第40話 孤剣の影
弾九郎は常陸国(茨城県)、深い山と湿地の入り混じる来栖郷に生まれた。四方を包む木立は春夏には濃緑に覆われ、秋には錦のような紅葉が谷を染め上げるが、冬ともなれば、枯れ枝の隙間から忍び込む風が家々を突き刺すように吹き抜ける。そんな地に根を張る郷士、来栖氏の一族の血を引く者として、この世に現れた。
だが、彼を迎えた世界は静かで冷たかった。母・奈津は、産後の身を病み、弾九郎が産声をあげて間もなく命の火を消した。赤子の彼には当然、母のぬくもりも、声も、微笑も記憶にはない。残されたのは、ただ「奈津」という名のみ。その名は彼にとって、遥か遠い春の日のように淡く、どこか夢の中の言葉のようだった。
父は、あの塚原卜伝──剣聖と称された男だという。しかしそれは、村人の語る昔語りに過ぎぬとも思えた。何しろ、卜伝が来栖郷を訪れたのは一度きり。隠棲していた鹿島を離れ、数日だけこの地に滞在したという。その折に奈津が伽を務め、弾九郎を身籠ったとされるのだが、当時の卜伝はすでに七十二歳。果たしてそれが真実なのか、弾九郎自身も半信半疑だった。
だが一つだけ、心に引っかかる事実がある。卜伝はのちに、愛弟子・上泉信綱に「この子のこと、頼む」と弾九郎の養育を頼んだという。ならば──卜伝の中にも、何らかの確信があったのだろうか。あるいは、老いの身で遺す最後の責任として、せめてもの情けだったのか。
弾九郎はふと、冬の枯れ野に立ち、耳をすませる。風の音、草のささやき、どれも己の心に問いかけるように感じられる。「お前の父は誰だ」と。それに答えられぬ自分が、なによりも寂しかった。
*
上泉信綱のもとで過ごした十年は、弾九郎にとって世界のすべてだった。
師の屋敷は、朝な朝な霧が立ち込める静かな谷あいにあり、竹林を吹き抜ける風が一日中サラサラと音を立てていた。そこでは毎朝、まだ夜の気配が残るうちから竹刀の音が響き、土の匂いと汗が絶えることはなかった。弾九郎は、剣の型と共に、生きる術を学んだ。信綱の動きひとつ、言葉の端々にまで、幼い彼は目を凝らし、耳を澄ませていた。
旅もまた、弾九郎にとっては冒険だった。各地の城下町や村、山道を歩きながら、信綱は彼に様々な剣豪たちを引き合わせた。その道すがら、信綱はしばしば人々にこう語った──「この子は我が師、塚原卜伝の落胤にして麒麟児なり」と。
そのたびに弾九郎の胸は、誇らしさと照れくささに熱を帯びた。自分にそんな価値が本当にあるのかはわからなかったが、信綱の言葉は胸の奥深くに灯る小さな火のように、心をあたためてくれた。
だが、十歳を迎えたある初夏の日。庭に咲いた山吹の黄色がやけに鮮やかだったあの日、信綱は弾九郎を柳生石舟斎のもとへ預けることを決めた。
理由は語られなかった。ただ、「これからは石舟斎殿のもとで己を磨け」とだけ、静かに告げられた。
それ以上は聞けなかった。いや、聞いてはいけない気がした。
その年、信綱は故郷・上野国(群馬県)へ戻っている。病の気配を感じてのことか、それとも、何かを悟った末の帰郷だったのか。弾九郎にはわからなかったが、師が自分を遠ざけたのは、見捨てたからではないと信じていた。むしろ──もっと大きな器へと導くための、深い思慮の末の決断だったのだと。
けれど別れ際、師の背中を見送ったあの瞬間。胸の奥には、言葉にできぬ寂しさが残った。初夏の風は優しく吹いていたが、幼い弾九郎には、それがどこか、冷たく思えた。
*
こうして、柳生庄での暮らしが始まった。
大和国(奈良県)の山間にひっそりと佇むその里は、朝靄が谷を包み、木々の葉が風にそよぐ音が静けさを際立たせていた。木造の道場は年月を重ね、柱には稽古で刻まれた傷が幾重にも重なっていた。冷たい井戸水で顔を洗い、薪を割って湯を沸かし、竹箒で庭を掃き清める。弾九郎は剣の稽古だけでなく、掃除、洗濯、食事の支度と、あらゆる雑事に自ら手を出し、黙々と働いた。
それはただ与えられた役目を果たすというだけでなく、この場所に「自分の居場所」を築きたかったからだ。知らぬ土地、知らぬ人々──信綱のもとで守られていた日々から放たれた弾九郎にとって、ここ柳生の地で受け入れられるには、汗を流すほかなかった。誰にも頼らず、自分で価値を証明するしかない。そんな切実な思いが、彼を動かしていた。
やがて十五の歳を迎えた頃には、彼の剣はすでに常人の域を超えていた。打太刀を務められる弟子はひとりもおらず、立ち合いでは誰もがあっけなく地に伏した。けれど、それが弾九郎の心を満たすことはなかった。
柳生の弟子たちは、皆どこか気の毒そうな眼差しで彼を見た。ある者は距離を取り、ある者はうわべだけの礼儀で接してきた。弾九郎にとって、彼らは剣の道を共に歩む「仲間」でありたい存在だった。しかし、次第にその距離は埋まるどころか、広がっていくようだった。
「なぜ、これほどまでに差があるのか」
心の奥で、何度もそう問いかけた。弟子達は手を抜いていない。誰もが早く起き、そして多く汗を流して稽古に励んできた。それでも、彼らの剣には重みも執念もないように思えた。木刀を交えれば、その軽さ、遅さ、恐れが手の内から伝わってくる。そのたびに、弾九郎の胸に冷たい孤独が降り積もった。
気づけば、道場の隅にひとり立つ自分がいた。息を切らすこともなく、ただ静かに構える。敵はいない。仲間もいない。ただ風の音だけが、簾を揺らしていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
塚原卜伝は、奈津の出産と死の報を受けた瞬間、生まれた赤子が自分の子であることを疑いませんでした。
しかし、すでに年老いた身であり、いつ命が尽きるとも限らない。
父としての責任を果たすことは叶わぬと悟り、最も信頼する弟子である上泉信綱に、弾九郎を託す決意を固めました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




