第43話 青い髪の女
潮の香りを孕んだ風が頬を撫でる。海沿いの道を、一人の男が黙々と歩いていた。夜の街の灯が波間に揺れ、まるで宝石のように海面を飾っている。だがその幻想的な光景も、男の心には何の感慨も呼び起こさなかった。彼にとってそれは、ただの光と闇の戯れにすぎない。
足を止めたのは、小さな酒場の前だった。そこへ吸い込まれるかのように、男は店の扉を押し開けた。入り口に吊るされた鈴がかすかに鳴り、酒と煙草と湿気が入り混じった空気が彼を包み込む。どこにでもある、ありふれた酒場だった。カウンターの中では無表情なバーテンダーがグラスを磨き、奥のテーブルでは荒くれ者たちが笑い声と怒声を交わしている。ざらついた現実の匂いが、そこにはあった。
だが──そこに、ひとつだけ異質な存在があった。
女が一人、カウンターに腰掛けていた。地味な色合いの防具に身を包み、肩まで届く青い髪は波のように柔らかく揺れている。旅人にしては華がありすぎるが、華やかさに溺れることはない。愁いを帯びた瞳はどこか遠くを見つめており、誰にも心を許していないのが一目でわかった。だが、口元は引き締まり、静かな緊張感をその身に纏っている。まるで、鋼を内に秘めた花のようだった。
その場にいる誰もが、彼女の只者ではないことを感じ取っていた。しかし、誰一人として声をかけようとはしない。彼女の周囲だけ、まるで空気が違っていた。
男──ヴァロッタは、一瞬だけその静謐に飲まれそうになる。だが次の瞬間には、いつもの軽薄な笑みを口元に浮かべ、彼女の隣へと腰を下ろした。
「どうしたんだ、一人で飲んで? いい男を待ってたって言うなら、遅くなって悪かったな。たった今到着だ」
自信満々、ニヤけた笑みを浮かべながら、彼はあっさりと隣に腰を下ろす。まるで、ここが自分の指定席ででもあるかのように。女の無言の圧にも気づいていないのか、それとも気づいた上で無視しているのか──おそらく、前者だった。
「マスター、彼女と同じものを。あと、エールも」
ヴァロッタは気取った仕草で指を鳴らす。バーテンダーが無言で差し出したグラスには、無色透明な液体が注がれていた。匂いだけで喉が焼けそうなスピリッツ──冗談抜きで、同じ口を使うなら傷口に注いだほうがまだマシかもしれない代物だ。
彼女の手元のグラスをちらりと見て、ヴァロッタは少しだけ眉を上げる。「やるじゃねぇか」と感心したような笑みを浮かべるが、それもすぐに馴れ馴れしい口調へと戻る。
「飲みたいんなら離れてくれ。私は一人がいいんだ」
その一言で、空気がわずかに冷える。だが、彼はまったく気にしていない。いや、気づいてすらいない。
初めて聞く彼女の声は、装いの武骨さとは裏腹に透き通っていて、思わず耳をそばだてたくなるほど美しかった。だがその声に込められた冷たさは、明確な拒絶の意思を孕んでいる。普通の男なら、そこで引くところだろう。
だが、ヴァロッタは普通じゃない。
「つれないこと言うなよ。アンタ旅人だろ? 俺もそうさ。こんな場末の酒場で、偶然にも隣に座ったんだ。運命かもしれないぜ。せっかくだから、楽しまなきゃ損だろ?」
軽薄な笑みを浮かべたまま、ヴァロッタはカウンターに手をついて彼女へと身を乗り出す。その瞬間──。
ドンッ!
鈍い衝撃音が空気を裂いた。カウンターに目をやると、そこにはナイフが突き刺さっている。銀色の刃が、ヴァロッタの指先のすぐ隣で震えていた。反射的に手を引いた彼は、ほんの数秒後に事の重大さに気づいた。
もし一瞬でも遅れていたら、指が一本、カウンターに置き土産をしていたかもしれない。
「──っぶねぇ! 怪我したらどうする気だよ!」
心の底から驚いてはいるが、怒っているわけではない。どこか興奮すら滲ませた声でそう言うと、彼女は静かにグラスを揺らしながら応えた。
「指の間を狙ったから大丈夫だ」
なんてことをさらりと……。ヴァロッタは眉をひそめたまま、彼女の横顔を見た。この女、明らかにヤバい──理屈じゃなく、本能がそう告げている。
だが、それと同時に、心のどこかが妙にうずいた。こういう危うい女には、得てして強烈に惹かれる。普通の女じゃ、もう物足りないのかもしれない。
「……イカれてやがる」
思わず漏れたその言葉は、半ば感嘆、半ば興奮。
と、その時。
酒場の扉が勢いよく開かれた。ガラガラと乾いた音が響き、入り口から数人の男たちがなだれ込んでくる。黒ずくめの服、肩で風を切るような歩き方、ギラついた目つき──誰が見ても一発でわかる、筋者の匂い。
空気が、ピンと張り詰めた。
「おう親父! 酒持ってこい! いつものだ!」
最初に叫んだのは、体格のいいスキンヘッドの男だった。声も態度もデカい。場を制圧する気満々で、扉から流れ込んできた連中も、それに続くように空いた席へとぞろぞろ腰を下ろしていく。
空気が一気に変わった。もともと柄の悪い店ではあるが、それでもこの連中の登場は、常連客たちにとっても歓迎されるものではなかった。グラスを持つ手が止まり、視線が伏せられ、話し声がすっと消えていく。店の空気が、水を打ったように静まり返る。
その中で、一人の男がにやにやとしながらカウンター席に腰を下ろした。
「よう姉ちゃん、こんな所で飲んでないでよ、俺たちと楽しくやろうぜぇ?」
濁った目で彼女を舐めるように見て、酔いと欲望にまみれた笑みを浮かべたまま、ぐいっと彼女の腕を掴む。
その瞬間だった。
「がっ!!」
乾いた音と共に、男の体が宙を舞う。
次の瞬間には、床に仰向けに倒れ、顔を押さえてのたうっていた。砕けた鼻からは、見るも無惨な量の血が溢れ出し、まるで噴水のように床を赤く染めている。
酒場全体が凍りつく。誰もが何が起きたのか一瞬理解できず、次に目をやった時には、彼女が静かにグラスを置き、何事もなかったように一口酒を含んでいた。
その佇まいが、逆に恐ろしい。
(……俺もケンカっ早い方だけど、この女デタラメだな)
ヴァロッタは呑気に腕を組みながら、その光景をまるで劇場の観客のような顔で見つめていた。眉ひとつ動かさず、ただただ「面白れぇ……」という感情だけが湧き上がっている。
周囲が一歩引いたその空気の中で、ヴァロッタだけが、楽しそうに片眉を上げる。
「おいおい、鼻が曲がったままじゃ女にもモテねぇぞ? ちゃんと医者に行けよな?」
転がった男に向かって、笑いながら茶化す。火に油を注ぐようなその態度に、周囲の緊張がさらに増す。
案の定、他の男たちの何人かが椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「おいテメェ、今なんつった?」
ギラついた目がヴァロッタに向けられる。ついでに、視線は彼女にも移り──空気が、ぴんと張り詰めた。
次の瞬間、店内にまた修羅場が訪れようとしていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
この世界には、エールやスピリッツといった、私たちの世界でも親しまれている酒が数多く存在します。
その多くは、数千年の間に異世界から転生してきた人々がもたらしました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




