第42話 潮風の郷愁
グリシャーロット──それは地図の南東にある、アイハルツ地方の果て、ハマル海に向かって細く突き出たシャーロット半島を含む一帯の名である。
この地に足を踏み入れた旅人はまず、空と海が溶け合うような光景に目を奪われることだろう。北側の海は、まるで息をひそめるように静まり返り、港湾には陽光を反射する波が穏やかに揺れている。まるで時が止まったかのような、優しい世界。
だが半島を南へ下れば、そこにはまったく異なる顔の海が牙を剥く。二つの海流がぶつかり合い、風がうねりを引き起こし、灰青の波が岩礁に激しく砕け散る。その轟音は、心の奥底に眠る不安を呼び覚ますようでもあった。自然の猛りに晒されながら、人はあまりに小さく、脆い存在だと気づかされる。
このように海が異なる性質を帯びているせいか、周辺の漁場にはさまざまな魚が集まり、世界でも有数の漁獲量を誇るのだという。
それを聞いたとき、ある者は夢を見、ある者は欲に目を光らせ、ある者はただ静かに、海の神秘に心を打たれた。豊かさは時に祝福であり、また試練でもある。この海と共に生きる者たちは、いつしかそのことを肌で知っていた。
この世界には、未だ冷蔵技術というものが発達していない。ゆえに、港に水揚げされた魚の多くは、すぐに塩をまぶされ、天日で干される。その風景は、この地の日常の一幕だ。潮風にさらされる魚たちの列は、どこか物言わぬ供物のようにも見え、通りすがる者の胸に奇妙な静けさを残す。
それでもなお、魚は貴い──そう考える者は少なくない。特に、海から遠く離れた内陸の都市に暮らす富裕層にとって、それは季節を運ぶ贅沢な訪問者である。
彼らは黄金色の硬貨を惜しげもなく支払い、特製のコンテナに海水を張らせ、その中に生きた魚を満載して運ばせる。何機ものオウガが曳く重々しい荷車の列は、まるで儀式の行列のようであり、通るたびに人々の目を惹きつけた。
*
「いや、こんな美味い魚を食べるのは久しぶりだ!」
弾九郎が箸を片手に声を上げたとき、彼の目は心なしか潤んでいるようにすら見えた。その顔には、戦場でも見せないような、無防備な幸福がにじんでいた。滲み出す湯気と香ばしさ、ほんのり温かな酢飯と、ねっとりとした脂の乗った切り身。それらが一体となって口の中に広がるたび、彼の心の奥にある郷愁が揺さぶられていく。
「私も、こんなに美味しいお魚食べるの初めて!」
ミリアの声には、無垢な驚きが溶け込んでいた。目を輝かせ、小さな手で箸をつまむその姿は、まるで宝物でも扱うかのようだった。初めて触れる味の世界に、彼女の心はわずかに震え、そして素直に喜びを受け入れている。口元には、食べるという行為を超えた、「体験」への感動がにじんでいた。
「んー、俺ぁちっとこの臭いがなぁ……」
ヴァロッタは渋面をつくりながら、刺身を手でつまんで持ち上げる。鼻先に近づけては顔をしかめ、やがてため息まじりに皿へ戻した。その仕草は、どこか滑稽で、子供じみた偏屈さがある。だがその奥には、未知への警戒心と、過去の記憶に結びついた匂いへの拒否反応が混ざっているのかもしれない。彼にとってこの料理は、美食ではなく、まだ乗り越えられぬ壁のように感じていた。
「下品な男は舌も下品ということだな。これほどの美食が楽しめんとは」
メシュードラが鼻で笑いながら言い放つ。その言葉には、貴族的な誇りと、どこか嫉妬めいた刺が含まれていた。彼もまた、心から料理を楽しんでいるのだ。ただそれを素直に表に出すのが、あまりに不器用なだけで。
「なんだとテメェ! 表出やがれ!」
ヴァロッタの怒号が飛び、空気が一瞬張り詰める。だが、誰も本気で心配はしない。これが彼らの日常であり、呼吸のような小競り合いなのだ。数日を共に過ごす中で、互いの性分が見えてきた。ぶつかりながらも、なぜか決定的な破綻には至らない。それが彼らなりの距離の取り方なのだろう。
そして、そんな空気の中にあって、弾九郎はまったく意に介さない。
