無いような……」
「気のせいだろ。どこにでもある名前だ」
ツェットはそれ以上何も語らなかった。ヴァロッタももう詮索はしない。たった今目撃した、戦士としての技量が彼女の全てを物語っていたからだ。
「そうか? ま、いいや。で、アンタほどの腕利きが、なんだってこんな田舎町にいるんだ?」
「ちょっと人捜しでな。貴様には関係ないことだ」
「つれないこと言うなよ~」
軽口を叩きながらも、ヴァロッタの中には徐々にある種の感情が芽生え始めていた。それは恋ではない。畏れと敬意が入り混じった、純然たる戦士への敬服だった。彼女が一言一言を発するたび、彼の中のその感情は静かに、しかし確かに積み重なっていく。
「私はもう行く。じゃあな」
ツェットは立ち上がると、懐から金貨を一枚取り出し、無造作にカウンターに置いた。その金貨は、場に残された熱を冷やすように硬質な音を立てた。
「お客さん! これ、十ギラの金貨なんてお釣り出せないよ!」
十ギラ金貨は現代の貨幣価値では百万円に相当する。大商人がガントとの取引に使う特殊な貨幣だ。飲食店の支払に出すような金貨ではない。
驚く店主の声に、ツェットは振り返ることなく親指をヴァロッタに向ける。
「いいんだ。店の修繕と……コイツの飲み代にでも充ててくれ」
「待てよツェット! 俺は驕ってもらう義理はないぜ!」
思わず立ち上がったヴァロッタに対して、ツェットは静かに言い返す。
「気にするな。コイツらを相手にしたご褒美だ」
床に転がる連中を顎で示し、そのまま店の外へと向かう。扉が開き、夜風が吹き込む。ツェットの背中は、どこまでも揺るぎなく、そして孤高だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
オウガ適性は男女に差がないため、本来であれば女性のオウガ乗りも全体の半数を占めるはずです。
ところが実際には、女性の割合は四割にも届いていません。
特に戦闘用オウガに乗る女性はさらに少なく、全体の三割に満たない程度にとどまっています。
これは、そもそも応募する人の数に男女差があるためで、どうやら女性の中にはオウガに乗ることに積極的でない人が多いようです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




