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異界戦国ダンクルス  作者: 蒼了一
グリシャーロット編

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第41話 砕けた鎺

「弾ちゃん、ちょっと助けてよ」


 午後の陽が庭先を斜めに射し、柳生屋敷の白壁を金色に染めていた。風は微かに青臭く、初夏の匂いを含んで流れる。その風を受け、女中のお藤が不安げに振り返る。額には汗、手には箒の名残、けれど視線は一箇所に釘付けだ。


 呼ばれてやって来た弾九郎が軒先に目をやると、そこには巨大なスズメバチの巣がぶら下がっていた。木の梁の陰に巧みに隠れており、気づかず近づけば一巻の終わりという代物だ。


「枝の陰に隠れていて見つけにくかったんだけどね、最近やたらとハチが多いってみんな言うんだよ。だから探してみたらこんな所に……」


 巣に貼りつく蜂は、黒と黄色のしま模様が毒々しく、体躯も異様に大きい。見るからにオオスズメバチ、それも、巣の成熟具合からして、もう群れの攻撃性が極限に達する時期だった。


 お藤の声音には恐れが混じっていたが、弾九郎は一瞥しただけで、目を細めると口の端をわずかに吊り上げた。警戒も怯えも、まるで見られない。ただ、その表情の奥底には、鋭利な静謐さと、測りがたい闘志のようなものがちらりと覗いていた。


「あの巣が入りそうな袋……そう言えば(へっつい)の脇にカマス(藁袋)が積んでありましたよね、あれを一つ持ってきてください」


 袋を受け取り、「しばらくこの辺に誰も来ないようにしてくださいね」とごく自然な調子でそう言い残すと、弾九郎は軽々と縁台に上がり、袋の口を広げ、木刀を手に取った。無駄な力みは一切ない。気合も構えもなく、ただ一歩の跳躍──そして一閃。


 巣は根元から砕け、まるで吸い込まれるようにカマスの中へ落ちた。弾九郎はそのまま袋を一回転させ、口を手早く閉じる。全てが流れるような動作、まるで修練された舞のようだった。


 だが、問題はその後だった。巣を奪われた数十匹の蜂が、空を震わせて襲い来る。唸るような羽音に空気が揺れ、女中たちは思わず後ずさる。しかし──弾九郎は一歩も引かない。むしろ、その目にはわずかに愉悦が宿っていた。


 木刀が舞い、蜂を打ち落とす。すべて正確に、無駄なく。殺気に満ちた蜂の動きすら見切り、一刺しも許さない。その動作はもはや人の業ではなかった。


 やがて蜂の群れはすべて地に落ち、辺りは静けさを取り戻した。弾九郎は何事もなかったかのように一礼する。女中たちは歓声を上げ、笑顔で取り囲む。だが──その喧騒の外に、ひとり立ち尽くす男がいた。


 柳生石舟斎。まだ四十九、齢としては壮年、剣客としてはまさに爛熟期である。眼差しは鋭く、日々の修練と戦いで研ぎ澄まされた剣士の相がそこにあった。


 しかし今、その眼が細く、険しく、弾九郎を見つめていた。


(……あれは…………鬼の子か?)


 石舟斎は心中で舌打ちした。あの動き、あの精度、あの胆力。ただの腕利きではない。殺気をも弾き返す、生き抜いてきた者の動き。並みの剣士では太刀打ちすらできまい。父が塚原卜伝という話は今まで半信半疑であったが、この瞬間に確信した。弾九郎は紛れもなく剣聖の血を引いている。そして──その腕はもはや父親を越えているかも知れない。


 驚愕はやがて恐怖へと姿を変え、さらにそれは、自分自身への怒りへと昇華していった。なぜ見抜けなかったのか。将来、弾九郎が柳生の名を背負う器であるとは確信していた。しかし、ここまでの高みに到達していようとは、思いもよらなかった。それを見抜けなかった自分の浅慮が、悔やまれてならない。


 笑いさざめく女中たちの声が、石舟斎には遠く聞こえた。まるで別の時の流れの中にいるような、深い静けさが彼を包んでいた。


「弾九郎、道場に来い!」


 声が空を裂いた。

 夕陽が西の山の端に沈みかけ、庭に長い影を落とす。石舟斎の声に、弾九郎は巣の入ったカマスをそっと地に置いた。


「はい、先生」


 道場にはすでに誰もいない。午後の稽古を終えた弟子たちは母屋へ戻り、さきほどまで賑やかだった竹刀の音も、今はただの残響にすぎない。沈黙が支配する広い床の上に、残されたのは二人の男のみ。


