第37話 朝靄の出発
キルダホは、まるで千々に乱れた布のように混迷していた。戦の勝利の余韻はすでに薄れ、街中に不穏な空気が漂っていた。ナハーブンとの激戦を制したにもかかわらず、停戦の証たる条約は結ばれておらず、戦は終わっていない。人々は安堵を口にしながらも、心の奥底では再び鳴り響くであろう戦鼓の音に耳を澄ましていた。
そんな中、突如として伝えられた国王グンダ・ガダールの自裁──それは、まさに王国の命脈を断ち切る凶報であった。彼の死がもたらした衝撃は、地震のように宮廷の隅々まで揺らし、政を司る者たちの表情を引きつらせた。
グンダ王は、王位を得るためなら親族すら容赦なく粛清してきた冷酷な男だった。兄弟も、いとこも、そしてその子らも、彼の前では命の保証はなかった。その王に子がいなかったという事実が、皮肉にも今、王国の混乱を決定的なものとしていた。王家の血筋は急速に途絶えかけ、王座には空白が生じていた。
貴族たちは苛立ちを隠せぬまま、目を逸らすようにして一人の老いた男に視線を集めた。アルド・ガダール。グンダの大叔父にあたるその人物は、七十二の齢を重ねた温厚な老人だった。政の駆け引きなど一度も興味を持ったことがなく、唯一の趣味は銀の食器を収集すること。王の器ではない──誰もがそう思いながらも、他に誰がいるのかという問いに、誰一人答えられなかった。
王宮の広間には、老いたアルドの足音が虚しく響いた。人々の視線が突き刺さる中、彼はただ黙して玉座に座る。その姿には、威厳も気迫もなかった。だが、それが逆に、疲弊した臣下たちの心をわずかに和らげもした。今、彼らに必要なのは強き王ではなく、ただ混乱を鎮める象徴だったのかもしれない。
宰相はすでに動いていた。アルドの名で、トレフロイグの王・モツィ・イブスに和平の仲介を依頼する使者を送り出していた。外交の舞台において、アルドの人脈が最後の綱となるかもしれない。彼が若き日に築いた数少ない友情、それが今になって王国を救う鍵となるとは、誰が予想しただろうか。
一方、敵国ナハーブンの王、グーハ・リースは深く震えていた。敗北の痛手もさることながら、アヴ・ドベックの底知れぬ力に怯えていたのだ。無敵の傭兵団、マーガ三兄弟──その名を聞けば泣き止む子供もいるほどの猛者たちを、一日にして屠った「ダンクルス」の存在は、まさに戦神そのもの。その化け物が敵にあるというだけで、ナハーブンはこれ以上の戦を躊躇せざるを得なかった。
「和平は成るだろう」と、人々は口にする。だが、その言葉の裏には、戦の炎が再び燃え上がるかもしれぬという不安が、燻るように残されていた。
*
キルダホの城外、北の方角に広がるマクドゥダの森は、春の訪れを告げるにはあまりに静かだった。葉のざわめきすら遠慮がちで、空には淡い雲が流れている。湿った土の匂いと新芽の香りが混じるその奥深く、ひっそりと新たな墓所が築かれていた。
そこには、まだ風雨に晒されていない真新しい墓石が並んでいる。その一つの前で、弾九郎とミリアは静かに跪いていた。空気はひんやりと澄み、二人の吐く息だけがかすかに白んで見えた。
「……トルグラス殿、さぞ無念だったろう。だが、これからは貴殿に代わってミリアを守る。だから、どうか安心してくれ」
弾九郎の声は低く、しかし確かだった。言葉の節々に、深い敬意と悔恨が滲んでいた。彼は墓石にそっと手を添える。
ミリアはその隣で、黙って目を閉じていた。風が静かに彼女の髪を揺らす。トルグラスの不器用な優しさ、頑強な背、そして共に過ごした日々。それらが胸に蘇り、唇を固く噛む。
二人が立ち上がると、森の入り口でヴァロッタとメシュードラが待っていた。ヴァロッタはいつもの調子で皮肉混じりに言う。
「それにしても弾九郎、トルグラスはともかく……あのマーガ三兄弟の墓まで建てる必要は無かったんじゃねぇか? あいつら、敵だったろ?」
その言葉に、弾九郎は肩をすくめながらも穏やかに応じた。
「いいんだ。彼らが命を賭して戦ってくれたからこそ、俺はグンダ王の首を刎ねることが出来た。……その点では、十分に恩人だ。だから、せめて弔いぐらいはしなければな」
