第38話 港都へ
夕暮れが差し込むグラム屋敷の一室では、橙色の光が木の床に柔らかく伸びていた。窓の外では、風が木々を揺らし、どこか遠くで犬の鳴き声が微かに響く。部屋には、旅の準備を済ませた四人が集まり、地図もないままに行き先についての話し合いをしていた。
「ねえ、ダン君はどんなところへ行きたいの?」
問いかけたのはミリア。彼女の声は穏やかだったが、その瞳にはどこか期待と不安が入り混じっていた。
「どんなところと言われてもな……。俺はこの世界のことがまったくわからんから見当もつかん」
弾九郎は腕を組み、困ったように視線を泳がせた。この世界の空気にも少しは慣れてきたつもりだったが、地名も風習も、自分にはまだあまりに遠い。選択肢を与えられても、それを比べる基準すら持っていない自分が、どこか取り残されている気がした。
「それじゃあさ、ギルカランにしようぜ! ギルカラン! あそこの王都は大陸一のデカさだし、なんだってあんだよ~。うへへ」
ヴァロッタが手を叩きながら笑う。声の調子からして、もう心はその地に飛んでいるようだった。
ギルカラン王国──ハマル・リス大陸の誇る繁栄の象徴。王都タイル・ソイルは、まるで金と宝石で編まれたかのような豪奢な街並みと、昼夜を問わぬ喧騒が絶えない歓楽街で名を馳せていた。欲望の集まる場所。そこは、旅人だけでなく、逃げ場を求める者や、夢を買う者までも引き寄せる磁場のような都市だった。
「ダメです、そんないかがわしい所! ダン君をそんな所に連れて行けません!」
ミリアは即座に首を振った。声には苛立ちの色が混じっていたが、それ以上に強く滲んでいたのは、弾九郎への深い気遣いだった。タイル・ソイルの名は、豪奢と退廃、欲望と混沌が渦巻く都として知られている。そんな場所に、異世界から来たばかりでまだ右も左も分からない彼を連れて行くなど、考えられなかった。危うい光に照らされたその街は、あまりにも彼にはふさわしくない──ミリアは、そう思わずにいられなかった。
「……嬢ちゃんは……なんか俺に当たり強いよな」
ヴァロッタが肩をすくめてぼやくが、今度はメシュードラがまるで聞いていないように、次の提案を続けた。
「それではライヌリッシュ王国はいかがでしょう。王都リーンパスチャは大陸最古の街です。石畳の道と古都の面影が色濃く残る街並みは、まるで時間が止まったような趣があります」
「なんだよそりゃ!? そんなカビ臭えとこ行ってどうすんだよ。それに、ライヌリッシュって言やあ、大陸の反対側じゃねえか! どんだけ遠いんだよ!」
再びぶつかり合う二人。地図がなくても、彼らの口調からその距離と温度が伝わってくる。弾九郎は二人のやりとりを聞きながら、少しだけ肩を落とした。自分が口を挟む余地がない。そう感じたからだ。
「ダン君はさ、場所とかわからなくても、そうだな、何か好きなものとかある? こんなの食べたいとか、そういうの」
ミリアの声が、ふとした風のように静かに、でも確かにダンの心に届いた。押し付けではない、その優しい提案に、ダンはゆっくりと顔を上げた。
「そうだな……俺は魚が好きだから、うまい魚を食いたいな。まだここに来てからまともな魚を食ったことがないんだ」
思い出すのは、かつての世界で食べた新鮮な刺身、干物、そして港町で嗅いだ潮の匂い。ここではまだ、それを感じることはなかった。
「魚……?」
「魚と言えば……」
二人の目が輝いた瞬間、初めて意見が一致する。
「グリシャーロット!」
名を呼ぶその声には熱がこもっていた。
港湾都市グリシャーロット──アイハルツ九王家の一つ、ヤドックラディ王国内でも特別な自治を与えられた、漁業と交易の都。潮の匂いが染み込んだ石畳の路地、市場に並ぶ色とりどりの魚介、夜になれば灯台の光が海を照らし、波音が静かに響く。そこは、旅の始まりとして、あまりにも相応しい場所のように思えた。
「まあ、グリシャーロットならいいんじゃないか。ここから割と近いし」
「私も賛成です。旅に慣れるためにも妥当な目的地かと」
「じゃあ決まりだね!」
決まった。ようやく四人の気持ちが一つに重なった瞬間、部屋の空気がふっと軽くなる。
窓の外、暮れかけた空に一番星が瞬いていた。新たな旅の幕開けは、もうすぐそこだった。
*
バーラエナが通るガントロードは、まさに世界の動脈と言うべき存在だった。幅は二百メートルにも及び、地面は分厚い石が敷き詰められ、まるで一枚岩のような堅牢さを誇っている。何世代にも渡って踏み固められてきたその道は、陽の光を浴びて微かに銀色に輝き、遠くまで真っ直ぐに続いていた。
この道が損なわれたならば、修復は領主の最優先事項とされている。その理由は明白だ。ガントロードが完璧でなければ、あの「バーラエナ」が通らない。彼らの来訪は一年に一度あるかどうかの稀な出来事だが、その存在感は絶大で、道そのものが神殿のような意味合いすら帯びていた。
もっとも、バーラエナの通行が無い間は、ガントロードは人々の日常を支える道となる。東から西へ、北から南へ、あらゆる命と交易の流れがここに集中する。
弾九郎たち一行もまた、その壮大な道の一部となって歩いていた。広大な空の下、遠くまで続く石の道を踏みしめながら、彼らはグリシャーロットを目指していた。
その道中、何度となくオウガとすれ違った。巨大な鋼の獣のような機械であるオウガたちは、黙々とコンテナを曳いている。一機で悠々と進むものもいれば、何台も連なり、まるで陸の船団のように隊を成していた。
その姿は壮観だった。ときに地響きを立てながら通り過ぎていくオウガたちは、まるでこの世界の大地そのものが意思を持ち、動き出したかのような錯覚すら与える。
中には装飾が施されたコンテナもあり、明らかに「家」として使われているものもあった。窓から光が漏れ、小さな庭のようなスペースまで備え付けられている。そこに住む者たちは、旅先で野宿する必要もなく、まるで生活そのものを運んでいるようだった。
「戦乱が絶えないと聞いていたが……俺のいた場所と違って、旅はしやすいのだな」
弾九郎は、すれ違ったオウガの隊商を見送りながら、ぽつりと呟いた。
目の前に広がる果てのない道。その先にあるものはまだ分からない。だが、この道を進めば、何かに辿り着ける。そんな確信が、彼の胸に小さく灯った。
お読みくださり、ありがとうございました。
コンテナのサイズはオウガの横幅に合わせた規格で設計されており、牽引に最適です。
台車にはリアカーのような形状のものもあり、横に三個、縦に三個、長さ方向に四個、合計三十六個のコンテナを積載できます。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