 石舟斎がゆっくりと振り返る。眼光は静かに、だが確かに熱を帯びていた。


「弾九郎。儂と立ち合え」

「えっ!? どうしたんですか、いきなり?」


 弾九郎の問いに、石舟斎は一言も返さず、刀を引き抜いた。

 その金属音が静寂を裂く。反射した陽光が、刀身に赤く滲むような輝きを宿す。


「先生! 本身じゃないですか! 危ないですよ!?」


 その瞬間、石舟斎が動いた。

 踏み込み、踏み抜き、全霊を込めた一太刀が弾九郎に襲いかかる。咄嗟に躱そうとした弾九郎だったが、一瞬のためらいのせいで躱しきれず、切先が左腕をかすった。


 一閃。


 道場に血の香りが立ち込めた。


 浅く裂けた傷から血が流れ、弾九郎は息を呑んで腕を押さえる。


「先生……」


 その目にあったのは戸惑いと、ほんの僅かな哀しみ。だが、すぐに覚悟を宿した光がそこに宿った。


 彼は木刀を握り直す。両の掌に汗が滲むが、それを気にもとめぬように。


「殺す気で来い。でなければ、儂がお前を殺す」


 石舟斎の声には、もはや師の慈愛はなかった。あるのはただ、研ぎ澄まされた一人の剣士としての本能──死を賭けた闘いを渇望する者の声だった。


(……もう、自分はこれ以上強くなれまい)


 四十九。

 未だ腕に衰えはない。だが、剣士としての自分の「頂」は、もう手にしてしまったという実感がある。どれだけ稽古を重ねても、そこから先へは行けぬ。上泉信綱から託されたあの少年──来栖弾九郎──あの時から何かが違った。剣の天稟、野性、そして深淵。見抜けなかったのは己の驕りか、盲目だったのか。


(強者の剣に斃れるならば、それこそが我が本懐──)


 それは、剣に生きた男の願い。戦いの中で死に、剣の中に生を終える──それが、石舟斎の望んだ剣客としての最後だった。


「──ヒュッ」


 風が吸い込むような微かな息吹。その刹那、木刀が閃いた。


 弾九郎の一撃は、正確無比に石舟斎の刀の付け根、刀身を柄に固定する(はばき)を打ち砕いた。

 鈍い衝撃が全身を駆け抜け、思わず石舟斎は手元を崩しかける。そして次の瞬間、信じがたい光景が目の前に広がった。


 刀身が、ずるりと柄から抜け落ちたのだ。金属の音が道場の床を叩く。

 鎺は砕け、目釘も粉砕され、柄までもが割れていた。


 たった一撃で、武器を奪われた。

 たった一太刀で、戦う資格を消された。


 石舟斎は、その場に崩れ落ちた。肩で息をしながら、床を見つめる。


(ここまで……あるのか……)


 弾九郎は己よりもはるか先にいる。生涯を剣に捧げても尚、その背中すら見えないほどの先に。

 石舟斎が願ったのは己の死。出来れば、このまま頭を割ってほしかった。骨が砕け、脳が飛び、そこに全てを終わらせたかった。だが──。


 振り返ると、弾九郎の姿はなかった。


 風が吹き込む。夕焼けが道場の柱に影を刻み、赤く沈んでいく。

 石舟斎は、その場で拳を握った。震える指先、噛み締めた唇。


(なんという……なんという、愚かさだ……儂はなんということを……)


 悔しさと、喪失と、焦燥と絶望。幾重にも重なった感情が、胸の奥で渦を巻く。

 きっと、弾九郎はもう戻らない──その確信が、心を冷たく締めつけた。


 その夕暮れ、戦国時代を代表する剣豪、柳生石舟斎は、誰にも見られず膝をつき、かつてない敗北の痛みに打ち震えていた。


 *


 弾九郎は森を駆けた。

 月が昇り、星がまたたく。山の向こうから冷えた夜気が下りてくる。


(もう……柳生の里にはいられない)


 石舟斎の願いに応えられなかった。命をかけた決闘に、刃ではなく「拒絶」で返してしまった。その行為がどれほど剣士としての誇りを傷つけたか──弾九郎には痛いほど分かっていた。


 だが、それでも、殺せなかった。

 石舟斎を、父のように慕ったその男を。


 草を踏む音だけが、森に響く。胸が締め付けられる。

 涙は出ない。ただ、息が苦しかった。


 空を見上げると、満天の星が冷たく瞬いていた。

 その星々を、弾九郎は忘れないだろう。あの夜、自分がすべてを失った夜の、証として──。

お読みくださり、ありがとうございました。

石舟斎は当時、多くの門弟を抱え、柳生新陰流の開祖として重い責任を担っていました。

しかし、弾九郎の底知れぬ実力に触れたとき、剣士としての本能を抑えることができなかったのです。

一方の弾九郎は、石舟斎の願いに応えられなかったことを深く悔やみ、その思いを生涯忘れることはありませんでした。

次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。

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