第39話 星の記憶
日が傾き、山の稜線の向こうへと朱に染まった輪郭を沈め始めた頃、一行は静かに歩みを止めた。燃えるような夕焼けが、長く伸びた影を地面に落とし、風が草を撫でるたび、どこか懐かしい匂いが鼻をかすめる。ガントロードを離脱し、野営に適した場所を探す時間だ。
この道は、通ることは許されても、長く居座ることは禁忌とされている。誰が決めたわけでもない。だが、皆が守っている。そういうものが、この世界には確かにあるのだ。
オウガは本来、時速四十〜五十キロで移動が可能だ。しかし今は、台車に荷物と人を載せている。その状態での適切な速度は、せいぜい時速二十〜三十キロ。それ以上出せば、コンテナ内の乗員に過度な負荷がかかってしまう。
朝、キルダホを発ってから、すでに十時間が経過していた。日が西へ傾く中、地平の彼方に置いてきた街の面影も、もう記憶の中に霞んでいた。およそ二百キロ。その距離は、歩いた足の裏よりも、心に静かに刻まれていく。
「今夜は少し贅沢して、お肉を焼いちゃいました」
声が弾んでいた。ミリアがエプロン姿で現れると、リビングにいた三人がぱっと顔を上げる。彼女の笑みは、まるで火の灯ったランタンのように、場をほのかに照らした。
ミリアにとって、「焼いた肉」はご馳走以上の意味を持つのだろう。豆のスープ、石のようなパン。それが日常だった少女にとって、塩気の効いた肉の香ばしさは、人生で何度目かの「奇跡」なのかもしれない。
リビングはコンテナの一階にある。空間は簡素ながらも整っており、テーブルを囲む空気にはどこか家庭的なぬくもりが漂っていた。
二階建てのコンテナが二つ。延べ床面積にすれば、畳にして八十畳ほど。二階は八畳の個室が左右に作られ、それぞれの眠る場所となっている。
前のコンテナの一階は、物資の詰まった倉庫。後ろが水回りとキッチン、そしてこのリビング。設備は簡素でも、暮らすには十分すぎる空間だ。
屋上タンクには六万リットルの水が蓄えられ、残照を受けてかすかに銀色に光っている。まるで希望の残り火を集めたかのようだ。
このコンテナと台車は、ロッソ・グラムからの贈り物だった。別れ際、彼は何も言わず、それらを手配してくれた。そして、金貨一千ギラ──。この世界では、人を雇うのに月二〜三ギラが相場である。それを考えると、ロッソの贈った現金は、まさに破格の大金だった。
*
「ダン君、こんな所にいたの? 風邪引いちゃうよ」
声のする方に振り返ると、ミリアがコンテナの屋上へのハシゴをのぼってきていた。月明かりに照らされたその姿は、どこか幻想めいていて、現実感が薄く感じられた。
「ああ、大丈夫。少し星を見ていたんだ」
弾九郎は手すりにもたれかかりながら、空を見上げたまま静かに答える。空気は冷えてきていたが、夜風はやわらかく、頬をなでるたびに遠い記憶をそっと呼び起こしてくる。
食事が終わり、眠りにつくまでの短い静寂。コンテナの中ではかすかに笑い声が響いていたが、ここ屋上は別世界のように静かだった。足元では野営地の焚き火がかすかに揺れ、焦げた薪の匂いが風に乗って漂ってくる。
「星を見るのが好きなの?」
「いや、そう言うわけではないが……」
弾九郎の目に映るのは、吸い込まれるような漆黒の空。その黒の中に、無数の星がきらめいている。まるで誰かが暗幕に針を刺し、そこからこぼれ落ちる光だけが、空を構成しているかのようだった。
「私は、星を見るのが好きだなぁ」
ミリアは弾九郎の隣に腰を下ろし、膝を抱えるようにして空を仰ぐ。その声には、懐かしさが滲んでいた。
「小さい頃はね、遅くまで起きて空を見ていて、よくお爺ちゃんに怒られたんだよ」
ふと、彼女の瞳が潤んでいることに気づく。死んだトルグラスのことを、今も忘れてはいないのだろう。思い出が胸の奥でまだ柔らかく疼いているのが伝わってくる。
「こうして星を眺めていると、俺がかつていた世界とほとんど変わらない気がするんだ」
「そうなの? ダン君のいた世界の星空もこんな感じだったの?」
「ああ。俺は天文の専門家じゃないが……たとえば、あそこに並んでる三つの星。あれは俺の世界でも特によく目立ってた。だから今でも、すぐに分かるんだ」
「へぇ……じゃあ、もしかしたらこの世界とダン君の世界は、すごく近いのかもね」
「……ただ、まったく違うところもある」
「どこ?」
「月だ」
「お月様?」
「そう。俺の知っている月は、もっとマダラだった。ウサギの姿だという人もいたが、俺にはそう見えなかった。ただ、何かの模様のようには見える……でも、ここの月はほぼ真っ白。上の方が少し黒ずんでいるだけで、滑らかな光の塊みたいだ」
弾九郎は、まるで異物を見るかのように月をじっと見つめる。どこか居心地の悪さを感じるのは、慣れ親しんだ風景が少しだけ歪んで見えるからだ。
「それに……明星が見つからない。思い当たる違いと言えば、それぐらいか」
「そっか……でも、よかった」
「よかった?」
「お星様は、ダン君の故郷と似てるんでしょ? だったら少しだけ寂しくないかなって」
その言葉に、弾九郎の胸の奥に、ひたりと温かいものが広がった。
「そうか、そうかもしれないな」
再び視線を空へと戻す。星々は変わらぬ光を放ち、静かに夜を照らしている。けれど──その輝きは、決して優しい記憶だけを運んでくるわけではない。
(そう言えば、あの時も……こんな星空だったな)
あの夜。帰れないことを悟った日。絶望の中で、どうにか感情を堰き止めるために空を見上げていた──。今、彼の目の奥に浮かぶのは、あの夜の星空と、滲む涙の輪郭だった。
お読みくださり、ありがとうございました。
コンテナ内にシャワーやトイレが設置されている場合、汚水をためる専用タンクも備えられています。
各都市の入口には汚水処理施設が整備されていますが、実際には多くの人々が川や原野へ廃棄しています。
ただし、ガントロードに廃棄することだけは決してありません。
というのも、ガントロードの汚損は多くの国で重罪とされ、厳しく罰せられるためです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