「しかし、この世界にも醤油があるとは思わなかったな……」
彼はしみじみと呟き、目の前の小皿に視線を落とした。深い焦げ茶の液体は、光を受けてかすかに揺れている。その香りだけで、遠い過去の記憶が蘇る。
醤油だけではなかった。酢、みりん、だし……あらゆる調味料がこの世界に存在していた。そして、「ヅケ」や「炙り」といった繊細な技法すらも。さらには弾九郎の時代にはまだ存在していなかった「にぎり寿司」すら、見慣れた姿で皿に並んでいる。まるで、故郷の文化が時空を越えてここに息づいているかのようだ。
いったい誰が、この技術をもたらしたのか。きっと、異界から来た誰かがこの地に根を下ろし、長い時間をかけて育ててきたのだろう。調味料ひとつ、包丁の動きひとつに、その人の静かな情熱が宿っている気がして、弾九郎は胸の奥が熱くなるのを感じた。
今、彼の目の前にあるのは単なる食事ではない。これは、見知らぬ誰かが残した「生きた証」なのだ。
「俺ぁもう魚はいいかな~。ちっと一人で飲みに行ってくらぁ」
そう言い放つと、ヴァロッタは椅子の背もたれに掛けた外套を無造作に引っ掴み、ひらりと肩に羽織って立ち上がった。食事の残り香が漂う空間に、酒場の喧騒を先取りしたような気怠い足音を残して、彼はさっさと店を後にする。
数日間の旅路を経て、やっとたどり着いた街の灯。石畳に映る街灯のゆらめきは、旅の疲れを優しく包むにはあまりに喧しく、またあまりに懐かしい。だがヴァロッタにとって、それはむしろ心地よい騒がしさだった。美食よりも、気の置けない酒と、店主の無愛想な顔、そして気まぐれに耳に飛び込んでくる酒場の笑い声の方が、ずっと自分を「生きてる」と実感させてくれる──そんな男だった。
「行っちゃった……」
ぽつりと呟いたミリアの声は、空席となった椅子の背に吸い込まれていく。残された湯気と、食べかけの皿が、そこにいた男の不在を妙に際立たせていた。
「ほっとけ、ミリア。アイツは子供じゃ無いんだ。好きにさせればいい」
弾九郎は箸を進めながら、まるでそれが当たり前だと言わんばかりに答える。まぶたを少しだけ垂らし、食事の余韻に浸るその表情は、気にかけていない風を装いながらも、どこか達観めいた温かさを感じさせた。
「そうですよミリアさん。元々あの男にこの料理は上等すぎたんです」
メシュードラはグラスを傾けつつ皮肉を口にする。だがその声色は、いつものような棘のある嘲笑というよりは、どこか軽い冗談のようにも聞こえた。
二人とも、ヴァロッタのことをまるで心配していない。いや、心配していないふうに見せるのが、彼らなりの「距離」の取り方なのかもしれない。旅という共同体の中で、それぞれの孤独と折り合いをつけながら、それでも必要なときには寄り添う。そうした関係性に、ミリアはまだ慣れていなかった。
女の子として育ってきた彼女にとって、人と人の絆は、もっと温かく、もっと絡み合っているものだと信じていた。優しい言葉、心配のまなざし、手を差し伸べるしぐさ──そうした「湿度」のあるつながりが、当たり前だと思っていたのだ。
だからこそ、この男たちのやりとりは新鮮だった。ぶっきらぼうで、ぞんざいで、けれどどこか信頼が根底にある。近づきすぎず、離れすぎず、必要なときだけそっと背中を預け合うような関係。
ミリアはちらりと扉の向こうを見やった。そこにはもう、ヴァロッタの背中すら見えなかったけれど、彼のことを本当に「行っちゃった」と感じているのは、自分だけかもしれない──そんな気がした。
お読みくださり、ありがとうございました。
四百年前にコーラリウム家で世話を受けた日本出身の異界人の名は、白戸正吉。
彼は寿司職人として生涯を送り、平成二十年に八十四歳でこの世を去ります。
転生後はグリシャーロットに暮らし、この地に和食文化を広めました。
弾九郎は、思いがけず同郷の異界人との邂逅を果たしたのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