ヴァロッタは目を細めたが、これ以上は何も言わなかった。あくまで自分とは違う価値観──だが、そこには揺るがぬ信念があった。
そして、少し後ろに控えていたメシュードラは、黙ったまま弾九郎の横顔を見つめていた。彼の眼差し、言葉の重み、そして死者を悼むその姿に、かつて仕えてきたどの主とも違う何かを感じていた。
(この男はただ剣が強いだけじゃない。力の使い方を知っている。……いや、それだけじゃない)
メシュードラの胸に、静かな確信が生まれていた。理想とは程遠い時代にあって、正しきものを見失わぬ眼を持つ──そんな男に、全霊を持って仕えよう。剣を預ける価値が、確かにある。
*
この世界では、ガントによる流通網だけでは到底賄いきれないほど、商いが活発に行われている。街と街、村と村、そして時には国家同士までもが物を売り買いし、世界は絶え間ない往来の息づかいに満ちていた。人と物は血液のように大地を巡り、さながら巨大な生命体のように文明を維持している。静かな港町の市場から、喧噪の砂漠都市の交易所まで、あらゆる場所で商売は脈打っていた。
その中心にあるのが、オウガによる移動手段だった。十八メートルを超す巨体が、複数のコンテナを連結した重厚な台車を引く姿は、まさに「動く要塞」と呼ぶにふさわしい壮観だった。もちろん、オウガの背に人が乗るわけではない。そんな無粋な真似はされない。この巨人たちは従順に台車を曳き、人々はその上に設えたコンテナに身を預けて旅をする。
標準の輸送コンテナ──六メートル四方の鉄骨立方体。最大容積は百九十五立方メートルを誇り、現代の四十フィートコンテナのほぼ三倍に当たる。内部には居住用に改装された豪華な部屋から、簡素な寝台と食糧庫まで多種多様な仕様が存在し、旅人は己の財布と必要に応じてそれを選ぶ。中には、まるで移動式の屋敷のような豪奢なコンテナを牽かせる貴族もいれば、簡素な箱の中に薪ストーブと寝袋だけを積み込んだ放浪の剣士もいる。
朝靄の残るキルダホの街外れ、静かに大地を震わせながら三体のオウガが歩き出す。腰に連結されたベルトで曳かれる台車には、旅用に改装されたコンテナが二つ、連結されていた。艶やかな黒の外装には、移動の汚れがまだ付着していない。新品同様のそれは、旅立ちの清々しさを象徴しているかのようだった。
そのコンテナに、弾九郎たちの旅は託されていた。内部には必要最低限の荷物、食糧、寝具、そして居住空間が整えられている。弾九郎は、出発の準備を終えたそのコンテナを眺めながら、静かに息を吐いた。
(……ようやく、出発だな)
激動の日々が過ぎ去り、ようやく訪れた一時の静寂。だが、彼の胸には油断も安堵もなかった。旅は新たなる戦いの予感を孕み、道の先にはまた、誰かの命を懸ける選択が待っているかもしれない。それでも、進まねばならない。ミリアを連れて、守るべき者を背負って。
ミリアはコンテナの中の小窓から顔を覗かせ、柔らかな瞳で遠ざかる街を見つめていた。そこには、かつての住処も、戦の残響もあった。それでも今、彼女の顔には決意が浮かんでいる。過去を背負って、未来に向かう者の顔。
オウガの足が、またひとつ大地を踏みしめる。その一歩一歩が、確かに世界を繋ぎ、旅人たちを次なる場所へと運んでいく。地平線は遠く、道は果てなく続いていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
作中に登場するコンテナは、オウガと同じくオーバーテクノロジーによって製造されており、通常の使用で壊れることはほとんどありません。耐久性は極めて高く、厳しい環境でもその機能を保ち続けます。
また、これらのコンテナを居住用に改造できるのはバーラエナのみであり、そのためガントではバーラエナ製の規格品を複数取り扱っています。
旅人は用途や予算に応じて、さまざまなタイプのコンテナを選ぶことができます。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




